加藤秀俊 一年諸事雑記帳(下) 7月〜12月 目 次  七  月  八  月  九  月  十  月  十 一 月  十 二 月 この本はつぎのようなばあいに役立ち|ません《ヽヽヽ》 [#ここから1字下げ、折り返して3字下げ] 一 学術論文、またはそれに準じた学問的著作に利用しようとするとき 一 体系的な歴史法則を発見しようとこころみるとき 一 秩序ある思考を展開させようとするとき 一 冷静な思索を妨害されたくないとき 一 ものごとの必然性を信じたいとき。または信じなければならないとき 一 人生いかに生きるべきか、についての指針をもとめるとき 一 笑うことが許されず、または笑うことが不適切であるような厳粛な儀式、会議などに参加しているとき 一 特定の政党やイデオロギーを支持しなければならないとき 一 この本を読むことについての、正当な理由を説明しなければならないとき 一 自らの社会的立場、趣味などについて、他人から疑念をもたれたくないとき [#ここで字下げ終わり] [#地付き]著者敬白    (なおどのようなばあいに役に立つかは上巻参照のこと) [#改ページ]   七  月   7月1日 ■櫓から天守閣へ■日本の城郭建築の歴史のなかでの最大の技術革新は天守閣を城の中心に据えたということであろう。もちろん、それまでの城にも見張台としての櫓《やぐら》はあった。しかし、天守閣というきわめて象徴性の高い建造物が出現したのは一六世紀になってからだ。その第一号は一五七六(天正四)年七月一日、織田信長のつくった安土城の天守閣である。もっとも、これには異説があって、それ以前に摂津伊丹城に天守閣があったともいう。  天守閣はひろく四方を見わたすための監視塔でもあったが、同時に、その四面の壁に天照大神や孔子を祭った神聖な場所でもあった。もちろん、城郭であるから、攻撃にたいする防御手段も多少は講じられていたけれども、どちらかといえば天守は象徴であった。天守に火を放つ、あるいは天守が落ちる、というのは、そのままその城の敗北を意味した。  ところで、なぜ天守閣というものがつくられるようになったのであろうか。ひとつには築城技術の進歩があるが、ひとつにはキリスト教からの影響も無視できない。ポルトガルの宣教師たちは、不充分ながら教会をつくったし、ヨーロッパの城や教会の図面などを日本のエリートたちに見せたにちがいない。じっさい、一般には天守閣と書くが、書物によってはこれを天|主《ヽ》閣と書いている。天主というのはラテン語のデウスにたいするあて字であり、ひょっとすると、西洋の聖堂にあたるものを模倣したのが天|主《ヽ》閣になったのではないか、ともかんがえられる。すくなくともこの象徴的建造物ができてから、日本の城はそのなかに聖なる空間をもつことになったのである。 ■通貨となったウイスキー■アブラハム・リンカーンは、よく知られているように、中西部の農村の出身で、かれの父はまだ荒野にちかかったインディアナに入植した開拓者であった。この入植時の記録をみて興味をそそられるのは、「二〇ドルの現金と一〇樽のウイスキー」がその基本財産であった、ということだ。一〇樽のウイスキーというのはかなりの量だが、べつだん、かれがアル中だったというわけではない。当時の西部では、ウイスキーが通貨として流通していたからなのである。じっさい、この基本財産は、リンカーンの父が、ケンタッキーの農場を売り払ったときの「代金」だったのであり、このウイスキーによって、かれはインディアナの土地を買ったのであった。  じっさい、ウイスキーの通貨価値はひじょうに高く、たとえば一ガロンのウイスキーをもってゆけばインディアンから大鹿の毛皮を一頭ぶん買うことができた。ふしぎといえばふしぎな話だが、開拓時代のアメリカ西部の経済はそんなふうにしてうごいていたのである。  ここにいうウイスキーというのは、もちろん、とうもろこしを原料にした純粋アメリカ製のバーボン・ウイスキーである。バーボンをはじめて作ったのが誰であるかはさだかでないが、商品としてのウイスキー蒸溜所を最初につくったのは一七七一年、ケンタッキーのエバン・シェルビイなる人物であった、とされている。  ところで、どこの国でもそうだが、国家財政が苦しくなると酒に税金をかける。アメリカでも一七九一年七月一日、ウイスキーヘの課税が連邦議会を通過した。もちろん、バーボンの本場ケンタッキーでは大反税運動がおこり、税吏は行く先々で暴行をうけたり、いやがらせをされたり、結局、実質的に徴税はできなかった。この課税は一八○○年に撤廃されている。 ■観光タバコと記念タバコ■記念タバコは行事のPRを主な目的として売り出すもので、大正四年に大正天皇即位大典記念に出したのが最初である。それに対して観光タバコは地方自治体が消費税の収入を増やそうとして出すもので、戦後の産物である。その第一番目は「富士箱根伊豆国立公園」と「南房総国立公園」の二種で、昭和四七年七月一日に発売された。どちらも銘柄はハイライト。前者は神奈川、山梨、静岡の三県で、後者は千葉県内でだけそれぞれ売り出されている。 ■ふたつのビキニ■アメリカがビキニ環礁で原爆実験をしたのは一九四六年七月一日のことだったが、その四日後にパリのデザイナー、レアードは、いわゆる「ビキニ」の水着を発表した。レアードは、原爆もこのあたらしい水着も、ともに「窮極」という共通の特徴をそなえている、という連想からこう命名したのである。かれのデザインになる最初の「ビキニ」は木綿製で、新聞の紙面のプリント模様であった。モデルになったのはダンサーのM・ベルナルディ嬢で、彼女のもとには合計五万通のファン・レターがとどいた。   7月2日 ■タダ乗り風船旅行■気球による飛行は、多くの発明家によって実験されてきたが、本格的な飛行船は、ガソリン・エンジンを推進力として用い、また、硬い骨組みを使って組み立てられたツェッペリン号をそのはじまりとする。かれの第一号飛行船は一九〇〇年七月二日にはじめて空にとびあがった。この試験飛行はみごとに成功し、一九〇九年には、世界最初の航空輸送会社DELAGが設立され、ドイツ国内各地をむすぶ航空路線がひらかれた。この会社は、一九一〇年から一四年までの五年間に、およそ三万五〇〇〇人の旅客を運んだ。ただし、この旅客の中で、正規の運賃を払ったのは一万人ほどであって、したがって、大部分の旅客は、なんらかのかたちで、タダ乗りをしていた、ということになる。 ■暗殺と冷房■第二〇代アメリカ大統領ジェームズ・ガーフィールドは、一八八一年七月二日に、暗殺者の凶弾をうけてたおれた。さっそく、医師団が瀕死の大統領の診察にあたったが、ワシントンの夏はやたらに蒸し暑く、どうにも我慢できなかった。大統領夫人は、そこで、なんとか部屋の温度を下げることはできないか、と側近に相談したところ、鉱山技術者のドーシーという人物が、鉱山の換気装置の経験をもとに、コンプレッサーを使って、即席の冷房装置を病室にとりつけ、室温を外気温より数度下げることに成功した。これがこんにちのクーラーの原型である。 ■亀の子タワシの発明■鍋や釜の汚れをとるためのタワシはむかしは切藁《きりわら》などともいった。要するに、硬く粗い繊維をにぎって金属面をこする、というていどのこと。ところが、このタワシの材料としてヤシの繊維を使い、一定の長さにそろえて二本の針金でとめ、それを楕円型に巻いた「亀の子タワシ」を西尾庄左衛門という人が発明、一九一五(大正四)年七月二日に特許を得た。   7月3日 ■宣教師とお茶■一五四九(天文一八)年七月三日、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に到着した。ザビエルはスペインのフランス国境にちかいナバラ王国の名門に生まれたが、心中期するところあってイエズス会を創立し、インド、モルッカ諸島などで宣教活動に従事。たまたまマラッカで会ったアンジロー(あるいはヤジロー)なる日本人と知りあってから日本への伝道を思い立ち、こうしてはるばるとやってきたのだ。しかしザビエルは、日本で二年以上をついやしながら、一〇〇〇人ほどの信徒しかあつめることができず、再起を期していったんインドに戻った。  しかし、ザビエルのあとも続々と宣教師がやってきて布教につとめるとともに、日本とヨーロッパとの文化接触の接点となった。かれらは多くのものを日本にもたらしたが、同時に日本からもいくつかのものを学んでいったようである。そして、そうした日本から西洋に流れたあたらしい文物のなかでとくに重要だったもののひとつにお茶がある。なかでも、J・ロドリゲスは日本研究者であり『日本教会史』の著者として名高いが、その書物のなかで茶および茶道になみなみならぬ関心をしめしている。かれは、茶の効用を論じてつぎのようにのべた。 「茶は食物の消化を助け、食べすぎて苦しい胸中をさわやかにし、消化をすすめ、胃を丈夫にする。……とりわけヨーロッパ人の食事は固いから、ヨーロッパ人の消化薬として茶は最高である」 「茶は眠気を去り、頭痛を却《しりぞ》ける。また胃、背中、関節などの痛みに効く、寒さや暑気払いにもよい」 「茶は不要のものを尿として大量に排泄《はいせつ》させる。茶をよく飲むから中国と日本には疫病がない。食事のあとに茶を飲めば胃をととのえ、不機嫌の原因になる余剰物を排泄する」 「結石症や尿滴症にたいして茶は大きな治療効果がある。中国と日本にはこれらの病気が存在していないのは茶のおかげである」  こうしたロドリゲスの喫茶礼讃は、のちにヨーロッパ人が茶にたいして抱いた、あの情熱をそだてる温床になった。一九世紀末までつづいたヨーロッパ人の東洋でのお茶獲得競争は、宣教師たちのお茶にたいする関心がその導火線になっていたのだ。ロドリゲスは茶道についてもこういっている。 「この茶の道を業とする人びとはいんぎんで教養あり、謙譲で、その行動は丁重に、身心ともに平静・沈着であり、外に傲慢、不遜をあらわさず、世俗的生活のゼイタクを避け、むしろ隠者の孤独にふさわしい、いつわりのない質朴を旨とする」  茶の作法についてもこれだけ深い洞察をもっていたわけだから、茶にまつわる神秘性はいよいよヨーロッパ人の心のなかで深まっていったのであった。   7月4日 ■アメリカの初代大統領■一七七六年七月四日、アメリカ東部一三州の代表がフィラデルフィアにあつまり、独立宣言に署名した。そのゆえに、きょうはアメリカの独立記念日ということになっている。  さて、それでは独立したアメリカの初代大統領は誰であったのか。そんなことは常識であって、子どもでもジョージ・ワシントンと答えるであろう。しかし、これはまちがいである。ワシントンが大統領に就任したのはそれから一三年後の一七八九年四月のことであって、じっさいにはメリーランド州代表のジョン・ハンソンが連合規約によって一七八一年に大統領にえらばれている。ハンソンは大統領名でアメリカ軍総司令官ジョージ・ワシントンに手紙を出し、ワシントンはハンソン大統領に宛てた返信をのこしている。ワシントンは初代大統領ではなかったのだ。 ■ふたりの前大統領■アメリカの第三代大統領トマス・ジェファソンは、一八二六年、もう八三歳の老人であり、すでに大統領の座をしりぞいていた。この年の春ごろ、かれは消化器の病いにかかり、みずからの余命のいくばくもないことを予知していた。ただ、かれの唯一のねがいは、独立記念日たる七月四日までどうにか生きのびること。とりわけこの年は独立宣言の五〇周年だったから、七月四日は特別の意味をもっていた。意識は混濁していたが、かれは側近に毎日のように、「きょうは七月四日か?」とききつづけた。やがて七月四日がやってきた。ジェファソンは、またもやおなじ問いを投げかけた。側近が、「はい、七月四日になりました」と答えると、ジェファソンは満足げなほほえみを浮かべ、そのまましずかに永眠した。  このおなじ日、ジェファソンより七歳年長のジョン・アダムス(第二代大統領)も死んだ。むかしからの親友であるジェファソンを想いながら、アダムスは、「ジェファソンはまだ生きるさ……合衆国よ永遠なれ」という最後のことばをのこして死んだ。だがジェファソンのほうがアダムスより数時間まえに死んでいたのである。建国五〇周年の独立記念日は、かくのごとく、ふたりの前大統領の死によって飾られたのであった。 ■イナサの浜■出雲半島の西端はイナサの浜と呼ばれる。一般には稲佐浜という文字があてられているけれども、正しくは否諾浜、つまり、イエスかノーかの浜、という意味だ。例の国ゆずり伝説で、外来の神さまが土着の神さまにイエスかノーかを問われたのがこの浜、ということになっている。  対馬海流のおかげで、この浜にはいろいろなものが打ちよせられる。外来の神さまも、そんなふうにして日本にいらっしゃったのかもしれない。この浜に一一一〇(天仁三)年七月四日、長さ三〇メートル、直径三メートルという大木が一本漂着した。そこに神託があり、この木は出雲大社造営のためのものである、これで社をつくれ、という声がきこえた。その声の主が、どこのどういう神さまであるのかはわからないが、その神託どおりに正殿の造営にこの木を用いた。一一一五年の遷宮がそれであって、これは「寄木の造営」として知られている。   7月5日 ■安く買った土地■きょうはアルジェリア独立記念日。アルジェリアは、フランスの植民地であったのだが、フランス人がアフリカで領土を手にいれた方法はときとしてむちゃくちゃであった。たとえば、セネガルのばあい、C・モンティル陸軍中佐は、当時の金でおよそ四〇〇万円をふところに、一八九〇年セネガル地方に入っていった。かれにしたがうのは一二名の兵士だけ。行く先々でかれは、土地所有者たる曾長たちに土地売買の契約書を突きつけて土地を買収した。かれは二年がかりでジャングルのなかを八○○○キロ歩き、フランス本国の面積の一四倍もある土地を、そっくりそのままフランス領にしてしまったのである。その価格は、一〇平方キロにつき三円。かりに当時とこんにちの貨幣価値のあいだに一〇〇倍のひらきがあると仮定してみても、一○平方キロで三〇〇円。われわれのチマチマした単位になおすと、一〇〇平方メートルでわずか三銭。こんな安い土地買収はめったにあるものではない。 ■日本の大砲■佐賀藩士杉谷雍介は、一八四七(弘化四)年に、オランダの鉄の鋳造技術書を読み、三年後に、この本の記述にしたがって鉄の大砲をつくることに着手した。原料の銑鉄は岩見から、燃料の木炭は日向と肥後から、そして鋳型や反射炉用の耐火石材は天草から、といったふうに、西日本各地から材料をあつめて実験してみたが、なかなかうまくいかない。結局、合計三〇回あまりの実験の末、一八五二(嘉永五)年七月五日に、四台の反射炉から合計一万二〇〇〇斤の鎔鉄を得た。そして、翌年五月には一八○ポンド砲と一五〇ポンド砲が完成した。折しも、ペルリ艦隊の来航の年である。幕府は、佐賀藩に対して、さしあたり大至急で三六ポンド砲二五門、二四ポンド砲二五門を発注した。この佐賀藩における鋳造の成功に刺激されて、薩摩、水戸などの雄藩もつぎつぎに反射炉をつくった。江川太郎左衛門の有名な韮山の反射炉も佐賀藩のものにならってつくられたものであった。   7月6日 ■ワクチンのはじまり■さまざまな伝染病にたいして免疫をつけるためにわれわれはワクチンを注射する。だが、そもそも、ワクチンということばの語源になっているのはラテン語の Vacca すなわち雌ウシのこと。それは種痘に使う痘苗に牛痘にかかった雌ウシの皮膚を使ったからだ。そして、ジェンナーが、牛痘にかかったことのある乳しぼりの女たちが天然痘にかかることがないという経験的事実から種痘という予防法をかんがえたことは周知のとおり。  ところで、ジェンナーが種痘を考案してから六年後の一八八五年七月六日、フランスの生理化学研究所の主任研究者であったルイ・パスツールのところに、J・メイスターという九歳の少年がかつぎこまれてきた。この子は不運にもその二日まえ、狂犬にからだじゅうを噛まれて身もだえしている。このままほうっておいたら、遠からず死んでしまうにちがいない。メイスター少年の両親は、パスツールがワクチンを研究し、動物実験に成功しているということをききつたえてやってきたのだ。  たしかに、パスツールはジェンナーの啓示をうけてさまざまなワクチンを開発した。たとえばニワトリのコレラにこころみ、さらにヒツジの脾脱症にもこころみた。いずれも大成功である。そこでつぎに手をつけたのが狂犬病。狂犬病にかかった犬にワクチンを注射して治療することもできたし、予防ワクチンとして使用することも可能だった。病源体はパスツールのつくったワクチンでみごとに散ってしまったのである。だがいまここにかつぎこまれてきたのは犬ではなく人間である。しかも年齢も若い。はたしてこのワクチンを人間に注射して効果があるものかどうか。いや、ひょっとすると、この少年は注射で死んでしまうのではないか。  パスツールは即断を避け、同僚たちと相談した。どっちみち、ここでワクチン注射をこころみず、放っておいたらメイスター少年は死んでしまうにちがいない。たとえ万に一つの確率であってもワクチン注射で助かる見込みがあるなら、いまこそ勇気をもって少年にワクチンを注射すべきだ──パスツールは同僚たちにはげまされて、はじめて人体に狂犬病のワクチンを打った。最初は微量、そして、だんだんと分量をふやし、二週間ほど患者の様子を見つづけた。動物実験での成功からいきなり人体へ、というのは、かんがえようによっては無謀だったが、パスツールはみごとにこの治療に成功した。  フランスの科学アカデミーはパスツールのこの功績を記念して、その翌年パスツール研究所の設立を満場一致で決定した。命を救われたメイスター少年は、これが機縁となって、その後、パスツール研究所の門衛としてその一生を終えた。   7月7日 ■ロックフェラー物語■一八七〇年、ジョン・ロックフェラーはオハイオ州でスタンダード石油という会社をつくった。ちょうど自動車時代の前夜である。灯油の需要も多かった。かれの事業は成功し、五年後にはクリーブランドに精油所をつくり、さらに一八七八年には、ロックフェラーはアメリカの石油業界の八五パーセントを支配することになった。  なぜこんなことが可能であったかというと、ロックフェラーは産油地から各地にのびる鉄道網をぜんぶおさえていたからである。鉄道と石油をにぎったロックフェラーはまさしくアメリカの実権者。しかし、こんな独占はひどすぎる、というので独禁法にひっかかり、一八九二年に法廷はこの財閥の解体を命じた。  ロックフェラーも敗けてはいない。ニュージャージーにあらたにスタンダード石油会社をつくり、この会社が持株会社になって、いったん解散させられた巨大財閥の末端までを支配することになった。ふたたび公正取引委員会がうごきはじめ、一九一一年にまたも解体命令。しかし、それにもかかわらず、エクソン、シェブロン(カリフォルニアのスタンダード石油)、モービルなどの大手石油会社はロックフェラー一家の支配下にある。  一九三七年にロックフェラーは死んだが、かれは遺言のなかで、孫娘にあたるM・デ・クエバスに二五〇〇万ドルを遺贈し、のこりはロックフェラー財団の基金に繰りいれるよう指示した。他の親族はみなそれぞれに地位や財産をわけあたえているから、いまさら遺産を相続させる必要もあるまい、ただデ・クエバスだけが母に先だたれた女性であるから彼女のめんどうだけは見なければならない、というのがロックフェラーの信条だったのだ。かれの誕生日は一八三九年七月七日。ほとんど一世紀を生きた堂々たる長寿の大富豪であった。 ■七夕の起源■きょうは七夕である。説話によると、牽牛星と織女星が年にいちど天空で出あうのがこの日、とされているし、平安時代には上流の子女が乞巧奠《きちこうてん》という星祭りをしたともいうが、日本文化のなかでは、もともとお祓いの意味がつよかった。たとえば、この日、女性は髪を洗い、町家では硯や仏具を洗う。要するにお盆を迎えるにあたっての前夜祭ともいうべき清めの日が七夕というものであったのだ。じっさい、地方によっては、タナバタ馬という馬にのってご先祖さまが帰っていらっしゃる、という信仰があり、ワラでつくった馬を屋根のうえにのせたりもする。  ついでにいっておくと、七夕はもともと天の川のよくみえる初秋の行事であった。それが新暦になったものだから、七夕は梅雨どきで、星祭りにはあまり適切とはいえない。 ■ディスク・ジョッキーのはじまり■ラジオ放送のスタイルとしてディスク・ジョッキーというのがあることはご存じのとおり。要するに競馬の騎手《ジヨツキー》が馬をあやつるのとおなじように、ひとりの人間がマイクをまえに、あれこれとおしゃべりをしながら番組を進行させる、というやりかたである。この番組編成のしかたを考案し、じっさいにはじめたのはイギリスのクリストファー・ストーンなる人物。その初放送は一九二七年七月七日と記録されている。一説によると、ディスク・ジョッキーという呼びかたは一九四〇年代にアメリカ人がつくった、ともいうが、ストーンじしん、「ディスク・ジョッキー」とひとから呼ばれるのを嫌っていた、というから、第一号の栄冠はストーンにあたえられるべきであろう。   7月8日 ■ロチとプッチーニ■ピエール・ロチは、虚無的かつロマンチックなふしぎな作家であった。若くしてフランス海軍士官となり、世界各地を巡航したが、行くさきざきで女性とはげしい恋におちた。そしてその恋がそのまま小説になった。かれの第一作『アジャデ』はトルコの女性が主人公、タヒチでは島の娘ララユーとかかわりをもって『ロチの結婚』、そして日本に来たのが一八八五(明治一八)年の七月八日。ここでも一カ月の期限つきで日本女性と結婚した。この日本での生活について、ロチは「ぼくの紙の家は緑の庭のとても高いところにあって、大きな金色の仏像に守られている」と友人に手紙を出している。  この日本での経験をもとに書いた小説が『お菊さん』だ。かれの日本妻は、ほんとうは長崎の「おかねさん」だったのだが、作品のなかでは「お菊さん」であり、この小説では、結局のところ、至高の価値は恋と死である、ということになっている。一八九三年に発表されたこの小説は、フランスのみならず、ヨーロッパ全域で大きな話題になった。新興国である日本にたいする興味もあったし、なによりも作品のなかに盛りこまれている異国趣味がふかくヨーロッパの知識人に訴えるところがあったのであろう。  そうした東洋への憧憬は音楽の世界にもひろがった。まず、イタリアの劇作家D・ベラスコは『お菊さん』を下敷きにして『蝶々夫人』を書いた。それを読んでオペラ作曲家プッチーニは、さっそくそれをオペラにすることにした。すでに「マノン・レスコー」「ボエーム」、そして「トスカ」という成功作でヴェルディ以来のイタリア・オペラの名作曲家として地位をきずいていたプッチーニとしては、ここであたらしいロマンを音でえがきたかったのであろう。異国趣味を盛りこむために、日本の旋律をいれ、東洋の楽器を使い、そして、アメリカ海軍士官ピンカートンを男主人公にしたこの野心的なオペラは、一九〇四年にミラノのスカラ座で初演されたが、予想に反してたいへんな不評判。プッチーニはそれにもくじけず、楽譜を改訂し、一年以内にこれをヒットさせることに成功した。ロチからプッチーニヘとバトン・タッチされて、長崎を舞台としたふしぎな悲恋物語は、ついにひとつの古典となったのである。ちなみに日本での「蝶々夫人」の初演は一九一四(大正三)年。蝶々夫人となってソプラノを歌ったプリマドンナはアメリカ帰りの高折寿美子。なにしろ主人公が日本女性だから、このオペラは有名になるにつれて、日本の女性歌手をしきりに求めた。そういう要求にこたえて欧米のオペラ劇場で蝶々さんとして歌いつづけたのが三浦環である。彼女は一九一五年から二〇年のあいだ二〇〇〇回の公演に参加した。すくなく見積っても彼女は四日に一回の割合で蝶々夫人の舞台をつとめた勘定になる。   7月9日 ■ゆきすぎ夫婦■ロシア帝国を完成させたのはいうまでもなくピョートル大帝。その遺業を継承させるためには、より進歩した西ヨーロッパから血をいれなければならない、というので、女帝エリザベートの甥にあたるピョートル三世の王妃として、ドイツからS・アンハルト・ツェルプストを迎えた。たまたまピョートル三世となるべき人はドイツに留学中だったから、プロシャ国王フリードリッヒ大王がいわば仲人役。  ところが、結婚してみると、この王と王妃は互いにゆきすぎであった。というのは、ピョートルのほうは、留学先であったドイツがなつかしくてたまらない。ことあるごとにドイツ、ドイツとロ走り、ロシア皇帝でありながら国政についてはあまり関心をしめさないのである。それにひきかえ、王妃ツェルプストのほうは郷に入れば郷に従え、というのでギリシャ正教に入信して名前もエカテリーナとあらため、ロシア語を熱心に学び、みずからをロシア文化のなかにとけこませることにつとめた。だから、結果的には、ドイツ女性が極端にロシア化し、ロシア男性がドイツ化する、というふしぎなコンビになってしまったのである。そして当然のことながら、民衆はピョ—トル三世よりもエカテリーナのほうをつよく支持するようになった。そのうち、エカテリーナは、ピョートルを遠ざけ、愛人の陸軍士官G・オルロフらと共謀してクーデターを計画、一七六二年七月九日に、あっさりと国王をほうり出してしまった。ロシアはこのあと三四年間にわたってエカテリーナ女王によって支配されることになったのだ。 ■日章旗のはじまり■一八五四(嘉永七)年七月九日、老中阿部正弘は「異国船に紛れざるよう日本総船印は白地日の丸幟」と各藩に通達した。それというのも、ペリー来航におどろいた幕府は薩摩藩に大船の建造を許可したのだが、ふと気がついてみると、他国の船と見分けがつかぬ。そこで島津|斉彬《なりあきら》が日の丸を旗印にすることを建議、それをすんなりとうけいれたのが日章旗のはじまりだ。もっとも島津がなぜ日の丸を提案したかというと、それ以前に坂本龍馬らが当座の知恵ですでに日の丸を使っていたからだ、ともいう。  しかし日章旗の歴史はそれ以前にもあった。なにしろ「日出づる国」であり太陽神信仰は日本文化に土着のものだ。古くは文武天皇の時代、元旦の朝賀の儀式に「日像幡」という太陽をかたどったシンボルを使ったというし、戦国時代の武将たち、たとえば武田信玄や上杉謙信も日の丸を旗印にしていた。秀吉もまた、その外征にあたって船に日の丸の旗をかかげたという。  いずれにせよ、幕末のどさくさで制定された日章旗はそのまま明治政府にもひきつがれ、一八七〇(明治三)年には日の丸を正式の国旗として制定した。その規格は縦横の比が七対一〇、日の丸の直径は縦の長さの五分の三。しかし、これは商船用であって、海軍では縦横比が二対三、ということになった。規格はこんなわけで二種類になってしまったのである。   7月10日 ■トンチン年金■一九一六(大正五)年七月一〇日簡易生命保険法が公布された。だいたい保険というものは、古代の地中海世界ではじまったものだ。積荷や船が無事に目的を果たせばこれにこしたことはないが、海難もあるし、海水で積荷が価値を失うこともある。船を出すということは一種の賭のようなものだから、その危険を補償するために掛金を払う。つまり保険の起源は損害保険なのである。  それが生命保険というあたらしい保険をも生むようになったのは一七世紀になってからだ。イギリスの労慟者たちの友愛組合は、葬式のときの出費にそなえて共同ですこしずつ醵金し、いざというときの埋葬費給付をした。いわば、頼母子講のようなものがそのはじまりなのである。ところで、こうしたうごきを見ていた人物のひとりに、イタリア生まれのL・トンティという医者がいた。かれは、フランスの財政計画をみていて、霊感がひらめいた。国庫には金がない。もしも遊休資産を国家に寄託して、そのかわりに終身年金をもらえる、というシステムをとったら財政問題は解決する。かれは、人口を年齢別のグループに編成してそれぞれのグループが積立てをすることを提案した。グループの人数はだんだん死亡して減ってゆくから、老人になればなるほど受取金額は多くなる。国家はそうした積立出資によって財政にゆとりができるし、人びとは老後を安心して送れる、というわけ。発案者の名をとって、これは「トンチン年金」と呼ばれ、オランダ、ドイツなどでは、これに修正を加えて国債調達の手段にした。 ■コレラ除けにラムネ■一八八六(明治一九)年の夏、東京は酷暑にくわえて晴天がつづき、コレラの大流行をきたしていた。特に七月一〇日から八月二四日までは連続して晴天というありさまで、ラムネが売れに売れた。当時発行されていた東京横浜毎日新聞に、「ガスを含有している飲料を用いると、恐るべきコレラ病に犯されない」という記事が掲載され、いっそう拍車がかけられた。ラムネ屋は、毎日徹夜で製造しても間に合わない状態であった。   7月11日 ■コンゴの月蝕■一九六〇年七月一一日、コンゴ紛争がはじまった。コンゴはベルギーの植民地。コンゴの人びとが民族解放と独立を求めたとしてもふしぎではない。とりわけベルギーがコンゴを自国領とすることができたのは、月蝕という、まことに偶然的なできごとによっていたからだ。  話は一九〇五年にさかのぼる。この年の二月、この地方を二〇名の部下とともに移動していたベルギー陸軍大尉A・ポーリスは、アザンデ族の酋長イェムビクにとらえられた。とにかく小人数でしかも無断の軍事行動である。処刑されてもしかたがない。このままここで殺されて、アフリカ奥地で行方不明、ということになるにちがいない、とポーリスは観念した。  だが、ふとポケットの暦をみると偶然にもその日が月蝕にあたっていることに気がついた。探検家でもあるポーリスは、子どものころに読んだコロンブスの話を思い出した。コロンブスは月蝕を利用してインディオたちを圧服したことがある。ひとつ、じぶんもコロンブスの故智にならおう。そこでかれは酋長の息子パソンコンダを呼び出し、もしもおまえたちがわれわれに危害を加えるなら、今夜かぎり、月を消してみせる、月が死ねばおまえたちも生きてはいられないぞ、と宣言した。まさかそんなことがあるものか、といいながら、しかし酋長をはじめ村の主だった者たちがポーリス大尉のそばにやってくる。  大尉は即興で魔法らしき所作をつづけ、午後八時、月蝕のはじまる時間になると、月にむかって手をあげ、呪文をとなえはじめる。当然のことながら月は欠けはじめた。酋長たちは地面にひれふし、大尉に救いをもとめる。ポーリスはかれらにむかって、よろしい、それでは月を生きかえらせてやろう、だが、それには条件がひとつある、これ以降、おまえたちの領土をベルギー国王にゆずりわたせ。  酋長はポーリスの魔法におそれおののき、ベルギーヘの忠誠を誓った。折よく月はふたたび輝きを増してきた。かくしてポーリス大尉はコンゴ地方を一瞬のうちにベルギー領にしてしまったのである。コンゴの領土面積は一三万五〇〇〇平方キロ。日本のおよそ四倍である。月蝕でコンゴはこの広大な土地を失ったのである。 ■「わからない」河■コンゴの話をもうひとつ。この奥地を深く踏査した探検家はイギリスのD・リビングストンだったが、かれは大きな河を発見、ちかくにいた原住民に、これは何という河か、ときいた。英語がコンゴの奥地で通じるはずがない。原住民たちは「アルウィミ、アルウィミ」ということばを互いに交わした。「あの男はいったい何をいっているのだろう」という意味である。あんまり「アルウィミ」ということばが連発されるので、リビングストンはそれが河の名前だと早合点し、この河を「アルウィミ河」として報告した。要するに、現地語では「わけがわからん河」ということになる。こんにちもこの河はこの名で呼ばれている。   7月12日 ■マストのゆくえ■一六一四(慶長一九)年七月一二日、京都の豪商角倉了以が死んだ。角倉家は朱印状による南蛮貿易の担い手であって、南シナ海を舞台に目ざましい活躍をしていたのだが、島原の乱以来、幕府はだんだんと日本人の海外渡航を禁止する方向に政策を転換し、ついに鎖国ということになってしまった。角倉をはじめ、日本の貿易家たちは切歯捉腕。活動の場を奪われたのだから、文字どおり陸にあがった河童のようなものだ。  しかし、それまでにたくわえた資本と技術を生かすべく、角倉は京都に高瀬川という小運河をひらくなど、もっぱら国土再開発にいどんだ。とはいうものの、海外雄飛の夢を挫折させられてしまった貿易家としては、こんなちっぽけな土木事業など、さっぱりおもしろくない。そこでかれらはご朱印船のマストをとりはずし、それを高々とかかげて山鋒《やまぼこ》というものをつくった。そしてこの山鋒のまわりに、かつて異国で手にいれたペルシャじゅうたんなどを垂れ下がらせて都大路を練り歩くことにした。祇園祭に使われる鋒がそれである。いわば、かつての船乗りの鬱憤が陸上のマストとなって祇園祭の主役をつとめているのである。 ■牧場とフィルム■イーストマン・コダックといえば世界一のフィルム・メーカー。この会社をつくったのはG・イーストマン(一八五四年七月一二日生)である。かれは弱冠二六歳で写真乾板の製法を完成し、その四年後にはロール・フィルムを発明して、ニュー・ヨーク州ロチェスターに本社をもつイーストマン・コダック社をつくった。かれの発明したロール・フィルムは「コダック」カメラとの組みあわせによって写真の大衆化を決定的なものとした。  量産体制にはいると、フィルムの材料もすべて自社製ということになり、イーストマンは専用の製紙工場だの化学薬品工場だのをその傘下においた。そのなかで傑作なのは、イーストマンの経営した牧場であろう。フィルムの生産にはゼラチンが必要だ。そしてそのゼラチンは生物的にしか手にいれることができない。そこでゼラチン供給源として大規模な牧場を経営してこの原材料を確保しようというわけ。フィルムを量産するためには牧場も必要なのであった。  実業家としてのイーストマンは順風満帆、大成功をおさめたが、一九三二年、まったく原因も動機もわからぬまま謎の自殺をとげ、七八歳の生涯を終えた。   7月13日 ■ニセ電報と戦争■一八七〇年七月、プロイセン国王ヴィルムヘルム一世は西ドイツの温泉保養地エムスでゆっくりと夏をたのしんでいた。ちょうどそのころ、スペインの王位継承問題をめぐってプロシャとフランスのあいだには緊張がつづいており、その情勢を察知した王位継承予定者H・ジグマリンゲン公は王位を辞退した。そうした新局面が展開したので駐プロシャのフランス大使は七月一三日ヴィルムヘルム一世を訪ね、状況の打開を乞うた。  それにたいしてプロシャ国王は拒否的な姿勢をとり、その旨をビスマルクに電報で通達した。ビスマルクはその電報をみて熟考した。国王はこの問題を慎重にとりあつかうように、と指示している。しかし、電文にちょっと手を加えれば対仏国交断絶、というふうに書きかえることもできる。だから、ビスマルクは国王の電文を勝手につくりなおし、国王はフランス大使によって脅迫された、ということにして、これを各新聞社にニュースとして流してしまったのである。その記事を見てドイツ人は大いに腹を立て、フランスヘの敵意をつのらせた。そうなればフランスも硬化する。かくして普仏戦争ははじまった。この戦争のきっかけをつくったのは、要するに宰相ビスマルクの創作したニセ電報だったのである。 ■シェーンベルクのふしぎな死■オーストリアの作曲家A・シェーンベルクは、一八七四年九月一三日に生まれた。かれは若いころから数字占いが大好きで、いろんな数字の組みあわせをたのしんでいたが、西洋文化のなかで縁起がわるいとされている一三という数について、異常なほどの強迫観念を抱いていた。  そして七と六をたすと一三になることから、じぶんの寿命は七六歳でおわるであろう、という恐怖感をぬぐうことができなかった。  一九五一年、かれは七六歳になった。その年のカレンダーを繰ってみると、七月一三日が金曜日である。この日こそ危機の日だ、とシェーンベルクは確信した。そして、この日を切り抜けるべく、最大の努力をかたむけることにした。いっさいの事故にあわないように、その日、かれは朝からずっとベッドに横たわり、部屋から一歩も出ないでいた。やがて深夜が近づいた。シェーンベルク夫人は、かれの寝室に入り、どっちみち、あなたは縁起かつぎがひどすぎるのよ、大丈夫だったじゃありませんか、じゃ、おやすみなさい、と声をかけた。ところがちょうどそのとき、シェーンベルクは「ハーモニー」とひとことつぶやいて、そのまま死んでしまったのである。その時刻は、七月一三日午後一一時四七分、つまり、かれのおそれていた魔の金曜日がおわる一三分まえであった。享年、もちろん七六歳。   7月14日 ■口笛の罪■きょうはバスティーユの日、日本ではパリ祭などともいうが、要するにフランス革命記念日である。ところで、この革命に先立つこと三年、一七八六年の春、ブリタニア地方出身のマリー・アウグスティン侯は、パリの劇場でフランス王妃マリー・アントワネットを見かけ、彼女にむかって口笛を吹いた。王妃をひやかしたのか、からかったのかはわからない。要するに、もののはずみ、というものだ。だが、この行為がルイ一六世を怒らせた。アウグスティン侯は裁判をうけることもなく投獄されてしまった。  やがて革命。国王も王妃も断頭台の露と消え、当然、アウグスティン侯も釈放されてしかるべきはずだったのだが、手ちがいでいっこうに音沙汰なく、かれは獄中に日々をすごした。ナポレオン・ボナパルトが皇帝になりエルバ島に追放されてから、やっとひとりの官吏がこの不幸な罪人のことを知り、釈放の手続きをとったまではいいが、こんどはナポレオンがエルバ島からパリに戻るという大さわぎになってしまったものだから、その手続き書類も宙に迷い、かれは出獄の機会を失った。結局のところ、かれが口笛ひとつ吹いた、という微罪によって投獄されていた期間は五〇年間。晴れて釈放されたのは一八三六年。口笛を吹いたときには二二歳の青年だったのに、出獄のときは白髪の老人になってしまっていた。 ■フランス革命と手旗信号■フランス革命の熱烈な支持者にクロード・シャップという技術者がいた。かれは、ナポレオン時代の陸軍で開発された視覚的信号のシステムに着目し、弟のイリヤスとともに遠隔地に通信する方法を考案した。その方法というのは、まず地面に木の杭を打ちこみ、その上にT字型に横木をつけ、その横木に小さな腕木をかけるのである。そしてその腕木の位置によって特定の文字をしめそう、というわけだ。こういう杭を、見通しのいいところに配置しておいて、性能のいい望遠鏡で見れば即座に通信文が解読できる。シャップは、こうした通信基地を一六キロおきに配置し、つぎつぎに中継すれば遠隔地への通信が可能だとかんがえた。一七九三年、かれは「通信技士」に任命され、このシステムの実施にあたり、通信網は総延長四八〇〇キロ。フランス全土をおおいつくした。当然のことながら、このシステムは電信の発明によってまったく無用の長物と化したが、のち、海軍がこれをヒントにして手旗信号を開発し、ボーイスカウトは、こんにちもその手旗信号をつかっている。 ■オリンピックの怪■一九〇〇年にパリでひらかれたオリンピックの各種目の最終決勝戦は七月一四日の土曜日、ということになっていたが、ご存じのようにこの日はフランスの革命記念日。そこで主催国たるフランスはこの日の決勝戦を翌日にもちこすことにした。翌日はすなわち日曜日である。すると、こんどは、日曜は安息日である、と主張するアメリカ選手団の一部が出場を拒否してオリンピックは大混乱におちいった。  そればかりではない。マラソン競技でトップを切っていたアメリカのA・ニュートンは悠々とスタジアムのなかの決勝点に到着したのだが、おどろいたことに、ここにはすでに四人の先客がいた。フランス人三人とスウェーデン人一人である。そして、M・ティアトなるフランス人が一着と、決定された。  ニュートンは、誰にも追いこされなかったと主張し、抗議した。しらべによると、先着の四人は、マラソンの途中で近道をえらび、しかも馬車に乗ったらしいのである。だが、真相はわからずじまいであった。審判は当惑し、決定を保留した。そしてティアトは、それから一二年後の一九一二年に、やっと金メダル受賞者としてみとめられた。ちなみにこの人物は、パリのパン屋であった。   7月15日 ■レンブラントの浮沈■レンブラント(一六〇六年七月一五日生)は、ほとんど独学で画業をおさめた。もともとかれはライデンの粉屋の息子として生まれ、父親の希望でラテン語を専攻するつもりであったのだが、途中で絵画に興味をもち、一四歳から二六歳のころまで、ひとりで絵筆をとって、近所の老人の肖像や聖書に題材をとった絵を描きつづけた。  その苦労がむくいられ、二七歳のときから絵の注文が殺到し、ヨーロッパ最高の肖像画家としての名声をほしいままにした。アムステルダムの名門の娘サスキア・ヴァン・オイレンベルグを花嫁として迎え、多くの門弟をもつことにもなった。レンブラントはここで人生のピークに達する。  しかし、画業に専念すればするほど、平板的な肖像画の技法にあきたらなくなり、むしろ人間の内面性に深く入りこんだ画を描きたいという欲望にとりつかれた。そこで射手組合からの注文で描いた集団肖像画「夜警」で、それまでのスタイルを完全に自己否定したのだが、これがさんざんの不評。それが契機になってレンブラントは人びとから見放されてしまった。おまけに、おなじ年、妻を失った。絶頂からドン底へと、レンブラントの人生コースはすっかり狂ったのである。  その後もかれは必死の努力をかたむけておのれの芸術の完成に立ちむかうのだが、五〇歳のときにはついに破産宣告をうけてしまう。邸宅も財産もぜんぶなくした。そして最後には、ユダヤ人区の貧しい住まいでひとり淋しく死んでいった。享年六三歳。 ■足なし幽霊のはじまり■お盆である。正しくは「うら盆会」、その語源はサンスクリットのウランバナ(苦しみ)ということであるらしいが、このシーズンになると、怪談噺や怪談映画が登場する。成仏しきれない死者のたましいが、うらめしや、といって出てくるのである。  幽霊には、おおむね足がない。いったい、なぜ足がなくなったのであろうか。日本の芸能史をふりかえってみると、たとえば能の幽霊には足がある。古浄瑠璃についても事情はおなじであって、歌舞伎でも、江戸中期までは幽霊に足があった。白い着物、白い脚絆、そして額に三角紙という死人に着せる「死装束」が幽霊の姿だったのである。ところが文化・文政期になって、尾上松助、すなわち、のちの松緑、およびその養子となった三代目菊五郎が怪談をこのんで上演し、そこで足なし幽霊の演出を考案した。松緑は、人魂がすーっと長い尾をひくのにヒントを得て、歌舞伎の舞台に足のない幽霊を登場させたのだ。このときから日本の幽霊文化はあらたなイメージの世界をつくりあげたのであった。   7月16日 ■イスラム元年■マホメッドが生まれたのはメッカである。当然のことながら、かれはメッカで唯一の絶対神アラーの教えを説きつづけた。しかし、メッカの町は基本的には商人の町。金もうけに熱中する商人たちは、マホメッドの説く聖なる教えも上の空でしかきいてくれない。しかも、メッカにやってくる信者たちをだまして金をとる悪徳商人さえすくなくない。そのうえ、ときには、マホメッドじしんが脅迫にあったりもする。  そこでかれはメッカを去ることを決意した。六二二年七月一六日のことである。かれは熱心な信者たちとともにメッカの北方四〇〇キロほどのところにあるヤスプリという町に移動し、そこで布教活動を開始する。メッカでは失敗したが、ヤスプリでは予言者モハメッドは大成功。三年後にはついにメッカを完全に屈服させ、イスラムの団結への輝かしい第一歩をふみ出した。イスラム圏ではこの事件を記念して、この年をイスラム暦の元年とした。ヤスプリの町は、そのことによって、メディナ(予言者の町)と呼ばれることになった。 ■駅弁のはじめ■一八八五(明治一八)年七月一六日、上野—宇都宮間に新線が開通した。そしてその時、日本で初めての駅弁が宇都宮駅で売られたのである。旅館白木屋をやっていた斎藤嘉平が、鉄道会社に無理に頼まれ、握り飯とタクアンで五銭というお粗末なものではあるが、それをホームで売り歩いたのが最初であった。当時の宇都宮駅は原っぱのまん中で、列車も一日四往復。所要時間は三時間ちょっとだから売れゆきはしれたものだったろう。  その後、一八八八(明治二一)年一〇月に、東華軒が内閣鉄道長官の許可のもとで、駅弁の車窓販売をはじめた。そこの社史によると、明治初年より蚕の種紙を輸出していた早野友輔氏が、得意先のイタリアで車窓販売を見聞し、帰国後、鉄道の高官に説明して了解をえ、立売りを開始したと伝えられている。当時の弁当は、「竹の皮に包み、副食物は香物に梅干で、一個七銭ないし一〇銭であった」という。現在の東華軒は、東海道線国府津駅で売られている「鯛めし」弁当で有名である。   7月17日 ■ふたつの「パンチ」■一八四一年七月一七日、ロンドンで「パンチ」誌が創刊された。これはE・ランデルズという画工がつくったものといわれ、政治諷刺のマンガや文章をふんだんに盛りこんだ新種雑誌である。もっともこれに先行してパリには「シャリヴァリ」という雑誌があり、「パンチ」は「シャリヴァリ」の二番煎じといった面がないではない。じじつ、「パンチ」は「ロンドン・シャリヴァリ」という副題つきで売り出されたのである。  この「パンチ」はイギリス人のあいだで大評判となり、それはやがて開国後の日本にもやってきた。明治元年の「江湖新聞」には、つぎのような紹介記事がある。 「西洋新聞紙中、ポンチというものあり、これは鳥羽絵の風にて、おかしき絵組をとりまとめ、その中に寓意あり、日本の判じものなり、すでに横浜にても毎月一冊ずつ売出し、よほどおかしき趣向あり」  このなかで「横浜にてうんぬん」とあるのはワーグマンの「ジャパン・パンチ」のことである。ワーグマンはイギリスの退役軍人で、「ロンドン絵入新聞」の特派記者として日本にやってきたのだが、もともと絵心があり、アマチュアながら水彩をよくした。かれは日本にくると、さっそく本国の「パンチ」を模して「ジャパン・パンチ」をつくったのである。慶応年間から明治一〇年ごろまで、一七〇冊を出したが、それぞれの発行部数は二〇〇部にすぎぬ。しかし、「パンチ」が訛《なま》ってできた「ポンチ」ということばは日本語になり、マンガは別名「ポンチ絵」と呼ばれたりした。  ところで、いったい、「パンチ」とはどういう意味なのであろうか。いうまでもなく、英語の「パンチ」は叩く、打つ、ということで、「パンチをきかせる」というふうにも使われるが、ランデルズが「パンチ」という誌名を思いついたのは、一九世紀はじめごろからイギリスで大流行をしめしていた人形劇「パンチとジュディ」からヒントを得ていたようである。この人形劇の主人公たるパンチは、まことに悪運のつよい男で、じぶんの子どもを虐待し、妻のジュディをなぐり殺し、裁判にかけられて絞首刑を言いわたされるのだが、こんどは絞首台のうえで死刑執行人をだまして刑吏を身代りに殺してしまう。  このたいへんな悪党喜劇がイギリスではたいへんな人気であった。どんなことがあってもへこたれないいたずら悪党──「パンチ」ということばから読者が連想したのは、まさしくそういう人物であった。権力を叩き、同時に権力からいじめられてもへこたれない。政治諷刺雑誌はそれが生命なのである。   7月18日 ■大小の区別■武士は大小、つまり長い大刀と脇差の二本の刀を腰にたばさんでいたが、いったい、その大刀、小刀の規格はどのようなものであったのであろうか。  大刀というのは、刃渡りが二尺(六〇・六センチ)以上、そして逆に一尺(三〇・三センチ)以下のものを短刀という。脇差というのはこの大刀と短刀の中間のサイズ。町人などで苗字帯刀をゆるされる、というばあいには脇差以下がゆるされるのであって、大刀は武士の独占物であった。長脇差一本で渡世するやくざもまたそのことばの示すとおり脇差がその限度である。こうした刀の種別と規格が正式にさだめられたのは一六四五(正保二)年七月一八日のことであった。 ■「ゲルニカ」の話■きょうはスペインの革命記念日。スペイン生まれの巨匠パブロ・ピカソは二六歳のとき、マチスやブラックなど友人の画家たちをみずからのスタジオに招き、あたらしい画風でえがいた大作「アヴィニヨンの娘たち」を見せた。これがキュービズムのはじまりであり、同時にあらたな芸術運動のはじまりでもあった。ながくフランスで生活していたピカソは、一九三六年、五五歳のときスペインに戻ってマドリッド美術館長になったけれども、かれはフランコ首席に反対し、みずからふたたびスペインを去った。そればかりでなく、かれは一九四四年には公然と共産党員になった。  それに先立ってフランコ首席はじつはヒットラーと共謀し、スペインの小さな町、ゲルニカを襲って住民を全滅させていた。ピカソはさっそくこれに反応し、名作「ゲルニカ」を描いて一九三七年のパリ万国博に展示した。「ゲルニカ」は、ピカソからスペイン国民への贈りものとして、いまニュー・ヨーク近代美術館にある。ピカソはその遣言のなかで、「スペインにほんとうの民主主義が樹立されたときに」のみ「ゲルニカ」をスペインに引きわたすように、と指示している。それまではニュー・ヨークがあずかっているというわけだ。  ところが一九四七年、この展示場にひとりの男があらわれ、突如ポケットからスプレー式の塗料をとり出し、「ゲルニカ」の画面に「ウソつきどもを殺せ」と落書きしてしまった。男はすぐに逮捕され、落書きも絵をいためることなく拭い去ることができた。それというのも、この絵には特別に厚いヴァニスの上塗りがほどこされており、そのおかげで「ゲルニカ」は助かったのである。   7月19日 ■恨みの拳銃■コルトといえばピストルの代名詞のようなもので、S・コルト(一八一四年七月一九日生)はまさしく拳銃の父といっていいだろう。ピストルは、コルトの発明によって大衆化もしたし、思いがけない事故も起きた。  一八九三年のこと、アメリカのテキサス州ホネーグローブというところにH・ジーグランドなる人物がいた。かれにはメアリーという婚約者がいたのだが、どういうわけかメアリーヘの熱が冷めて、婚約を解消してしまった。メアリーは世をはかなんで自殺。そこでメアリーの兄はジーグランドのところに押しかけてピストルで射殺し、そのあとじぶんもピストルで自殺。大悲劇である。  ところが、ジーグランドはじっさいには死んでいなかった。メアリーの兄の射った弾丸はかれの耳もとをかすめただけで、そばにあった立木に食いこんだのである。ジーグランドは、ちゃんと事業をして、平穏な日々を送っていた。そして一九一三年、つまり例の事件からちょうど二〇年後に、この木を切りたおすことにした。なにしろ大木なのでノコギリではたおせない。かれは根元にダイナマイトを仕掛けてたおす手筈をととのえた。導火線に火をつけると、やがて木は轟音をたててたおれる。だが、その拍子に一発のピストルの弾丸がジーグランドの額に命中してかれは即死。二〇年まえに射ちこまれた弾丸が、ショックで木からとび出したのである。 ■区画整理の方法■西暦六四年七月一九日、ローマのコロシアムから程遠からぬ零細民の居住地から突然火の手があがった。その火事はあれよあれよというまにローマ市内に延焼し、宮殿にまで燃えうつりそうになった。皇帝ネロはこのときちょうどアンティウムの別荘で静養中。しかしローマからの急報で、とるものもとりあえず、ネロはローマに向けて馬を走らせる。  しかし、皇帝が戻ったからといって火が消えるわけではない。茫然とする市民のまえで火は燃えつづけ、必死の消火努力にもかかわらず、焔は六日間にわたってローマ市内を舐めつくしたのであった。当時のローマは一四区にわかれていたが、そのうちの一〇区がこの火事で焼野原になってしまったのだ。  ところがおもしろいことに、この火事のあいだ、ネロは高台に立って火事を見おろし、竪琴を奏でていたという。みずからつくった都市が焼け落ちるのをみて、はたしてネロはたのしかったのであろうか。史家の説によると、この大火はどうやらネロじしんがたくらんだもののようである。ローマの町は、いつのまにか薄汚くなり、スラムもできてしまった。これを全面的に大掃除するには燃やしてしまうにこしたことはない。それに、これを機会にキリスト教徒たちに放火の罪を着せて追放できるなら一挙両得というものだ。そこでネロは部下に命じてこのローマの大火を起こさせたらしいのだ。区画整理、あるいは都市再開発の方法としてこれほど荒っぽく、かつ簡単なやりかたはない。  ネロにかぎらず、古代社会では都市ぜんたいを焼き払って再開発することはしばしばおこなわれていたようである。中近東のさまざまな都市についての考古学的調査によると、古代都市のなかには、なんべんにもわたって全焼し、そのうえになんべんも再建されたものがすくなくないという。  もっとも、アウグストゥス皇帝は都市火災の恐ろしさを知って、紀元前一二年、国費によって七〇〇〇人の消防隊を編成している。ネロのときにも消防隊はあったけれども、皇帝みずからの計画的放火のまえには手も足も出なかった。   7月20日 ■イタリアとイギリス■無線通信の発明者G・マルコーニ(一九三七年七月二〇日没)はイタリア人を父、イギリス人を母にもつ混血児であり、ボローニャ近くの農村でおだやかにその少年時代をすごした。両親は、かれの好きなように勉強をさせてくれたから、科学への関心のつよいマルコーニ少年は、一六歳のときから、自宅の二階を使わせてもらって、つぎつぎにあれこれの実験に熱中していた。  このころにはすでに有線の電信は完成しており、科学者たちはヘルツの波を使って無線通信の可能性を模索中であった。コヒラー、すなわち鉄のやすり屑を詰めたガラス管をつくり、これにヘルツ波をあてて導体とし、電波の効果を増幅することもE・ブランリーが証明していたし、一○○メートルあまりの距離の通信は実験的に成功していた。マルコーニは、こうした科学の進歩を見ながら、どうにかして通信距離をのばすことはできないかとかんがえつづけた。そして、空中アンテナとアースを送信・受信の両方のがわにつけることで長距離通信が可能であることを知り、だんだん送信地・受信地の距離を遠くしてみた。  一八九五年九月、二一歳のマルコーニは、おたがいに視線のとどかない丘のむこうがわに弟を立たせ、そこに受信機を置き、送信した信号がとどいたら空にむかってライフル銃を撃って合図しろ、と指示した。マルコーニがいよいよ送信のキイを押すと、間髪をいれず銃声が鳴りひびいた。実験はみごとに成功したのである。実用的無線通信は、まさにこの瞬間に完成したのだ、といってよい。  さて、この新通信方式がこんなに便利なものである以上、これはひろく人びとのために役立てるべきである。そうかんがえたマルコーニは、この新発明をさっそくイタリア政府に持ちこみ、さらに技術的改良を援助してもらえないか、とたのみこんだが、ニベもなくことわられてしまう。さいわいにして、マルコーニは、イタリア人でありながら母親はイギリス人だ。イタリア政府が冷淡なら、イギリスに掛けあってみよう。──マルコーニはそうかんがえてイギリスに行った。案の定、イギリス政府はこの発明に興味をしめし、一八九六年六月、特許申請を受理してくれた。マルコーニはさっそく会社をつくり、主として船舶用に無電装置を売り、欧米の船はつぎつぎにこれを装備することになる。  その効果がドラマチックにあらわれたのがニュー・ヨークで起きた海難事故のときである。この事故は二隻の客船、「リパブリック」号と「フロリダ」号の濃霧のなかでの衝突事故だ。両船とも沈没寸前。そこで「リパブリック」号の無線士が緊急通信を送る。近くでそれを受信した「バルチック」号が現場に急行して両船の乗客一六五〇名を救助したのであった。   7月21日 ■墓と都市■エジプトの名物はピラミッドである。だいたい、このピラミッドというのはじつにふしぎなもので、要するに王者の墓所なのだけれども、エジプトの王様はみずからの墓所たるピラミッドの建設現場に居をかまえ、やがて死後に入るべき巨大な建造物がつくられてゆくのを毎日のように見守ってご満悦であったらしい。  王様がそんなふうに、連日、現場監督で居すわっているものだから、古代エジプトにはついに「都市」というものが成立しなかった。つまり、ピラミッド建設の現場が宮殿であり、かつ臨時の「都市」だったのである。王様がかわるたびに、その臨時「都市」も当然、転々とした。だが、こうした「都市」はなかなか繁栄を誇ったようである。というのは、何十万というピラミッド建設労働者たちがむらがっていたからだ。塩とニンニクを給料としてもらって、かれらはただ黙々とはたらいた。この聖なる遺跡ピラミッドで銃砲火がまじえられたことがある。エジプトとフランスが戦った有名な「ピラミッドの戦い」。その日は一七九八年七月二一日。 ■ケプラーのSF■アポロ一一号の月着陸は一九六九年七月二一日のことだったが、月世界旅行を主題にしたSFを書いた最初の人物が天文学者のケプラーであったことはあまり知られていない。かれは、望遠鏡を使って専門の天文学研究をおこなうと同時に、みずから観察した月について、あれこれと思いをめぐらし、月世界の状態を想像した。かれの想像によれば、月は、太陽に面したがわは灼熱地獄、そして、裏がわは完全な凍結状態になっている。そこには怪物が住んでおり、クレーターからとび出したり、ひっこんだりしている。水も空気もあって植物も生育しているけれど、だいたい二週間ほどでその生命はおわる。こうした想像にもとづいて、かれは「ソムニウム」という書物を書いた。これは、ラテン語で「夢」という意味である。一六三四年のことだ。  一九五七年、ロスタンが戯曲化していやがうえにも名声の高い、シラノ・ド・ベルジュラックも「月世界旅行」という小説を書く。かれは、その旅行の輸送手段として、ロケットという観念を最初に持ちこんだ作家だが、このロケットは、大型の花火であった。この作品によると、月世界に住む動物は四本足で、きわめて音楽的な声を発し、鳥撃ち用の銃をもっている。この銃は、たんに鳥を撃ちおとすだけでなく、撃ったとたんに、その鳥がちゃんと料理される、というふしぎな性能を誇っていた。  一七〇五年、デフォーは宇宙航行機械を主題にした「月からの手紙」を書いたが、さっぱり売れなかった。デフォーはつぎに「ロビンソン・クルーソー」を書いて、そこで作家として成功するのである。  これより先、一六九四年には、フランスのガブリエル・ダニエルが「カルテシウムヘの旅」という小説を書いた。この小説では、月世界を目指して飛び立った宇宙船が目的地たる月を通りこして、はるかなる宇宙空間に突入してゆく、ということになっており、おそらく、これこそが、月並みながら、いわゆる「スペース・オペラ」の第一号というべきであろう。   7月22日 ■塔の競争■一七六七年、ビルマとタイのあいだで国境紛争が起こった。ビルマはタイがわに攻めこみ、ナン市にあるタイの要塞を包囲し、遮二無二の攻撃をつづける。ところが、この要塞は防備堅固でビルマ軍は手のつけようがない。双方とも死傷者は数知れず、千日手のような様相を呈するにいたった。  そこで両国軍の指揮官は事態打開のための方法を協議し、きわめて珍奇かつ優雅な合意に達した。すなわち、お互いに仏教国である以上、パゴダを建設し、どっちが先に完成させることができるか、によって勝敗を決しよう、というわけ。両軍兵士は、武器を捨てて、合図とともにパゴダの建設にとりかかる。目標とする高さは一二メートル。昼夜をわかたぬ建設工事がつづき、ついにこの競争はタイがわの勝利におわった。ビルマ軍はいさぎよく敗北をみとめて撤退した。このパゴダはこんにちではワット・チャン・カム寺院と呼ばれ、ビルマ国境にそびえ立っている。  さて、このパゴダだが、これはもともと遺骨をおさめた墳墓であって、ここに祭られるのは釈迦のみならず、如来、阿羅漢など。これをサンスクリット語ではスパーといったものが、仏教圏各地でそれぞれのしかたで展開したのである。ビルマやタイでは、それがパゴダになった。ストゥーパは日本語では卒塔婆といい、一般には墓石のまわりに立てられる木製の札のことを意味するが、そのストゥーパーを本格的に継承したのが寺院の五重塔あるいは七重塔である。その五重塔を建てた大工の職人気質を描いた作品として幸田露伴(一八六七〈慶応三〉年七月二二日生)の『五重塔』がある。タイ、ビルマ戦争でも、タイの職人芸のほうがビルマをこえていた、というべきなのであろう。 ■モルモン教のはじまり■一八二〇年、ニュー・ヨーク州の農村にジョセフ・スミスという一六歳の若ものがいた。かれは他の多くの青年たちとおなじように、内面的な精神の葛藤に悩んでいた。いったいなにを信ずべきか。かれは自宅ちかくの森のなかで神に祈った。  すると、そこに突然、ふたりの人物があらわれた。じっと眼を凝らしてみると、そのふたりは全能の神とイエス・キリストなのである。キリストはジョセフにむかって、いまの教会の諸宗派は真の教会ではない、おまえこそ、真の教会を建てなおすべく選ばれた者だ、とおごそかに言いわたした。  もとより、これはジョセフの幻覚だったのだが、それから三年後に、モロナイと名のる天使がかれを訪ねてきた。モロナイによると、この近くの丘に封印された書物がある、それを掘り出して出版するのがジョセフの任務だ、というのだ。さっそく出かけてみると、大きな岩の下に箱があり、その箱には三枚の黄金板と二個の透明な玉とひとふりの剣が入っていた。ジョセフはモロナイの命ずるがままに、その金の板に刻みこまれたヘブライ語を英語に翻訳して出版した。これが『モルモン経』と呼ばれる経典である。  この奇蹟の一部始終は数名の人びとによって証言されているが、そんなことがあるものか、と既成の諸宗派はジョセフを迫害しはじめた。ジョセフにしたがう信徒はわずか六人。かれらはより自由に神と対話するためにニュー・ヨークをはなれ、遠くイリノイ州のノーブという町に移動する。そしてそこでたくさんの信徒を得て、共同体をつくり、大学まで建設した。だが、ここでも、モルモン教徒の力がつよくなると、まわりの人たちが迫害を加えはじめ、ついにジョセフは暴徒の手で暗殺されてしまった。  ジョセフ・スミスの後継者たるブリガム・ヤングは、ふたたび自由の地を求めて放浪の旅に出る。このころになると信徒数は一万人。女も子どももいる。かれらはインディアンの襲撃をうけ、食糧不足に悩まされながら、ついに西部の大平原をこえてユタ州ソルト・レークに到着。一八四七年七月二二日のことだ。そして、ここから、モルモン教徒による本格的な神殿都市づくりがはじまる。  初期のモルモン教では一夫多妻を許したこともあって、世間は好奇の眼差しでこの新教団を見守った。じじつ、この教団についてはコナン・ドイルもひとかたならぬ興味をもち、新大陸とロンドンをむすぶ雄大な国際推理小説『緋色の研究』を書いた。この小説のプロットはことごとくモルモン教団の物語なのである。  ソルト・レーク到着後二〇年のあいだに八万人がこの教団に入り、二〇世紀なかばすぎには一五〇万ほどの人が入信している。   7月23日 ■渇きの代償■一九世紀のおわり、エジプトの砂漠を隊商がラクダの背にのって通っていたときのことである。突如砂丘のかげから盗賊団があらわれ、キャラバンの隊員は皆殺しにされ、物資も金もぜんぶとられてしまった。ところが奇蹟的にも、富裕な商人でキャラバンの隊長であったハメッドと、ラクダ飼育係のハッキャという貧しい男と、このふたりだけが助かった。それというのも、かれらはちょっと本隊からへだたったところにいて、盗賊団に見つからなかったからである。  さて、助かったのはよろしいが、ラクダもなく、砂漠のまんなかに放り出されてしまっているわけだから、生きて人家のあるところまでたどりつくのは至難のわざである。ふたりはそれぞれの水筒の水をすこしずつ口にふくみながら歩きつづけたが、水はやがて欠乏してくる。いちばんちかいオアシスまで一五キロ。ハメッドはじぶんの水筒の水をぜんぶ飲んでしまった。ハッキャの水筒には、まだひと口ぶんくらい水がのこっていた。いっぽうは金持、いっぽうは貧乏人。ハッキャにとって、このひとロの水は命をかけるにたる「商品」であった。たまたま、ハメッドは腰におよそ五〇〇万円担当のフランス金貨をぶらさげている。ハッキャは、この金貨とひと口の水との交換を申し出た。ハメッドは渇きにたえかねていたから、この法外な提案をうけいれ、金貨と水筒を交換する。しかし、ハッキャは、きわめてビジネスの精神に徹した人間であったから、この取引について証書を要求した。ハメッドはこの条件をもうけいれ、ハッキャの水筒と五〇〇万円の交換契約書をつくり、それにサインした。かくして、史上最高の高値ともいうべきひと口の水をハメッドは飲み干し、ふたたびふたりはオアシスをめざしてすすんだ。  さいわいにも、かれらは、オアシスを望見できるところまでたどりついた。あと三〇〇メートル。しかし、その地点でふたりの脱水症状は極限に達し、そのままたおれて死んでしまった。かれらの死体はやがて発見されたけれども、ハッキャのポケットのなかには例の証書がはいっていた。したがった当然の権利としてかれの遺族は、金貨を手にすることができたのであった。  こんな奇談とはたいして関係がないが、きょうはエジプトの革命記念日。   7月24日 ■うなぎ丼の起源■土用丑の日にうなぎを食べるという年中行事は、平賀源内が発明したものという説もあるし、また大田蜀山人のアイデアだ、という説もある。だが、いずれにせよ、この習慣が近世にはじまったものであることにかわりはない。もっとも、日本人がうなぎを食べるようになったのは古代のことであって、万葉集にもうなぎを主題にした歌がある。うなぎを食用にする習慣がニュージーランドのマオリ族からミクロネシアまで分布していることをかんがえると、どうやら、この食性は南方系のものではないか、と思われる。  うなぎの食べ方の主流はいうまでもなく蒲焼だが、天明のころ、江戸日本橋に大久保今助という人物がいた。かれは芝居の金方、すなわち財務管理をその職業ともし、また道楽ともしていたのだが、うなぎが大好物であって、芝居の公演中、毎日欠かさずにうなぎを届けさせていた。ところが、出前のうなぎは、その運搬の途中で冷えてしまう。蒲焼というものは、焼きたての熱いものであるのが身上だ。どうにかして、劇場で熱いうなぎを食べることはできないものか──大久保は一策を思いついた。つまり、炊きたての熱い飯のあいだに焼きたてのうなぎをはさみ、一種のサンドイッチにしよう、というわけだ。飯は蒲焼のための保温材料なのである。この発明は大成功だった。こんにちのうなぎ丼は、こんな背景のもとに成立した発明品なのである。 ■いちゃもんの効用■あらゆることに難癖をつける人物はめずらしくない。しかし、ニュー・ヨークのテレビ局の役員をしていたR・チャレルは、いちゃもんをつけることにおいては当代最高の人物であろう。かれは電話のサービスがわるいと電話局を訴え、レンタ・カーの契約書の文言があいまいだといって訴え、電気料金の請求書に誤りがあるといって訴え、郵便の配達時間がおくれたといって訴え、不良製品を訴え、電気器具の設置のしかたがわるいといって訴え、つねに補償金を請求しつづけた。いまのこっている記録は一九七三年七月二四日現在の数字だが、それまでに、かれは、これらの訴訟によって合計七万五〇〇〇ドル(およそ一九〇〇万円)を手にいれている。   7月25日 ■無欲な発明家■白熱電灯の発明というと、だれでもすぐにエジソンの名を連想するが、エジソンの電球ができたのは一八七九年一〇月であって、じつは、それに先立つこと四〇年あまり、スコットランドの言語学者J・B・リンゼイが史上はじめて電灯をともした。最初にこの電灯がついたのは、一八三五年七月二五日。その構造はつまびらかにしないが白熱電灯であったことにまちがいはなく、四五センチはなれたところでじゅうぶん本を読むことができた。  なぜ言語学者が電灯を発明したのかはわからない。おそらく、夜おそくまで本を読みたい、という願望からこの新照明器具をつくったのであろう。じじつ、リンゼイは、こうして白熱灯を完成させてからあとは、専門の言語学研究にもどり、読書三昧の日々を送った。特許なども申請していないから、まことに無欲な発明家といわなければならぬ。  エジソンの電灯がいちおう満足な成果をあげた前年、つまり一八七八年には、イギリスのJ・スワンが白熱電球の発明に関する声明を出し、公開実験をおこなったが、残念にも第一回は失敗。ただし一八七九年一月の二回目の実験ではみごとに灯をともすことに成功した。とはいうものの、スワンは特許申請に慎重で、完成品をつくるまで一年以上さらに実験をつづけ、特許申請は一八八○年一一月に出している。それにひきかえ、エジソンのほうは、実験を三時間ほど継続して電球が爆発してしまったにもかかわらず、一八七九年一一月、つまり実験の一カ月後に特許をとった。いったい、ほんとうの電灯発明者は、この三人のなかの誰なのであろうか。  ついでながら、この当時は、電気がまだ一般に普及しておらず、電球をつくっても、それを買う人はほとんどいなかった。 ■昆布と化学調味料■一九〇七(明治四〇)年東大教授池田菊苗博士は、夫人がつくった昆布のだしを味わいながら、その味を化学的に分析することはできないものか、と思いついた。かれはさっそく、昆布を実験室に持ちこみ、だし汁からその味の成分を抽出することをこころみた。その結果、グルタミン酸ソーダこそが昆布の味であることが突きとめられ、池田博士はさっそくこの物質を調味料として使用することについての特許を申請し、一九〇八(明治四一)年七月二五日にその特許が許可された。池田博士はこれを「味精」と名づけたが、のちその工業化を鈴木三郎助にゆずることにした。いうまでもなく、これが「味の素」のはじまりである。ちなみに、日本は世界最高の化学調味料の使用国であり、年間およそ六万トンが消費されている。   7月26日 ■菜食主義者の葬儀■バーナード・ショー(一八五六年七月二六日生)は菜食主義者であった。かれはおおむね一日に三回食事をしたが、二回ですませることもあったらしい。かれの食事はチ—ズ、バター、卵、野菜、パンにかぎられており、飲物はりんごジュースであった。ショーは自宅に菜園をつくり、野菜を栽培した。とくにかれはトマトとじゃがいもを好んだ。かれがいっさい肉類や魚をロにしなかったのは、もっぱら人間主義的理由による。生きものを殺すのは人間性に反する、とショーはかんがえていたのである。  かれはその遺言のなかにこうも書いている。「わたしの葬儀にあたっては、人間たちの葬列をしたがえないでほしい。わたしの棺のうしろには、牛、羊、ブタ、ニワトリ、それに水槽にいれた魚たちに行列をつくらせてほしい。そして、これらの動物たちには、かれらを愛したひとりの人間を記念して、ことごとく白いスカーフをまとわせてほしい」  ショーの葬儀がこの遺言どおりにおこなわれたかどうかについては資料がないのでよくわからない。かれは九四歳という長寿を保ったが、はたして長寿の秘訣が菜食主義にあるのか、という質問に答えて、「わたしの親戚に、肉や魚をたくさん食べてわたしとおなじくらい長生きしている者がいる。わたしの読んだイタリアの医学書には�頭寒足熱�を守れとだけ書いてある」といった。  有名人のなかで菜食主義者列伝をつくってみると、マハトマ・ガンジーはもとよりのこと、トルストイ、トマス・モア、モンテーニュ、リヒアルト・ワグナーなど、いずれも菜食主義者であった。どういうわけか、ヒットラーとムッソリーニと二人そろって菜食主義者であったのもおもしろい。 ■胡椒の起源■きょうはリベリア独立記念日。リベリアは、かつては胡椒海岸と呼ばれ、アフリカにおける胡椒供給地だったが、そもそも胡椒をあらわす英語「ペッパー」は、サンスクリット語の「ピッパリイ」を語根としており、これがインド原産であることに疑いをさしはさむ余地はない。  この胡椒はやがて陸路地中海諸文化圏にはこばれ、ギリシャではヒポクラテスやアリストテレスが医薬品としての胡椒に言及している。なにしろ、遠くからはこばれてくるめずらしい植物だから、宝石なみにだいじにされたし、五世紀のはじめ、ローマがヴィスゴート族の包囲をうけて危機に瀕したとき、ローマ市は金銀財宝にくわえて三〇〇〇ポンドの胡椒を包囲軍の司令官アラリックに支払って市民の生命を助けてもらった。また、中世のヨーロッパでは小作人が地代を払うのに胡椒を使うといったようなこともあったというから、胡椒もまた一種の通貨であったのであろう。  じっさい、十字軍遠征のときにも、パレスチナを征服したイタリアの兵士たちはその報償として二ポンドずつの胡椒をもらっているし、あるドイツの皇帝は金策のために王冠を質入れし、それを受け出すときには胡椒で支払った。胡椒が大衆的調味料になるまでには、このように珍妙な前史があったのだ。   7月27日 ■検疫のはじまり■一三四七年から四九年まで三年間にわたって例の「黒死病」がヨーロッパ全土にひろがった。そもそものはじまりは黒海沿岸らしいが、そこからコンスタンチノープル、スペイン、フランス、ドイツはもとよりのことスカンジナビア半島にまでこの伝染病は猛威をふるったのである。  もとよりこの時代には疫学などというもののあろうはずもなく、だいたい病気が伝染するという観念さえなかったのだが、どうやら異国からの旅行者が入ってくるとこの病気がひろがるらしい、という直観的な見当をつけることができた。そこで、そとからやってくる人たちを一時隔離して様子を見ることにした。その条例を最初に決めたのはアドリア海沿岸のズブロフニーク市で、ここでは一三七七年七月二七日に旅行者をすぐに市内にいれず、三〇日間隔離することに決定。しかし、経験的に三〇日ではまだ安心できないということがわかってきたので、隔離期間は四〇日にのばされることになった。そのうえ、キリスト教の教理のうえでは、ものごとの周期は四〇日が単位になっている。たとえばノアの洪水が四〇日、キリストの荒野の試練も四〇日。だから四〇日の隔離というのは理にかなっている、と当時の人はかんがえた。日本語では「検疫」といえばごくあたりまえのことばだが、欧米語では検疫のことを指す「クアランティーン」ということばは「四〇」ということだ。いまは、検疫証明書をもっていれば簡単に出入国できるが、近代以前の外国旅行者は、厳密にこの「四〇」日を守らされていたのである。 ■婦人雑誌の起源■世界最初の婦人雑誌は一六九三年七月二七日に創刊された「ザ・レディズ・マーキュリー」である。発行者は書籍商のJ・ダントン。この雑誌は週刊で、おどろいたことに、その第一号から「身上相談」欄をつくり、そのことによって評判を得て、ほぼ一世紀ちかく刊行をつづけることができた。  しかし、婦人の識字率はまだ低かったし、雑誌を買うだけの余裕もなかった。婦人雑誌が本格的に開花するのは、普通教育のゆきとどきはじめた一九世紀後半である。イギリスでは「クィーン」誌が一八六一年、つづいて「レディ」誌が一八八五年に創刊され、アメリカでは「レディス・ホーム・ジャーナル」が一八八三年にはじめて発行された。  日本の婦人雑誌として本格的なものは「家庭之友」が一九〇三(明治三六)年、「婦女界」が一九一〇(明治四三)年に発刊されたあたりがいちばんふるい。しかし、とくに重要なのは石川武美が一九一七(大正六)年に創刊した「主婦之友」であろう。この雑誌は一〇〇万部にちかい発行部数を誇ったのみならず、この誌名が発端になって、「主婦」ということばが新語として一般に定着することになった。  こうした一般の婦人雑誌はほとんど例外なしに家事・育児などの実用知識を提供したが、ファッション雑誌はさすがにパリで第一号が生まれる。一七八五年創刊の「ル・キャビネ・デ・モード」がそれだ。   7月28日 ■真説シラノ・ド・ベルジュラック■「シラノ・ド・ベルジュラック」といえば、ロスタンえがくところの鼻の大きな、しかし文才ゆたかな悲恋の主人公を思い出す。日本では飜案されて白野弁十郎などという人物になったりもした。  しかし、シラノは劇中の人物ではなく実在の人物であった。かれはパリ生まれの文筆家。はじめカステルジャルーの親衛隊に入り、数々の戦闘や決闘で名声を博するが、一六四〇年、ムーゾンの戦いで重傷を負い、除隊してから自由主義の思想家や作家と交遊をもち、ユートピア小説『日月両世界旅行記』などを書き、奔放な生き方をした。ところが一六五五年七月二八日建物の梁がかれの上に落ち、その事故によって三六歳の短い生涯を終えたのである。シラノのもっていた反権威主義、シニシズム──ロスタンはそれに肉づけして劇中のシラノ像を創作したのだ。それは当時のフランス人の感情からいうと、国民的英雄のひとりであった、といってさしつかえあるまい。 ■海底電線のはじまり■電信技術がひろく用いられるようになると、たんに地上の各地点を電線でつなぐだけでなく、海をこえて通信網をつくりあげることはできないか、という発想がうまれてくる。そのためには潮流や海水の影響をうけることのない丈夫なケーブルを海の底に沈めればよろしいのである。その第一号は、むかしから因縁浅からぬ英仏間のドーバー海峡に一八四七年に敷設された。  それが成功すると、つぎは大西洋横断である。ドーバー海峡はわずか三五キロだが、大西洋横断の海底ケーブルはその何十倍もの長さである。途中でケーブルが切れたり水没したりで二回にわたる工事は失敗したが、三回めに、大西洋のまんなかでイギリスの「アガメムノン」号とアメリカの「ナイアガラ」号は、それぞれの母国からひっぱってきた電信線の端末をつなぎあわせることに成功した。一八五八年七月二八日のことだ。そして、英米両国間の海底電線による交信がはじまったわけだが、やがて通信は消えてしまった。おそらく、どこかで切れたか漏水したかなのであろう。なにぶんにも海底のことゆえ、調査したり、修理したりすることはできない。ちゃんと通信するためには、もういちどあたらしく電線をひく以外に方法はない。この海底電線の総責任者たるS・フィールドは、一八六六年にふたたび装備を一新してあらたなケーブルで両大陸をむすんだのであった。  ところで、日本はどうであったのだろうか。日本と世界をむすぶ最初の海底ケーブルは一八七一(明治四)年、デンマークの工事会社がウラジオストックと長崎のあいだの八八○キロの電線を敷設した。ヨーロッパからロシア経由で日本へ、というわけである。ひきつづき長崎・上海間の一四〇〇キロの電線もひかれた。  とはいうものの、当時、日本はまだ「万国電信公法」条約に加盟していなかった。そこで工事を請負ったデンマークの会社に長崎で営業を許可し、その会社を経由して国際電報を打つという変則的な方法をとらざるをえなかったのである。日本が正式に国際電信条約加盟国になったのは一八七九(明治一二)年になってからのことなのである。  大西洋よりはるかにひろい太平洋を横断する海底電線の敷設はごく最近のことだ。すなわち、神奈川県二宮を起点としてグアム、ウェーク、ミッドウェー、ハワイ、と太平洋の島々をむすびながらアメリカ本土にいたる一万キロをこえる海底電線は一九六四(昭和三九)年六月からそのサービスを開始した。なお、海底電線は深海を横切るので水圧もかかるし、消耗することも多いが、最低二〇年間の実用寿命が保証されている。   7月29日 ■凱旋門の起源■ローマ帝国さかんなりしころ、ローマの兵士たちはしばしば外征して敵を打ち破ってはローマに凱旋してきた。こんなふうに勝って帰ってくるのはいいのだが、血なまぐさい戦闘に従軍した兵士たちには悪霊がついている、というふうに人びとはかんがえた。兵士たちを平時の市民として迎えいれるためには、そうした悪霊をおとさなければならない。日本流にいえば、お祓いである。その浄化手段として、ローマ人は兵士たちに門をくぐらせることにした。この門をくぐれば悪霊がおちる、というわけ。そういう呪術的理由から、そもそも凱旋門という建造物ができたのであった。  しかし、たんに精神を浄化するだけでは市民も兵士たちも気がすまなかった。とにかく戦闘に勝ったのである。お祓いのための門は同時にその戦勝の記念碑であるのがのぞましかった。そこで、凱旋門はだんだんに進化して、大型の石造建造物になってゆく。そういう凱旋門はまずローマでつくられ、そこにはさまざまな浮彫や彫刻がほどこされるようになる。いまなお残っているコンスタンチヌスの凱旋門などはその古典的な例であろう。  この習慣はその後も西洋の歴史のなかで確実にうけつがれてきた。とりわけ派手ごのみのナポレオン・ボナパルトは、みずからの栄光の象徴としてしきりに凱旋門をつくることに熱をあげた。パリのルーヴル博物館のそばにあるカルーゼルの凱旋門もそのひとつ。ナポレオンは、じぶんの権威をいやがうえにも目立たせるために、この凱旋門の上に、ヴェネチアのサン・マルコ大聖堂正面のテラスに据えつけられていた金塗りのブロンズの馬をパリまで運ばせてそれをとりつけた。  だがパリの凱旋門といってふつうに思い出すのはエトワールの凱旋門である。これは高さ五〇メートル、幅四五メートル、奥行き二二メートルで、かなり大規模なビルの大きさとほぼおなじ。かれがこの建造を思い立ったのは一八○六年だが、なにしろこれは建造物であると同時に工芸品である。完成したのは一八三五年七月二九日。じつに三〇年ちかくかかった。  この間にナポレオンはジョセフィーヌと離婚してあらたにマリー・ルイーズを皇妃にむかえることにしたが、ぜひとも花嫁をこの門から迎えたい、と切望した。やっと土台ができたという程度なのだから、無茶な話だ。しかし設計者のシャルグランはナポレオンの要望にこたえて、土台のうえに木造でハリボテの門を構築した。ルイーズ姫はそのハリボテの門をくぐってめでたくパリに入ったのである。ついでながら、ナポレオンの功績をたたえるべくつくられたエトワールの凱旋門が完成したときには、かれはすでにこの世の人ではなかった。その一五年まえにナポレオンはセント・ヘレナ島で死んでいたのである。   7月30日 ■流れ作業の起源■一七九八年、自動綿繰機の発明者であるホイットニーは、一五カ月以内に一万挺の鉄砲をつくる、という契約を陸軍省ととりかわした。一挺ずつ生産していたのではとうてい間にあわない。そこでかれは小銃をつくる工程をいくつもに分割し、労働者ひとりひとりを、その分割された工程に配置した。これが「流れ作業」のはじまりである。  しかし工程を分割するためには、逆に製品じたいをできるだけ簡単な部品に分解する必要がある。複雑な曲面をつくる作業だの熔接だのは「流れ作業」にはのりにくい。部品のアセンブリーによってできる製品、そしてそれに見合うものとしての作業分割──それはこんにちではほとんど常識になってしまっているが、ホイットニーはこうした工業史上の大革命をなしとげたのだ。  かれは芝居気のある人物だったらしく、この革命的方法を国会議員に見せるため、ことなった部品をいくつもの袋に分類して入れ、それらの袋から議員たちにひとつずつ任意に部品をとり出させて、かれらの見ているまえで、それらの部品を組みあわせてさっさと一挺の銃をつくった、という。大量生産された部品の精度が高ければ、おなじ製品がおもしろいほどはやく、たくさん生産できることをかれはこんなふうにして実証してみせたのだ。  この先駆的な実例があったからこそH・フォード(一八六三年七月三〇日生)は一九〇八年に、流れ作業による自動車組立てという生産技術を自信をもってはじめることができたのである。かれの最初の工場のベルト・コンベアーは総延長三二〇メートル。この作業によって効率はあがり、自動車は大衆化への第一歩をふみ出したのであった。 ■ロバに乗った教授■自動車王フォードと奇しくも誕生日がおなじ人物にアメリカの経済社会学者T・ヴェブレン(一八五七年七月三〇日生)がいる。ヴェブレンはフォードとほぼ同時代に生きながら、反自動車論者であった。かれは名著『有閑階級の理論』を書き、そのなかで、まったく実用性のないものをたんなる虚栄心から買いもとめてひとに見せびらかす、という「見せびらかし消費」という観念を導入して、そののちにやってくる大衆消費社会をみごとに予見していた。  一九二〇年代になって自動車を乗りまわす人たちがふえてくると、ヴェブレンはロバを一匹手にいれて、在職中のスタンフォード大学の研究室と自宅のあいだを毎日ロバの背にまたがって通勤した。ひと一人はこぶのにはロバでじゅうぶんではないか、というのがかれの信条。まさしくかれは言行一致の名物教授であった。   7月31日 ■「山男」の論争■柳田国男(一八七五年七月三一日生)は、日本の伝承や民衆生活に興味をもち研究をつづけていたが、この学問を何と名づけたらいいかについてはすくなからず迷いがあった。いや、はたして学問になりうるかどうかも心もとなかった。そんなとき、人類学者の坪井正五郎をつうじて南方熊楠《みなかたくまくす》と知りあいになる。南方は紀州田辺の人で、世界じゅうを転々として最後はロンドンの大英博物館につとめていたが、博覧強記の大知識人。柳田は「フォークロア」という英語を日本語にどう訳したらいいかについても南方の意見をきき、結局「民俗学」ということばをつくった。  この二人の碩学《せきがく》は互いに共鳴するところあり、こまやかな文通をつづけていたが、柳田が『遠野物語』などで「山男」を論じはじめると、南方は突如として怒り出す。南方によると柳田のいう「山男」というのはなんらかの事情で世間から遠ざかり山に住んでいる人間であるにすぎない。ほんとうの「山男」とは「丸裸に松脂をぬり、髪毛一面に生じ、言語も通ぜず、生食を事とする」生物であって、柳田の「山男」論などはインチキだ、と論断する。こうしたことが契機となって、ふたりの交遊はぷっつりと途切れてしまったのである。  南方は、その学識にもかかわらず、いっこうに陽のあたる場所でしごとを得ることはできなかった。『十二支考』などの名著も、ごくかぎられた人にしか知られていなかった。そのうえ、しょっちゅう裸で暮らし、大酒飲みで奇矯の行動が多かったから、円満な常識人たる柳田とは肌もあわなかったのであろう。 ■タバコの値段■一六一九年七月三一日、アメリカのヴァージニア州議会は、タバコの値段を決定した。この法律によると、タバコのなかで最上質のものは一ポンドにつき三シリング、中等品同一八ペンス、とさだめられており、この地方では、実質的にタバコが流通貨幣として使われていた。なにしろ、この植民地の特産品はタバコであり、ものの値段は、どれだけのタバコと交換できるか、という交換率で決ったのである。だから、タバコ栽培の農民たちは食料品や衣料品をタバコで買ったし、また税金もタバコで支払った。もちろん、タバコは通常のイギリス貨幣と交換することもできたのだが、なにしろ本国のイギリスとは遠く海をへだてているし、タバコの価値が州議会で法定化されている以上、いちいちイギリスの貨幣にかえる必要もなかったのである。  ときには、タバコは花嫁を手にいれるための代償でもあった。当時の文献にいわく。「ロンドンからの船がヴァージニアの港に着くと、ヴァージニアの若ものたちはそれぞれ自分の腕の下に最上のタバコの大きな包を抱えて波止場へと急ぐのであった。そして、かれらは、帰りには、美しく、しとやかな花嫁を連れてきた」つまり、ロンドンからの船は若い花嫁候補生を乗せて太平洋を渡り、帰りがけにはタバコを積んでイギリスに戻ったというわけである。  タバコを法定貨幣とすることは、その後二世紀ほどつづいたが、やがて決定的な危機が訪れた。それは増産につぐ増産でタバコの交換価値が使用価値を下まわるようになってしまったからだ。できるだけ法定通貨としてのタバコの価値を一定水準に維持するために、減産政策がとられたり、せっかく収穫したタバコを野積みにして廃棄処分にしたりした。それでも事態は収拾できず、暴動が起きた。かくして、タバコというふしぎな通貨は、ふつうの硬貨に置きかえられていったのである。 [#改ページ]   八  月   8月1日 ■にぎりずしと江戸っ子■一五九〇(天正一八)年八月一日、家康は江戸に入府し、ここを幕府の総合本部とした。それまでの江戸は太田道灌がまず開拓したとはいえ、ほとんどが荒涼たる原野。しかし、とにかく将軍家がこの地に居をさだめ、たくさんの武士がここにあつまったわけだから、この新興都市には、にわかに職人や商人たちが全国からあつまりはじめた。都市とはいうものの、にわかづくりの新都だし、なにしろ、あつまってきた人びとの大部分は零細民である。「江戸っ子」というのは、ひとことでいうならそうした零細民のことなのだ。「宵越しの金は持たない」などともいうが、正しくいえば、「持たない」のではなく「待てない」のであった。  そういう「江戸っ子」たちを相手に一八二〇(文政三)年ごろ、江戸両国の華屋与兵衛という人が「にぎりずし」というものを発明した。要するに、おにぎりのうえに魚の小片をのせたもの。日本文化のなかから生まれたクイック・フードである。安いし、手軽だから、主として労務者が食べた。魚にもいろいろあったが、マグロというのはいちばんの下魚のひとつで、とりわけ脂の多い「トロ」というのは、あまりにもあぶらっこいので最低のものとされていた。わずか一世紀ほどのあいだにこの食品についてはすっかり価値体系がひっくりかえり、「にぎりずし」は高級料理になったのみならず、マグロのトロというのが最高の価値をになうことになってしまったのだからふしぎである。  なお蛇足ながら、「すし」というのは「酢し」ということであって、米の自然発酵による「なれずし」がその原型。そして正統はあくまでも関西ふうの[箱ずし]であった。「にぎりずし」は「江戸っ子」用の簡便食として登場したニュー・フェースなのである。 ■捕鯨業の歴史■近代的捕鯨業は、まず北西ヨーロッパ諸国ではじまった。すなわち一七世紀ごろから、イギリス、ドイツ、オランダなどの諸国の捕鯨船が北大西洋に出漁し、スピッツベルゲン島周辺で北極クジラをとりまくったのである。あまりにも無統制にクジラをとったものだから、北極クジラはほとんど絶滅状態になり、したがって捕鯨業も下り坂になった。  そこでこんどは新興勢力としてアメリカが登場してくる。とりわけ一九世紀なかばのアメリカでは捕鯨の舞台は太平洋にうつり、アメリカ捕鯨船がクジラを乱獲した。ハワイがアメリカにとって重要な意味をもちはじめたのはまさしく北太平洋の捕鯨基地としてであって、捕鯨業者たちはマウイ島のラハイナに碇をおろした。ホノルルが繁栄を誇るようになるのはずっとあとのことで、それまではラハイナこそがアメリカの太平洋捕鯨基地だったのである。  じっさい、アメリカの捕鯨業はすさまじかった。ペリー提督が日本にやってきたのも北西太平洋への捕鯨業の拡大と無関係ではなかったし、クジラを相手にたたかう海の男たちはアメリカの英雄であった。H・メルヴィル(一八一九年八月一日生)が『白鯨』でえがいたエーハブ船長などは、宗教的な崇高さをそなえた人物であった。しかし、やがて石油がひろく利用されるようになると鯨油への需要も減ったし、なによりも乱獲の結果クジラが少なくなったので、一九世紀後半になるとアメリカ捕鯨業は消えてゆくのである。   8月2日 ■エジプト学事始■一七九九年八月二日、燃えるような暑さのなか、ナポレオンの率いるエジプト遠征軍はロゼッタ河の下流のロゼッタの町のちかくで陣地を構築していたが、ひとりの兵士が土を掘っていて、大きな石板を発見した。黒色の玄武岩で、これにはなにやら文字が書いてある。ロゼッタは九世紀以来、地中海とアジアをむすぶ貿易の中継地点であり、ここに古い遺物があったとしてもふしぎではない。戦争中だったが、さすがにだいじそうにみえたのでこの石板はそのまま保存されるとともに、ナポレオンみずからこの石刻文をその『エジプト誌』にくわえた。  しかし、高さ一メートル余、幅七〇センチのこの石板にぎっしりと書きこまれた文字を解読することは至難のわざであり、何人もの学者が挑戦しても、なにが書かれているのかわからなかった。だが、その一部はさいわいにしてギリシャ語で書かれていたので、その部分に関しては、いちはやく一八○二年にS・ウェストンが解読に成功。のこりはエジプトの「神官文字」で書かれた部分と「民衆文字」で書かれた部分である。このぜんぶを解明したのはフランスのシャンポリオン。一八二二年のことだ。この石板は発見地にちなんで「ロゼッタ石」と呼ばれているが、この石には、紀元前二世紀に在位したプトレマイオス五世の偉業をほめたたえる文章が書かれていることがわかった。そしてシャンポリオン以後、古代エジプト学は飛躍的な発展をとげるのである。 ■電話発明の背景■A・グラハム・ベル(一九二二年八月二日没)が一八七六年に最初の電話装置を発明したこと、さらに、その第一声が別室にいた助手にむかって「ワトスン君、用があるから来てください」ということばであったことはよく知られているが、ベルが電話という技術に関心を抱きはじめたのは、かれがもともと聾唖《ろうあ》教育の専門家であったからという背景はあまり知られていない。  一八四七年、スコットランドに生まれたベルの父親は聾唖教育にたずさわっており、その父親のしごとを手つだうべく、かれは医学部にすすみ、結局は音声生理学の教授になった。そして、そもそも「音」というのはどのようなものであるかについての基礎研究をはじめ、そこから電気や光による音の伝送はできないものか、というアイデアにとりつかれ、それが電話の発明にむすびついたのである。耳や口の不自由な子どもたちを相手に、いったいどうしたら話せるようになるか、きこえるようになるか、という切実なねがいが電話機をつくる原動力となったのだ。  蛇足ながら、ベルの発明に先行して一八六三年にドイツでP・ライスが不完全ながら電話機を製作しているが、音声が明瞭につたわったのはベルの発明をもってはじめとする。一八七六年はたまたまアメリカ独立一〇〇年祭であり、この新発明はさっそくその記念博覧会に出品された。たまたまその公開実験をみたブラジル皇帝は受話器を手にとり「こいつがしゃべった!」とおどろき、茫然として受話器を落してしまった。   8月3日 ■安全かみそり■アメリカの名裁判官であり、かつプラグマティズムの思想家であったオリヴァー・ウェンデル・ホームズ(一八四一年八月三日生)は、すぐれた著作をたくさんのこしているが、かれがたいへん感心した新発明品は安全かみそりであった。それまで使われていた平刃のかみそりは、ちょっと手もとが狂うと肌を傷つけてしまい、ひどいときにはかなりの出血をともなったりした。だから、かみそりを使う男たちは、止血法の心得がなければならなかったのである。それに先立ち、すでに、一八二八年に、肌を傷つけない、くわ型のかみそりをシェフィールドなる人物が発明して以来、安全かみそりは着々と改良をかさねられていた。ホームズは、その努力を高く評価し、一八八〇年に、わざわざ、安全かみそりの推薦文を書いたのであった。  しかし、安全かみそりの決定版は、替刃を使うというアイデアを思いついたK・ジレットのものであった。ジレットは、使い捨てのびんの栓のセールスマンをしていたのだが、その使い捨て方式をかみそりに応用できないか、とかんがえ、その結果、替刃、という方法を思いついたのだ。一八九五年のことである。とはいうものの、薄くて鋭い替刃を製造するには多くの技術的困難をともなったうえ、やっと商品化した一九〇三年、ジレットのかみそりは年間わずか五一個、替刃は一六八枚しか売れなかった。だが翌一九〇四年になると、ジレットの安全かみそりは、突如として爆発的な売れ行きをしめすようになる。すなわち、かみそり九万個、替刃一二四〇万枚。この年は、かみそり術革命の年として記憶されるべき年なのであった。 ■ヴィクトリア湖の発見■R・バートンとJ・スピークのふたりのイギリスの探検家は、一八五七年、アフリカ東海岸のザンジバルからアフリカ奥地に向けて旅立った。その目的はナイル河の水源をつきとめることにある。  翌年二月、かれらはタンガニーカ湖に到着、これこそがナイルの水源であろうとおもったが、確認できぬまま、タボラにひきかえした。バートンはそこでひと休み。しかし、スピークは北方に向けて単身出発し、一八五八年八月三日、ひとつの大きな湖を発見した。折しもイギリスはヴィクトリア時代の繁栄期、この湖はやがて「ヴィクトリア湖」と名づけられることになる。  それこそがナイルの水源と確信したスピークは、二年後にもういちど現地におもむき、水流を追ってライポンの滝を発見、そこからナイルの流れがはじまることを知った。  ところが、ここで面白くないのはバートンである。なまじタボラで休息してしまったものだから、ほんらい共同発見していたはずのヴィクトリア湖の発見はスピーク単独のものになってしまった。そこで昨日の友は今日の敵ということになり、バートンはスピークを攻撃し、スピークの発見はインチキだ、といいはじめ、地理学者数百名を招いて公開討論会をひらくことにした。その前日、スピークは、不安と挫折感から銃をとって自殺し、三七歳の生涯をおえた。一八六四年のことである。   8月4日 ■遣唐使船の構造と航路■歴史にのこるかぎり、日本から大陸におもむいた遣隋使・遣唐使は前後一八回にわたって東シナ海を往復したが、その第一回の使節は隋にむかって推古天皇一五年、つまり六〇七年八月四日に出発した。なにぶんにも波の荒い外洋にでるのだし、とりわけ黒潮分流、つまり対馬海流を乗り切らなければならないのだから、その船体は相当大きく、そして頑丈であったはずだが、正確にどんなものであったかについての記録はない。しかし、断片的な記述をもとにして海事・造船の専門家が復元したところによると、この外洋航海の船は平底船で、長さ三〇メートル、最大幅員八メートルほどのものであったと想像される。上から見たところ、ほぼこの船は四角形の、いわば「箱船」である。したがって船首は波を切るように尖っていた、とはいいがたい。マストはおそらく二本。そして甲板には救急用のボートも積まれていた。これに、およそ一二〇人から一五〇人が乗りこんだのである。  東シナ海を渡るには数種類のルートがある。ひとつは九州西岸の福江あたりから揚子江河口にむけて直航する方法。これが最短距離である。しかし、どうやら、もっとも安全な航路は、いったん朝鮮半島の西岸を北上してから黄海を横断する方法であったようだ。ただ、天候さえよければ、最短距離の直航が効率がよろしい。このルートだと、日本と中国は一〇日ほどでむすばれる。  とはいうものの、このていどの航海術では針路測定のできようはずもなく、七三三年の第九次使節の船四隻は、帰国時に海上でおたがいを見失い、一隻は沖繩から種子島経由で辛うじて日本に到着し、もう一隻は南シナ海を漂流してインドシナ半島にたどりついて、乗組員はそこから陸路遼東半島に着き、黄海を渡り、なんと渤海国から船を出して出羽国まで流されてしまった。 ■サロンかホールか■日本最初のビアホールは、一八九九(明治三二)年八月四日に新橋につくられた。樽ビールを氷室に貯え、つめたいビールを半リットル十銭、という値段で売り、開店日には二二五リットルの売上げがあったが、盛夏のことでもあり、大繁昌で、一週間後には一〇〇〇リットルを売る日もあった。このビアホールという命名だが、最初青山学院のJ・リパーなる宣教師に相談したところ、サロンがよかろうというので、いったんそれに決定したのだが、あるイギリス人が、サロンというといかがわしい場所を連想させるから、ホールにしたらどうか、と提案した。そこで名称はビアホールとなり、その後、ミルクホールその他のわが国の「ホール」は、これにならって命名されることになった。 ■鉄の時代のはじまり■一八五六年八月四日、H・べッセマーはイギリス学術協会で「燃料のいらない可鍛鉄鋼の製造法」という論文を発表した。それまで安価な鉄として鋳鉄があったが、もろく、張力にたいして弱かった。ベッセマーは、鉄の溶融過程で酸素を供給することによって、より強い練鉄とおなじような高品質の鉄が得られることを発見。これは「軟鉄」と呼ばれたが、一般には「べッセマー鋼」の名で知られることになる。例のパリのエッフェル塔ができたのもベッセマー鋼を使ったからであった。   8月5日 ■中国でできた世界地図■イエズス会の宣教師マテオ・リッチが中国の土をはじめてふんだのは一五八三年。あれこれの曲折を経て一六〇〇年北京に到着する。皇帝はかれがたずさえてきたもろもろのヨーロッパの物産、とりわけ時計を深くよろこび、かれに北京への定住をゆるした。リッチは利瑪宝という中国名でみずからを呼び、中国文化のなかにふかく溶けこみながら布教活動をつづけたのだが、とりわけかれは中国の知識人層をたんに信徒として獲得するのみならず、かれらと交遊を深くして東西文化の交流をはかった。  かれは中国に来るにあたって、ヨーロッパでつくられた数種類の世界地図をもってきた。そして中国でつくられた地図を参照しながら世界地図を作製することにつとめた。中国から日本にかけての部分は胡宗憲のつくった海図にたより、季之藻という人物と協力してできあがった地図は「坤輿《こんよ》万国全図」と呼ばれ、北京で一六〇二年に印刷されている。この地図は六枚一組で、それぞれの長さ一・五メートル、幅六〇センチ。六枚をつなげると、タタミ二畳ぶんくらいの大きさになる。かれはたんに地図をつくっただけでなく、その余白や空白の部分に地誌や注をつけ、東洋でつくられた最初の世界地図とした。  もとより、現在の地理学からすれば不完全なものであったが、この地図は中国の人びとに大きな衝撃をあたえ、かつ、その何枚かは日本にも渡って日本人の世界認識にもつよい影響をあたえている。リッチはこれにひきつづき八枚一組の「両儀玄覧図」もつくったが、こちらのほうはあまり知られておらず、「坤輿万国全図」はなんべんも複刻再版され、清朝にいたっても版をかさねた。  ところが、いったい、なにがリッチにこのような情熱を湧き立たせたかといえば、それはかれのぞくしていたイエズス会の献身的かつ戦闘的な布教精神であった、というべきであろう。イエズス会は一五三四年八月五日、イグナチウス・デ・ロヨラを中心に七人の仲間たちがはじめたカトリックの男子修道会。この会の見解によれば、キリストは悪と戦う義軍の指揮官であり、布教にあたる宣教師はキリストのもとにはたらく兵士、ということになっている。日本にきたF・ザビエルも最初の七人のうちのひとり。その遺志をついだのがマテオ・リッチであった、といってよい。ちなみに、わが国の上智大学はイエズス会の経営にかかる大学である。   8月6日 ■タバコあれこれ■一六一二年八月六日、幕府はタバコを吸うこと、および牛を屠殺することを禁じた。このころには、ほとんど徳川家の支配体制は確立しており、家康としては、秀吉までつづいた開放体制から鎖国体制への切りかえをはじめたところだ。そこで外来の習慣たる肉食と喫煙を禁止することにしたのであろう。  じっさい、タバコはその渡来が一六〇五年であったのに、あっというまに喫煙の習慣はひろがり、これに先立って一六〇九年にも禁煙令が出ている。しかし、禁煙令だけはあまり効果をあげることができなかったらしい。ところでタバコということばは、その原産地たるメキシコのタバスコという地名からきているが、タバコの葉を巻いてつくったいわゆる葉巻タバコ(シガー)はマヤ文化のなかで「喫煙」を意味する「シカッル」ということばが転じたもの。ただし、これはこんにちもそうだが、おおむね金持の吸うもので値段も高かった。その吸いがらを拾ってセビリアの乞食たちが紙で巻いたのが紙巻タバコ(シガット)のはじまりであり、パプリートと呼ばれていた。ちなみにシガレットということばが使われるようになったのは一八一四年、ナポレオンのスペイン遠征中のことで、そのときにフランス兵がはじめて紙巻にしたしみ、このことばはまずフランス語として熟した。イギリス人がシガレットを好む契機はクリミア戦役である。この戦争でイギリス人はトルコ産のタバコの味をおぼえ、シガレットは社会階級の壁を破ったのだ。とりわけ一八七三年の経済危機はそれまでシガーをくわえていた人びとをシガレット党に転じさせる大きな役割を果たした。 ■軽騎兵の突撃■クリミア戦役の話がでたのでもうひとつ。クリミア半島のバラクラバで英仏連合軍はトルコ軍とそれを支援するロシア軍を相手に激戦をくりかえしていたが、英軍はロシア軍の大砲を数門、手に入れた。この戦利品たる大砲を奪われてはならぬ、という司令部からの命令を伝えにきたノーラン大尉は、大砲を指さしながら、「敵の大砲を奪還されるな」といったつもりだったのに、前線の軽騎兵隊長カーディガンは大尉の指さした方向にロシア軍砲兵陣地があるのを見て、その陣地を攻撃せよ、と命令されたのだとカンちがいしてしまった。日本語には訳出できないが、英語だと、この命令は両義に解釈できるのである。  砲兵陣地にむかって正面からの騎兵隊攻撃などというのは無謀にちかいが、六七〇名の軽騎兵は突撃を敢行し、ついにその敵陣を占領した。生還した兵士は一九二名。あとは全員、ロシア軍の砲弾にたおれた。この報道を新聞で読んだ詩人のテニソン(一八○九年八月六日生)は大いに感動し、わずか数分のあいだに名詩「軽騎兵の突撃」を書きあげた。以下は外山正一による邦訳の一部。 「右を望めば大筒ぞ、前も左もまた筒ぞ、ともに打ち出す砲声は、天にとどろくいかずちぞ、弾丸飛雨のそのうちに、縦横無尽に切りひらく……」まことに勇壮である。   8月7日 ■有名な鼻■八月七日をもじって、きょうは「鼻の日」。蓄膿症その他の鼻の病気を洽しましょう、というのがその趣旨だが、持って生まれた鼻のゆえに有名になった人がたくさんいる。  まず神聖ローマ帝国のルドルフ一世。この人の鼻はべらぼうに大きく、「その、あまりの大きさのゆえに、肖像画家ももてあました」と記録されている。シラノ・ド・ベルジュラックはその鼻の大きさを笑われたがゆえに一〇〇〇回以上の決闘をした。ミケランジェロの鼻がつぶれた事情については上巻(二月一八日)でのべた。「OK牧場の決闘」で有名なドク・ホリデーの愛人であったケイト・エルダーも鼻が大きいので有名だった。彼女はしかしながら沈着冷静な女性で、しばしばホリデーの危機を救った。  大きさではなく、鼻がきくほうで著名なのはA・ウェーバーなるアメリカ人。この人は食品の腐臭を嗅ぎつけることにおいてきわめて鋭敏かつ正確な鼻をもっており、化学検査のできない食品のばあいには、かれが出動する。ウェーバーは化学専攻で修士号を取得しており、アメリカ食品衛生局のお役人である。むかしの話ではない。一九〇五年生まれで一九八〇年現在、まだ活躍中である。 ■町火消のはじまり■江戸の市街は木造の安普請が軒をならべている。ちょっとした出火がすぐに大火になるのは当然であった。そうした火事のばあい、出動するのはもともとは武家の消防隊だったが、明暦の大火以後、町火消《まちひけし》という民間の消防団が組織され、それと同時に各町の木戸ごとに消防団の手桶三〇個を用意することが義務づけられた。しかし、この消防団は能率もわるく、組織力も弱くて、実質的には武家の大名火消が活躍しつづけた。  町火消を本格的な消防団として組織することに成功したのは大岡越前守である。すなわち、かれは一七二〇(享保五)年八月七日に江戸の町火消を「いろは」四八組にわけて地域分担をきめたのである。はじめのうちは、町火消というのは、各町内から輪番制でしろうとがそのメンバーになっていたが、しだいに専業化がすすみ、いわゆる鳶職《とびしよく》といわれる人びとが登場しはじめた。そして各組の頭《かしら》は、庶民文化のなかでのあたらしい英雄になり、消防以外の場面でも庶民の味方として活動するようになる。「め組」の新門辰五郎などはそうした英雄のひとりだ。その姿がいなせであったがゆえに火消にあこがれる若者もすくなくなかった。落語の『火事息子』のような人物があらわれたゆえんである。   8月8日 ■ハムレットの憂鬱■シェクスピアの作品のなかで「ハムレット」は憂鬱なムードのただよう作品だが、なぜシェクスピアがあんな暗い作品を書いたか、というと、それはその執筆時のイギリスの「時代精神」が一時的に沈滞していたからだ、という説がある。  一五八八年八月、イギリス征服を目ざすスペイン王フィリップ三世が一三〇隻からなる「無敵艦隊」に大西洋を北上させ、イギリス艦隊の根拠地たるプリマス港にせまった。迎え撃つイギリス艦隊のほうの戦力は九〇隻。戦力の絶対数からいうとイギリスは劣勢だったが、ドレーク艦長のような操船技術の天才がいた。そのうえ備砲の口径はスペイン艦隊のそれを上まわり、じょうずに敵艦の舷側にまわりこんで射撃する戦術にたけていた。八月一日からはじまるこの海戦は、当初からイギリスがわが有利であって、八月八日の総攻撃で「無敵艦隊」は命からがらスペインに敗走することになる。無事に帰着できたのは六七隻。つまり、スペインは艦艇の半分を失ったのである。これによって、大西洋における制海権はスペインからイギリスに移った、ということになるのだが、事実はそうではない。この海戦で、イギリス海軍は疲労し、飢えと病気で数千名の水兵が死んだ。  そればかりではない。いったん敗退したスペイン海軍は着々と再編成をいそぎ、一五九六年にふたたびイギリス群島をとりかこみ、イギリス南岸は完全に海上封鎖されてしまったのである。名将ドレークは、その前年に西インド諸島に遠征して病死してしまっているし、この遠征でイギリス艦隊はその戦力を失っていた。「無敵艦隊」を破ったものの、当時のエリザベス朝イングランドは、まことに憂鬱だったのである。ちょうど「ハムレット」が書かれたのはその時期に相当する。シェクスピアもまた、時代の子なのであった。 ■ハリスと牛乳■幕末に、まがりなりにも日米の外交関係が成立すると、下田にアメリカ領事館がひらかれ、タウンゼント・ハリスが領事として着任した。かれの食習慣からすると、どうしても牛乳が必要である。そこで、かれは一八五六(安政三)年八月八日、愛人の唐人お吉を下田の奉行所に使いに出し、牛乳の調達を依頼した。だが出先機関たる奉行所の一存ではその要求を即座にうけいれることができず、江戸の老中まで伺いを出した。老中からやがてハリスのため牛乳を売ってよろしいという許可がおりた。記録によると、ハリスは、合計一七〇〇リットルほどの牛乳を買いつけ、代価一両三分を支払っている。  横浜に居留地ができ、西洋人が居住をはじめると牛乳の需要もふえたから、横浜のみならず東京でも各所で乳牛の飼育がはじまった。東京目黒の、いま東大医科学研究所のあるあたりも牧場であって、大正末期まで牛がのどかに草を喰んでいたようである。  とはいうものの、日本人が牛乳を飲むようになったのはべつだん明治期になってからの新世相ではない。ふるくは、空海が中国からもたらした仏典のなかに「蘇悉地経」というのがあり、この経典には牛乳加工食品のことが書かれている。おそらくは、中央アジア遊牧民のつくっていたヨーグルトの系統のものであろう。それにしたがって乳製品がつくられ、孝徳天皇が薬用に使われた、という記録がある。してみると、日本における乳製品の歴史は、七世紀までさかのぼることができるのかもしれない。   8月9日 ■暦法の変遷■紀元前四八年八月九日、シーザーはながいあいだにわたっての上司でありかつ盟友であったポンペイウスと仲たがいし、テッサリアの平原でポンペイウスを破り、やがてローマの独裁者となった。  かれは内政に意を用い、さまざまな文化事業をおこなったが、そのひとつに暦法の制定がある。テッサリアの会戦の二年後に、ギリシャのソシゲネスの助言を得て、かれは暦をつくり、一年の一二カ月をそれぞれ三〇日あるいは三一日とし、四年にいちど「うるう年」がくるようにした。これがいわゆる「ユリウス暦」である。ところが、ローマの初代皇帝になったアウグストゥスは八月をかれの名にちなんでアヴガストとし、八月が三〇日の月であったのに腹を立て、八月を三一日とし、その勘定のあわない部分を二月にシワよせして二月を二九日にしてしまった。  しかし、こうしたローマの暦によっても正確な一年の暦はできなかった。正確な太陽年は三六五日五時間四八分四六秒だから、単純な「うるう年」ではぐあいのわるいところが出てくる(この項上巻・二月二九日を参照)。チリもつもればのたとえどおり、すこしずつ余った時間がたまって、一五八二年にはほんらい三月二一日であるべき春分の日が三月一一日になってしまった。そこでこの年、法王グレゴリオ一三世は一〇月四日を一〇月一五日とし、あらたに正確な「グレゴリオ暦」をつくり、これがこんにちにいたっている。  しかしシーザーのつくった暦は現在でもその名残りをとどめている。たとえばイギリスでは会計年度は四月五日、つまり昔の聖母マリアの祝日にはじまるのである。 ■タマゴで洗髪■一八七一(明治四)年八月九日、「断髪脱刀令」が出た。この年、岩倉具視らは欧米をまわったが、行くさきざきで西洋人が日本人の風俗について奇異の感を抱いていることを知った。とりわけチョンマゲについては頭にピストルをのせているようだ、といったような冗談をなんべんもきいた。そこで、帰国と同時に、チョンマゲ廃止を決定し、この法令を出したのである。  とはいうものの、ながいあいだの習慣が一朝一夕にしてかわるはずのものではなく、またとりたてて罰則規定があったわけでもなかったから、チョンマゲは明治中期までごくふつうの風俗としてのこっていた。じじつ、明治五年ごろ、はやばやとチョンマゲを切りおとしてザンギリ頭になった人物たちが街を歩くと人だかりがしたという。  大いそぎで理髪店も開業したが、にわか仕込みのこととて腕のほうもたよりない。料金三銭ないし五銭で調髪した。理容の材料・設備もないにひとしく、「玉子洗い」というのが流行した。要するにこんにちでいうシャンプーなのだが、玉子をたたいてそこから出てくる中身をてのひらにうけて髪になすりつけるのである。ザンギリのまんなかの部分だけ幅五センチほどに細長く剃りあげて、チョンマゲの名残りをのこした「べっつい」という刈り方も職人たちのあいだでは流行した。後世モヒカン刈りなどと呼ばれたものの原型である。頑固に一生チョンマゲですごした名士としては、鉱山王の古河市兵衛、行司の木村庄之助、俳優の阪東彦三郎などがいる。   8月10日 ■ボートの旅■一八九六年の六月はじめ、ノルウェーからアメリカに移民したふたりの青年がボートで大西洋横断の旅に出た。その発想はきわめて無邪気なもので、要するに、ひさしぶりに故郷に帰りたい、というだけのこと。ただ、貧乏で客船の船賃を払うことができない。だからボートで行ってみよう、というわけ。ふたりは手づくりで長さ五・五メートル、幅一・五メートルのボートをつくり、それを「フェニックス号」と名づけて、食糧を積みこみ、のん気にニュー・ヨークから船出した。  途中で荒波にもまれたり、豪雨にあったりしたけれども、ふたりは元気に航海をつづけ、魚を釣ったり、歌をうたったりしながら北大西洋をのろのろと東進する。さすがにヴァイキングの子孫だ。そして、六二日を洋上ですごして同年八月一〇日、ついにフランス海岸に到着した。小型の木製ボートでの大西洋横断はこれが最初で最後であった。 ■水位観測のはじまり■日本は小河川が多く、そのためにしばしば氾濫が起きた。そうした経験から、川の水位をはかって水害から畑を守ろうというこころみがおこなわれたとしてもけっしてふしぎではない。しかし、河川の水位観測をおこなうことは比較的あたらしい発明だ。もちろん、古くからなんらかの方法で水位をはかったことはあろうけれど、記録にのこっているのは一七二八(享保一三)年に中津藩が山国川に量水標を設置したのがそのはじまりだ、といわれる。  旧家などでは、洪水のたびに大黒柱に刻み目をつけて記録をのこしているけれども、もっとも正確なものとしては、一七四二(寛保二)年八月一〇日、荒川の大洪水の水位を秩父の村役人が石に刻みつけたものだ。これはいまも埼玉県樋口小学校の裏山にそのままのかたちでのこされている。  しかし、洪水のときの水位をただ記録しているだけでは、災害予防的な意味をもつことはできない。水害がしばしば発生するものであるならば、放水路を設計し、危急のときには川の水を流す、といった土木工事が必要だ。そのくふうを最初に思いついたのは、筑後川沿岸の庄屋、田中政義であった。かれは一八五一(嘉永四)年に筑後川流域をくまなく調査し、その実物の百分の一の模型をつくり、そこに水を流してみた。そして、あらたな放水路をつくれば全流量の六割くらいが放水路に流れこみ、それによって筑後川の氾濫は未然に防ぐことができる、という結論を得た。これは、こんにちのことばでいえば、シミュレーションによる実験計画法の先駆というべきであって、久留米藩はこの土木工事にすくなからず関心をしめしたけれども、結局のところ、財政上の理由から実現されなかった。とはいうものの、この設計図はそのままのこされ、明治中期におこなわれた筑後川改修工事のための青写真になった。 ■ミイラの価値■エジプトでは、よく知られているように人間の死体を布で包み、ミイラにする習慣があった。この慣行についての知識は、ポルトガル人やオランダ人が日本にくるようになってからすこしずつ日本人のあいだに知られることとなり、西鶴(一六九三〈元禄六〉年八月一〇日没)は、「砂の峰 ミイラに月の照添へて」という句をのこしている。西鶴がエジプトの砂漠を知るはずもなく、これは要するに風説をもとにした想像上の句であるが、なかなか実景描写的である。 「ミイラとりがミイラになる」という表現についても、為永春水が『閑窓瑣談』に書いており、「大焦熱地獄」ともいうべきところが「中天竺より南に当る陽のさかんなる」位置にあって「其所にいと広々たる砂地あり」とのべている。しかし、そもそもミイラというのはどんなものか、という点になるとかなりいいかげんで、要するに、この焦熱の砂漠で落馬すると、あまりの熱さに人体があっという間にミイラになる、というのが春水説。  ところで、なぜミイラをとりにゆくのであろうか。それはミイラを薬品として服用したからである。ミイラといえども死体であって、これを粉にして飲むなどというのはあまり気持のよい話ではないが、南蛮船はミイラを日本にはこび、これを医薬品として売ったらしい。その効能は、「頭痛、落馬、難産、吐血出血、庖瘡、めまい、胸病、打身、便秘……」とまさしく万能薬であって、ミイラが貴重薬であればあるだけ、その価格も高かった。したがって、このミイラを拾いに「大焦熱地獄」に出かけてゆく人間も多く、それが成功すれば大金もうけもできるが、拾おうとしてじぶんが過って馬から落ちてしまえば、そのミイラとりも当然ミイラにならざるをえない。「ミイラとりがミイラになる」ことについての春水説は右のとおり。   8月11日 ■ある成功物語■A・カーネギー(一九一九年八月一一日没)は、石油王ロックフェラー、自動車王フォードとならんで、「鋼鉄王」とも呼ばれるが、かれはもともとはスコットランドの貧農の家に生まれた。かれの幼少のころスコットランドは産業革命のさなか。とうていここでは食ってゆけない、というので、一家をあげてアメリカに移住した。  さまざまな成功物語のなかで、カーネギーの一生はもっとも劇的である。新大陸に渡ったカーネギーは木綿工場の糸巻工、蒸気機関のボイラー係、電信技師、郵便配達など、ありとあらゆる職業を転々としたが、その間に経済の仕組みを直観的に見抜き、みごとな投資で財をなした。とりわけ南北戦争を機に鉄鋼の需要が増加することを予想して鉄鋼業の経営に着手し、さらにピッツバーグの鉄鉱山、炭坑、製鉄所などを手にいれてカーネギー・スチール社をつくった。  しかし、かれは一九〇一年、六六歳のとき、期するところあって実業界からしりぞき、じぶんの製鉄事業をモルガンのU・S・スチールに売却し、晩年は富をきずくことよりも「富の賢明な分配」に専念し、そのために、カーネギー・ホール、カーネギー研究所、カーネギー教育振興基金など教育文化事業に私財を投入した。さらに「富の福音」だの「自伝」だのの名著ものこしている。まことにさわやかな成功者の一生であった。 ■国際放送のはじまり■一九三六(昭和一一)年八月一一日、ベルリン・オリンピックの国際中継放送は「前畑ガンバレ」の有名な放送電波を日本に送った。二〇〇メートル平泳ぎで日本の前畑選手が優勝したのである。  これは中継放送だったが、電波技術の進歩は目ざましく、その前年すでに日本から世界にむけての国際放送がはじまっている。使われた電波はもちろん短波で、昭和一〇年六月から、在留邦人の多いハワイ、アメリカ西海岸にむけて一日一時間ずつの放送がおこなわれた。その後、戦時体制にはいると、プロパガンダの意味もあって海外放送はいよいよさかんになり、敗戦前年の昭和一九年一一月には、一三方向、二四カ国語、一日のべ三二時間あまりにわたって海外放送がおこなわれていた。  こうした国際放送に最初に手をつけたのはイギリスであって、すでに一九三二年から、海外の植民地や自治領にむけて放送をはじめている。なお、世界ぜんたいを通信衛星でつないだ最初の国際テレビ放送がおこなわれたのは一九六七(昭和四二)年。   8月12日 ■ふしぎな聴取料■明治三二年ごろから、東京の下町の縁日に「蓄音機屋」というのが出現した。これはべつに蓄音機を売るわけではなく、小さな屋台を飾りたて、その中央に蓄音機を置いて、そこからさながらタコの足のごとくに細いゴム管をぶらさげている。蓄音機屋はこの新発明品について口上をのべ、お客から二銭ずつあつめて、そのゴム管を耳にあてさせ、おもむろに蝋管を機械にはめこんでハンドルをうごかす。すると、ゴム管をつうじて「越後獅子」などがきこえてくる、というわけ。音声、録音をきくために金をとったという点で、これは聴取料のはじまりともいえるし、また、ゴム管による個別聴取イアフォーンのはじまりといってもよかろう。もっとも、このころ、西洋ではすでに円盤レコードが出現しており、日露戦争のとき、それとは知らぬ日本兵がロシア軍の陣地を占領してレコードを発見し、それをロシア式センベイとカンちがいしてかじった、という珍談もある。レコードの発明者はいうまでもなくトマス・エジソンで、かれは一八七七年八月一二日に、スズ箔を使った最初の円筒式レコードを発明した。 ■トイレ今昔■ヨーロッパの家庭では、近世まで排泄物の処理は室内でおこなわれていた。つまり、寝室のサイド・テーブルのそばに便器を置き、そこで用をたしたのであった。そして、その内容物は窓から道路を目がけて投げ出された。たとえば、イギリスのアン女王(一七一四年八月一二日生)のころのエジンバラの風物詩として、つぎのような記載がある。 「夜明け頃になると、五階から一〇階にわたる建物の窓がひらかれて、それまでの二四時間に排泄されたものが街上に投げ出された。その際、投げる人は、�水に注意�と叫ぶのがエチケットで、運わるくその下を歩いていた通行人は�ちょっと待って!�といって付近の軒下にかけこんだ。放出物の悪臭で、夜明けの空気は堪えがたいものだったが、朝までに市の雇人がそれを片づけた。しかし日曜日は労働禁止なので、終日路上に放置されていた」  ヴェルサイユ宮殿には、周知のように、トイレというものがひとつもないが、当時のヨーロッパの宮殿では、どこでも事情はおなじであった。要するに、用をたすときには、庭に出たのである。ヴェルサイユ宮では、ルイ一四世の時代になって二六四個の便器が配置され、色とりどりのビロードの布でおおいがかけられるようになった。  水洗便所が発明されたのは一八七〇年ごろであって、イギリスのジョン・R・マンなる人物がその発明者として名をとどめている。ただ、その流しかたにはその後改良が加えられ、水漕から水を急出させる特許は一八八八年、腰かけ式便器の特許は一八九一年にみとめられている。したがって、こんにち一般に使われているトイレは、まだ一〇〇年の歴史をさえ経ていない。日本にこの洋式のトイレをはじめて輸出したのは、イギリスのメーカーの記録によると一九〇七年ということになっているが、それがどこにとりつけられたのかはさだがではない。   8月13日 ■火事からできた酒■一八世紀なかばのある日のこと、メキシコ中央高原のテキラという寒村のちかくで山火事があった。この地方の草原に生えている竜舌蘭も、黒こげになってしまった。ところが、この山火事の焼跡を歩いてみると、ふしぎなことに、いいにおいがする。どうやら、それは焼け焦げた竜舌蘭の株から発しているらしい。そこで、好奇心から、村人のひとりが、その株をぎゅっと押してみたら、チョコレート色の液体がほとぼしり出た。口にしてみると、ほどよい甘さがある。要するに、竜舌蘭が熱によって糖化していたのだ。  糖化した液体だから、これをさらに醗酵させ、蒸溜すればアルコールにするのは簡単である。スペイン人は、こうしてあたらしい酒をつくった。酒づくりに必要な水は、テキラ村にある。そこで、テキラを中心にしてできあがったこの新酒は「テキラ」という名でだんだん世界じゅうに知られるようになった。  メキシコでは、アステカ時代から竜舌蘭を原料にして酒をつくることがおこなわれていたが、それは五〇年にいちどぐらいこの植物が花を咲かせる直前に芯をひき抜き、そこから分泌する糖分を原料にしたもので、「プルケ」と呼ばれる。ただし、これはアルコール含有量五度くらいで、酒というよりは清涼飲料にちかい。これにくらべると、「テキラ」は四五度。かなりつよい酒である。 「テキラ」はよく知られているように、塩を親指と人差指のつけ根のくぼみに置き、この塩を口にふくんでから飲むが、この塩は、ふつうの塩ではなく、グサノ・デ・マゲイなる虫の分泌物である。メキシコを征服したエルナン・コルテスが最終的に軍事的占領を完了したのは一五二一年八月一三日。かれは「プルケ」をその地に発見し、メキシコ文明の優雅さに感動した、という。 ■骸骨理事長■ジェレミー・ベンサムは弁護士を父として生まれ、めぐまれた中産階級的生活様式を背景に七歳でウェストミンスター校にすすみ、一二歳のときにオックスフォードのクイーンズ・カレッジに進学した。そして一八歳のときにはすでに修士号を獲得。まさに才子である。かれは弁護士の資格も得たが、もっぱら著述に専念した。「最大多数の最大幸福」というベンサムの倫理学は、いまさらいうまでもなく多くの人が知っている。  ベンサムの思想は有名になり、かれはヨーロッパを代表する思想家のひとりになったが、どういうわけかかれは生涯を独身ですごした。そしてかれは一八二七年にユニバシティ・カレジ病院を創立し、その初代理事長に就任した。そこまではよかったのだが、死期が近づくとかれは奇妙な遺言をのこした。つまり、じぶんの全財産を病院に寄付するからそのかわりにじぶんの遺体をそのまま保存して会議のたびに理事長席にすわらせてくれ、というのである。病院の医師たちはその遺言を守り、かれの死体をミイラ化させ、右手にステッキ、左手に白手袋をにぎらせ、さらにちゃんとした服装をととのえて頭にはシルクハットをかぶせた。  なにしろ、創立者の遺言なのだからしかたがない。ベンサムの骸骨はこんにちもなおユニバシティ・カレジ病院に保存され、理事会のたびに議長席にはこびこまれ、無言のまま議事の進行を見とどけている。  このユニバシティ・カレジ病院にはもうひとりの著名人がかかわりあっている。それは博愛家で看護婦のF・ナイチンゲール(一九一〇年八月一三日没)。彼女はこの病院に附属して看護婦学校をつくった。その設立を承認したのがミイラのベンサムであったことはいうまでもない。   8月14日 ■コレラ上陸■一八二二(文政五)年八月一四日、日本ではじめてのコレラ患者が出た。おそらくジャワ、上海、ホンコンなどからの船舶交通によって日本に上陸したとおもわれるが、コレラ菌は患者や保菌者の排泄物中にふくまれ、それによって経口感染する。突然はげしい嘔吐や下痢がはじまり、体内の水分が減り、血液の循環がおかされて、一日あるいは二日のうちに死んでしまう。あまりにも急激な伝染病であっというまに死ぬものだから、「コロリ」という病名でおそれられた。  もともとコレラは古くからインドのガンジス河のデルタ地帯で発生したものであるらしいが、東西交流がさかんになるにつれてその流行範囲もひろがり、一八一七年以来、アジア全域からヨーロッパにまで到達した。なおコレラ菌はコッホによって一八八三年に分離発見されているが、こんにちでもコレラ汚染地域は地球上にかなりのこっている。 ■運転免許証のはじまり■自動車が普及するにつれて当然交通事故も発生するようになる。そのためには運転者のがわに自動車についての知識も必要だし、なによりも運転技術がしっかりしていなければならない。そこでこれは免許制にすべきだ、とかんがえはじめたのはフランス人である。すなわち一八九三年、パリ警察は「いかなる自動車も、警察が所有者の要求によって発行する正規の認証なしには使用できない」という条例を公布し、それにもとづいて、第一号の運転免許証が同年八月一四日に交付された。その後三年間にパリ警察が発行した免許証は合計一八○○件ほどである。  イギリスで免許制度が導入されたのは一九〇三年。その制度が発足したのも奇しくも八月一四日であった。イギリスのばあい、運転資格は一七歳以上、そして交通違反が二度くりかえされると免許停止になった。  日本では一九〇七(明治四○)年、自動車取締規則が公布され、その年の二月に鈴本守貞という人が免許証第一号を手にしている。しかし、この鈴木氏はそれから一五年ほど経って大正一〇年八月に踏切事故を起して残念ながら免許停止となっている。   8月15日 ■最後の砲撃■太平洋戦争でいったい、何発の砲弾や銃弾が日米両軍のあいだでかわされたかわからない。しかし、日本が一九四五年八月一五日に無条件降服を決定した時点で砲火はおさまったのである。それでは、この戦争での、最後の一発は、どこで誰が放ったのであろうか。正式の記録によると、グリニッチ標準時で一四日午後九時一七分(日本時間一五日午前六時一七分)に、アメリカ潜水艦トルスク号が日本沿岸の警備艇を撃沈した魚雷がそれであった。降服の時刻はそれより二時間四七分あとの一四日午後一一時だったのである。  とはいうものの、正確にいうと日本の降服後もアメリカがわからの発砲があった。降服の五時間一五分後に、アメリカの軍艦ヘルマン号は、日本軍の飛行機が一機接近してくるのを発見した。もはや戦争はおわっているのだ、ということをヘルマン号の艦長以下すべての乗員は承知していたが、飛行機が接近するにつれ、どうやら体当りのカミカゼ攻撃をかけてくるもののようにおもわれたので集中砲火を浴びせて撃墜した。その砲声をもって太平洋戦争は終結したのである。 ■大和煮のはじまり■罐詰という保存食品の発明を奨励したのはナポレオン(一七六九年八月一五日生)だが、この罐詰技術を日本で展開させたもののひとつに「大和煮」がある。これは明治二〇年代に東京赤坂の黒田侯の庭園にカモの大群があつまるのを見て、四谷の某氏が発案したものといわれる。要するに、渡り鳥のカモをシーズン中に大量につかまえ、これを醤油やミリンで煮て罐詰にしてしまう、というわけ。こんな料理はまったくの新製品。しかも純日本産であるから「大和煮」と名づけた。  この罐詰はたいへん好評だったが、やがて原料のカモが減少してしまったため、かわりに牛肉を使うことになった。明治天皇も明治三五年にご賞味になっているし、この罐詰は日露戦争以来、軍用食としてさかんに使われた。 ■刺身の起源■刺身を食べるのは日本人だけだといわれるがそれは誤りだ。太平洋地域でも生魚を食べるし、華南の海鮮料理も刺身の一種である。むかしは「刺身」とは書かず「魚軒」または「指身」などと書いた。『倭漢三才図会』には「肉塊細く切りたるを膾《なます》となす、大に切りたるを魚軒となす」とあるが、古くは文安五年八月一五日の『中原康富記』に「二献二冷面ヲ用ウ、鯛ノ指身ヲ用ウ」という記述がある。文安五年といえば一四四八年。そのころから鯛の刺身はごちそうであったとみえる。  ただ、この時代には、まだ醤油の醸造がおこなわれていなかったので、梅干、辛子酢などが使われた。なぜ「刺身」というか、といえば、調理された魚肉を見ただけではその魚がなんであるかわからないので、鯛なら鯛と識別できるように、その魚のヒレを、盛りつけた皿といっしょに刺しておいたからだ。   8月16日 ■ジャンボ送り火■お盆の送り火は全国共通の行事だが、京都はさすがに日本の首都であったがゆえに、送り火の大きさを競いはじめ、室町時代には高さ二メートルの灯籠がつくられたりしたこともあった。そうした大型送り火の極限として、それならいっそのこと山に送り火をつけてしまえ、という突飛なアイデアが出てきた。それが大文字である。  八月一六日の夜は、如意ヶ岳の大文字、衣笠山の左大文字をはじめ、西賀茂の船形、松ヶ崎の妙法、水尾山の鳥居形といわゆる京都五山の送り火にいっせいに火がつく。このうちもっとも有名な如意ヶ岳の大の字は第一画八○メートル、二画一六〇メートル、三画一二〇メートルで、この字画にそって合計七五の火床がしつらえられている。そして、この大という字を輝き出させるためには三〇〇束ちかい薪が使われ、その総重量は四〇〇〇キログラムあまり。送り火としては日本一のジャンボ版である。この材木あつめと点灯をうけもつのはその山麓にあたる浄土寺村の農家四〇戸とむかしからきまっている。  大文字のはじまりは弘法大師から、という言いつたえもあるが、記録としては一七世紀はじめの公家の日記にみえているのが古く、室町以前にはひとつも記録がない。おそらくはじまったのは戦国時代であろう。 ■べーブ・ルース物語■ベーブ・ルース(一九四八年八月一六日没)は一八九四年、ボルチモアのスラムに生まれた。幼いときに親を失ったが野球が大好き。その才能をギルバートという実業家に見出されたのが契機で一九歳のときにプロ野球入りする。チームは地元のバルチモア・オリヌール。初任給は月額一〇〇ドルであった。  このチームでのルースは投手だったが、バッターとしての能力を見抜いたのがレッド・ソックスのスカウト。そしてそのスカウトの眼力に狂いはなく、大リーグに参加してまもない一九一五年五月に第一号ホームランを飛ばし、二二年間に七一四本のホームランを放った。一九二七年には一シーズン六〇本という記録をのこしている。かれは一九三八年、ドジャースの監督を最後に引退したが、一九三四(昭和九)年には日本にアメリカのオールスター・チームの一員として来ている。  かれじしんが両親にめぐまれなかったこともあって、かれは孤児に深い思いやりを示し、太平洋戦争が終了し、日本に戦災孤児がたくさんいることを知ると、この孤児たちに宛てて手紙を書き、心からの激励を送った。それにこたえて、日本野球連盟では甲子園の正面入ロにかれのレリーフを彫りこんだ。一九四九年のことである。   8月17日 ■スマトラ帰属の問題■一九四五年八月一七日、すなわち日本が太平洋戦争に敗北してから二日後にインドネシアは独立を宣言して、東南アジアにおける大国のひとつとなったが、インドネシアのなかでもっとも大きな島のひとつ、スマトラ島の帰属がきまったのは闘牛の試合によってであった。  というのは、この島はマレーシアとインドネシアの境界にあり、この島がはたしてマレーかインドネシアか、という領土問題は古くから両国間の懸案になっていた。もちろん、このふたつの国はけっして近代国家として領土を争ったのではない。双方ともしいていえば土侯国、そして両国間に最初の戦争が起きたのは四世紀のことである。ふたつの国はその軍隊を総動員して戦いはじめた。しかし、かんがえてみれば、領土をめぐって多数の人間が血を流し、死んでゆく、などというのはあまりにもバカバカしい。そこで、両国の指揮官はひそかに談合した。そして、それぞれに、もっとも強いとおもわれる水牛を一頭ずつ出して闘牛をおこなわせ、勝ったほうがスマトラ島をとる、という方法で決着をつけることにした。まことに平和的かつ良識的な解決策である。  やがてその勝負の日がやってきた。両国それぞれにえりすぐった水牛が角を突きあわせて死闘する。兵士たちはその闘牛の応援団である。そして結局のところ、マレーがわの牛が勝ち、スマトラはマレーの一部としてみとめられることになり、この島は「メナンカバウ」島と名づけられた。「メナンカバウ」とは「水牛の勝利」という意味である。スマトラがインドネシアの一部になったのは一三世紀のシンガサリ王朝の時代になってからだが、いまなお「メナンカバウ」族がスマトラにはのこっている。 ■蒸気船うごく■一七九〇年代に科学好きのエジンバラの銀行家P・ミラーは、蒸気機関を船にとりつけて走らせてみよう、と思いつき、スコットランドの谷間の湖で実験してみた。処女航海は大成功で五ノットのスピードが出た。詩人のR・バーンズもなぜかこのときの航海の乗組員のひとりであった。  ミラーはいちど航行に成功すると、あれほど熱心だった汽船への興味を失い、本業の銀行事業に戻ってしまったが、エンジンの設計にあたったW・サイミントンはその後蒸気船熱にとりつかれ、「シャーロッテ・ダンダス号」なる汽船をつくり、運河のハシケの運搬用に使ってみた。性能は抜群だったが、こんな船を使われたら堤防がこわれてしまう、という反対運動にあい、この船は廃棄処分になる。  そこにこんどはアメリカの発明家R・フルトンが登場する。かれはこうした先駆者のしごとを土台にして、一八○三年にフランスで蒸気船をつくり、セーヌ河で走らせてみた。いくつかの欠陥はあったがまずまずの成功。そこで四年後の一八○七年八月一七日、ホームグラウンドたるアメリカに戻り、ハドソン河で「クレアモント号」を走らせてみた。排水量一〇〇トン、出力二〇馬力のこの船は、エンジンをかけると、しずかにうごきはじめたが、すこしすすむととまってしまった。観衆は口笛を吹き鳴らしてフルトンをからかった。しかし、三〇分ほどエンジンの点検調整をおこなったところ、ふたたび船は進みはじめ、こんどはみごとにハドソン河を上流にむかってさかのぼり、ニュー・ヨークからオルバニーまで二〇〇キロちかくを三二時間で完走した。河の流れの早さを勘定にいれると、スピードは七ノットくらいであったと推定される。ここから蒸気船の時代がはじまったのだ。   8月18日 ■秀吉と橋梁工学■日本の一六世紀は、石工、木工技術の大革新期であり、その土木工学によって、多くの長橋が建設されるようになった。大坂城の大工事を終えた豊臣秀吉(一五九八〈慶長三〉年八月一八日没)は、京阪に大規模な橋をつぎつぎにかけた。まず、大坂では天満橋、天神橋、そして難波橋。この三つは大坂の三大橋と呼ばれ、そのうちもっとも長いのは難波橋で一二八間であった  ひきつづき、一五九〇(天正一八)年には、京都の三条大橋が架けられた。長さは七一間で大坂の三大橋にはおよばなかったが、その橋を支えるためには六三本の石柱が用いられた、それというのも、秀吉は小田原征伐に大軍を送るため、この三条大橋は、とくに頑丈でなければならなかったからである。この工事の実施にあたったのは増田長盛であって、そのときにつくられた擬宝珠はその銘文とともにいまなおのこっている。なお、このころには黒鍬組という工兵隊も組織されていた。黒鍬組は、もと、武田信玄が訓練養成していた部隊で、かれらは道路工事に秀で、小田原征伐にあたっては、全軍の尖兵となって道路づくりに専心した。そして、黒鍬組は徳川時代にもひきつづき活動し、赤坂に幕末まで居住していた。 ■焼酎の伝播■一六〇三(慶長八)年八月一六日、宇喜多秀家は八丈島に流された。一族二二人。しかし、鳥も通わぬ八丈島、などというけれども、じつは島は島どうしでさまざまな交流があった。とりわけサツマイモを原料とするイモ焼酎は島づたいにひろがったようである。その伝播経路はさだかでないが、もともとは元の時代に中国でつくられ、それがタイに南下して再び黒潮にのって琉球につたわったものであるらしい。いうまでもなく琉球泡盛である。  その製法はついで薩摩につたわり、島津家は泡盛を暑気払いとして慶長年間から徳川家に献上していた。泡盛というのは、そのアルコール分を測定するのに水を加えて混合し、その泡の量を尺度としたことがその語源である。焼酎についてはポルトガル語のアラックが輸入されたこともあり、これが転じて焼酎は「荒木酒」または「亜利吉酒」と呼ばれたりもした。  この製法は鹿児島から八丈島にもつたえられる。日本列島の本土に住む人びとがもっぱら陸路によって物産や技術を各地につたえていたのにたいして、島に住む人たちは、海上の道でさっさと焼酎をつくっていたのであった。   8月19日 ■永代橋が落ちた■「ロンドン・ブリッジが落ちた」というイギリスの童謡があるが、江戸では、その名にそむいて永代橋が落ちた。それは一八〇七(文化四)年八月一九日のできごとである。  深川八幡のお祭りは例年八月一五日、ところがこの年は当日が豪雨、一六、一七日も雨つづき、やっと一八日になって晴れ間がでてきたので、お祭りは一九日に延期された。ちょうどその当日には、身延山からの出開帳で浄心寺へもたくさんの人が出てくる。永代橋をわたる人たちの数はおびただしい数にのぼり、橋をわたることをあきらめて、渡し船にのる人さえすくなくなかった。  いよいよ祭りが最高潮に達し、山車《だし》が出るころになると、ぜひともそれを見ようというので永代橋をわたる人の数はますますふえて、橋上は身うごきできないほど。ところが、そこに、水戸の家斉の弟にあたる一橋民部卿がご通行、というハプニングが起きた。非公式とはいえ、大名行列に準じた通行だから、道をあけなければいけない。寄せられた人びとは、しぜん、橋のうえにさらに密集することになり、その重みにたえかねて、ついに永代橋は折れて落ちてしまったのである。橋の幅はおよそ七メートル、それが二四メートルの区間、ぽっきりと落ちた。単純な面積計算をしてみても一五〇平方メートルちかくがあっというまに大川に沈んだのであった。当然のことながら、この区間に居合わせた人たちも落っこちたし、あとから押しあいへしあいしていた人たちもつぎつぎに水のなかにほうり出された。泳げる人の何人かは助かったが、水死体として確認された犠牲者はおよそ四〇〇人。しかし、前記のように、集中豪雨の直後であったから、水の流れは早く、推定によるとこの日に水死した人は一五〇〇人以上であろうといわれ、江戸における最大の水難事件となった。 ■写真機の誕生■カメラということばは、一七世紀以来画家たちが野外写生用に持ち歩いた暗箱(カメラ・オブスクラ)の略である。この暗箱は像を鮮明にすりガラスのうえに投影し、それを下絵にして画家たちは構図をきめた。そのすりガラスのかわりに塩化銀紙を使って画像を焼きつけよう、というアイデアは、まずフランスのアマチュア科学者J・N・ニエプスにはじまり、かれは一八一六年に像を化学的に固定することに成功したが、ポジをつくることはできなかった。  これに刺激されておなじくフランスのL・T・ダゲールは一八三〇年から写真機の開発に専念し、ついにダゲレオタイプと名づけた箱型写真機を完成した。その成功がパリのアカデミーに報告されたのが一八三九年八月一九日。このときから近代写真術がはじまるのである。  日本では、これらの発明を書物で読んで実験したのは薩摩藩の川本幸民。藩主の島津|斉彬《なりあきら》もその実験に加わった。一八五一年ごろのことである。開国後は下岡蓮杖がハリスの通訳ヒュースケンから写真術を学んだ。おもしろいことに、生麦の変にあたっては諸藩の血気さかんな志士たちが、いずれは捨てる命、というわけで、せめても形見にと写真を撮ってもらいにやってきた。   8月20日 ■最初の流行作家■滝沢馬琴は江戸深川で松平藩の藩士の家に生まれた。要するに武士である。父の死後、当然家督を相続したが、武家社会はどうも肌に合わなかったらしく、家の障子に「木がらしに思いたちたり神の供」という俳句を書きつけて放浪の旅に出た。これが一四歳のときだから、その文才はおどろくべきものがある。  やがて二三歳になり、やっとかれはじぶんの将来がみえてきたような気がした。戯作者となって文章に生きようというわけである。さっそく当時の人気戯作者山東京伝の門をたたいてその弟子となり、翌年さっそく|『尽 用《つかいはたして》二分狂言《にぶきようげん》』という作品を処女出版した。  その後、縁あって飯田町の下駄屋に婿養子として入り、いっぽうで下駄の商いをつづけながらもっぱら執筆活動に専念する。その作品は合計三〇〇篇余にのぼり、流行作家となった。かれは版元(出版社)とこまかい実務的とりきめをおこない、著作活動で得られる印税、原稿料をきっちりととって、それを主たる収入源とした。かれは文筆業者として生活することのできた世界最初の流行作家であった、といってもよい。  馬琴の後期の作品には長篇が多く、『椿説弓張月』『俊寛僧都島物語』などがあるが、なんといっても、かれの名を不朽のものとしたのは『南総里見八犬伝』であろう。伏姫と八房のむすびつきから八犬士が生まれ里見家のために忠勤をはげむ、というのがその大筋だが、全九八巻一○六冊。まさしく大河小説である。馬琴はこの作品を書くにあたってひろく中国の古典を読み、『水滸伝』や『西遊記』に匹敵する壮大なドラマを創作することを決意したといわれ、多彩な人物が複雑にからみあいながら、けっして散漫になることなく、読者を飽きさせない。  馬琴がこの大作に取り組みはじめたのは一八一四(文化一一)年、そしてその最終巻の筆をおいたのが一八四一(天保一二)年八月二〇日。つまり合計二八年間という長期にわたって書きつづけた。このとき馬琴はすでに七一歳である。そのうえ、このころになると、中年以来わるくなった眼がますます悪化してほとんど失明同然。だから馬琴が「書いた」というのは正確ではない。かれは息子宗伯の嫁のお路に口述筆記で書かせていたのであった。かつての最盛期にくらべるとこの当時の馬琴は経済的にも窮乏しており、『八犬伝』完成のために、その厖大な蔵書も半ば売り払ってしまっていた。  この大作を最後に、その七年後に馬琴は死んだが、かれは『八犬伝』こそじぶんの代表作と信じ、「我を知るものはそれ八犬伝か」ということばをのこしている。その自信のほどがうかがわれるし、その自信の正しさはこんにち証明されている。   8月21日 ■行方不明の「モナ・リザ」■一九一一年八月一二日、パリのルーブル美術館はちょうど休館日にあたっていた。この日、美術館の職員でイタリア人のV・ペルギーアは、かねてからの計画どおり、ダ・ヴィンチの傑作「モナ・リザ」をルーブルから盗み出すことに成功した。内部の事情をよく知っているペルギーアにとって、この盗みは思ったより簡単だったが、盗んだ絵を運び出すのにはずいぶん苦労した。というのは、この名作はキャンバスではなく木の板に描かれていたからである。だが、とにかく、この大きな絵をかれは自分のアパートにはこび、トランクの底にかくしておくことに成功した。  当然のことながら、この盗難事件は大きなセンセーションを巻きおこしたけれど、人のうわさも何とやらで、二年経つと、もはや「モナ・リザ」の行方についての探索も下火になった。そのときを見はからって、ペルギーアは「モナ・リザ」を母国イタリアに売ろうとした。かれは、この絵は、当然イタリアに戻されるべきだ、という愛国心をもっていたのである。だが、このこころみはあっという間に発覚し、ペルギーアは逮捕され、絵は無事にルーブルに戻った。そのいささかの愛国心のゆえに、裁判で申しわたされた刑は比較的軽く、一カ月あまりの禁錮刑。  とはいうものの、もともと、ダ・ヴィンチにも多少の責任はある。なぜなら、ダ・ヴィンチは、フロレンスの商人F・ジョコンダの若い妻の肖像画を描くことをひきうけながら、あまり画業に専念せず、モデルになったジョコンダ夫人をほったらかしにして、天文学やらあたらしい機械の発明やらに熱中していたからである。あんまり長いあいだ待たせられたものだから、ジョコンダはしびれを切らして契約をとりけし、いっぽう、ダ・ヴィンチはその未完成の肖像画に手をいれて、さっさとルーブルに売ってしまった。これが「モナ・リザ」なのである。母国イタリアに里帰りさせたい、というペルギーアの心情はわからないでもない。  ちなみに、その行方不明中の二年のあいだに「モナ・リザ」のニセモノが何枚か出まわった。すくなくとも、アメリカの金持六人が、それぞれニセモノをつかまされ、当時の金で、それぞれ三〇万ドルを支払った、という記録がのこっている。 ■ガス灯の発明■ろうそくやランプから電燈へ、という移行期の中間に、ごく短いあいだではあったがガス灯の時代があった。石炭ガスを最初に照明用に使ったのはC・スペディングという人物で、その時代は一七六〇年と記録されている。そして一八世紀末にイギリスのW・マードック(一七五四年八月一二日生)がついに実用的なガス灯の発明に成功。そしてそれにつづいてフランスのP・ルボンが一八○一年パリで公開実験をおこなった。実験成績は上々だったのだが、どういうわけかフランス政府はこれに興味を示さず、しかもルボンは一八○四年にシャンゼリゼで何者かに刺されて謎の死をとげる。  いっぽう、マードックはルボンの成功の報をきいておどろき、じぶんの発明をより完成度の高いものにすることに熱中したが、それとほぼ同時に、F・ウィンザーというドイツ人がイギリスにのりこんできて、ガスを地下配管で各戸にくばり、その端末でガス灯に点灯できるようなシステムをイギリス議会に売りこんだ。結局のところ、ガス灯という単品の発明者であるマードックは、システムを商品としたウィンザーに敗北してしまったのである。かくして、最初のガス配給組織としてナショナル・ライト・アンド・ヒート株式会社が一六一二年に発足、一四年からガスによる街灯の照明もはじまった。ガス灯の人気は高く、会社の発足後七年のあいだに本管四六〇本、そしてガスをひきこんだ事務所や家庭は合計五万一〇〇〇にのぼった。   8月22日 ■東京駅の誕生■こんにちの東京駅は東海道線、東海道新幹線、中央線などの起点となっており、日本における鉄道輪送の大中心の役割を果たしているが、東京駅ができたのは意外にあたらしい。正式に開業したのは一九一四(大正三)年のこと。  いうまでもないことだが、日本の鉄道はまず新橋からはじまった。それをさらに都心までのばして東京中央停車場をつくろうという計画は明治中期から立てられていたが、不況や日露戦争のおかげで工事は見送りとなり、結局、大正時代にまで建設が持ちこされてしまったのである。  この東京駅の設計にあたったのは辰野金吾(一八五四〈安政元〉年八月二二日生)。かれは東京の工部大学でイギリスの建築家J・コンドルについて本格的に西洋近代建築を学んだ第一回卒業生で、のちイギリスに留学し、日本における近代建築の草分けとなった。伊東忠太、関野貞といった大正・昭和の代表的建築家は辰野の門下生である。東京駅は辰野の代表作であると同時に日本建築史上の記念碑的作品だ。本屋約七〇〇〇平方メートル、附属施設一五〇〇平方メートルという大空間を左右対称のしっかりした手法でまとめ、鉄骨を石材とレンガで包んだこの建物は東京名物のひとつとなった。だが一九四五年の戦災によって外壁以外はことごとく燃えてしまい、修復後のすがたは原型とだいぶちがったものになった。  ついでながら、東京駅の誕生とともに新橋駅は東京での旅客ターミナルとしての役割を失い、かわりに貨物の大集散駅となった。いうまでもなく汐留駅である。 ■赤十字の起源■一八五九年、イタリア統一戦争のとき、たまたまイタリアを旅行中であったスイスの青年実業家J・デュナンは、戦火のなかでうごめく負傷者たちが誰からも手当をうけることなく苦しんでいるのを見て、「ああ、みんな人間どうしなのに」と叫んだ。かれはさっそく有志に呼びかけ、負傷者の収容と看護にあたった。このときからデュナンは戦争での負傷者を中立的に看護する制度を国際的につくりあげることに力をそそぎ、一八六四年、スイス政府の援助のもとにジュネーブで一二カ国の政府代表をあつめ、いわゆるジュネーヴ会議をひらくことに成功した。これら参加国が協定に調印したのはその年の八月二二日。そして、この意義ある会議を主催したスイスに敬意を表して、スイス国旗(赤地に白十字)の色を反転させた赤十字をこのあたらしい組織のシンボルにすることに決定したのである。  ジュネーヴ協定、または赤十字協定はたんに傷病者のみならず、抑留者や捕虜についての保護規定をもふくんでおり、敵がわの捕虜になってもリンチをうけたり殺されたりすることがないようになった。赤十字旗のあるところは中立地帯であって、それは戦場でも攻撃目標にしてはいけないのである。船舶についても、赤十字のついた病院船はこれまた聖域。つまり、デュナンは近代戦にあらたな倫理規定を持ちこんだのだ。   8月23日 ■まんじゅうの起源■まんじゅうの起源については諸説あるが、諸葛孔明(二三四年八月二三日没)の発明とする説が正統であろう。孔明はいうまでもなく『三国志』でおなじみの蜀の天才的智将。かれは孟獲を征したときに、蛮神を祀るにあたって、それまでは人身御供をささげ、人の首を祭る習俗があったのに反対し、人のかわりに羊の頭をささげよ、と命じた。この習慣が、のちになかに肉をつめ、麺で包んだ饅頭《まんとう》になったのである。だからほんらいのまんじゅうは肉まんなのであった。  ところで、日本の南北朝のころ、京都建仁寺の三五世龍山禅師が留学を終えて帰朝するとき、中国から林浄因という弟子を連れてきた。かれは奈良に住み、妻を迎えてまんじゅうをつくった。これが「奈良まんじゅう」のはじまりである。ただおもしろいことに、日本のほうは肉食厳禁。そこで肉のかわりにアンコをいれた。『倭訓栞』という本には「西土の饅頭の餡は鳥獣の肉を用い、本邦には赤豆砂糖を用う」とある。  さて、林浄因の孫の孫、つまり浄因の五代目に紹伴という人物がいた。家業がまんじゅうつくりであったところから、菓子研究のために父祖の地たる中国に渡り、帰国後、一時、三河国塩瀬村に住んだが、のち京都に上って烏丸でまんじゅう屋をひらいた。これが「塩瀬まんじゅう」。のちこの店は江戸に移ってこんにちなお有名である。 ■広告国家■日本はやたらに広告の多い国である。よその国では想像もつかないようなところに広告が出されている。そのひとつが電柱にベタベタと貼られる広告。最近では条例で禁止されるようになったところも多いが、電柱広告が警視庁によって許可されたのは一八九〇(明治二三)年八月二三日。 ■制服さだめられる■明治維新は日本の旧体制を根本からくつがえすような大変革だったが、気がついてみると、武家の服装が完全に無政府状態になっていた。公家のほうは有職故実式の服制のさだめを守っていればよかったけれども、幕末の動乱で武家のほうは在来のハカマもあるし、洋式訓練を受けた人たちはズボンをはいている。それに加えて、新政府には官吏が続々と任命されているが、こちらのほうも何をどう着ていいものやらわからない。  そこで一八六八(明治元)年八月二三日に従来の礼服を廃し、同五年から大礼服および礼服を西洋服とした。さらに一七年には、高級官吏について礼服、通常礼服、通常服の三種類がさだめられた。こうした官吏の服制にしたがって、軍人、警察官、鉄道員、郵便局員といった職業の人びとの服装もできあがってゆく。学校もそれに倣ったので、明治中期には日本、とりわけその都市部では制服国家とでもいうべき様相を呈するようになった。   8月24日 ■ドーバー海峡を泳ぐ■一八七五年八月二四日、イギリスの帆船航海士M・ウェッブは史上はじめて英仏海峡を泳いで渡った。かれはドーバーの波止場から泳ぎはじめ、高波とたたかいながら、ジグザグ・コースでとにかく対岸のカレー市に泳ぎついたのである。その距離八○キロ。所要時間二一時間四五分。ドーバー市長は、これこそ英帝国の栄光、とウェッブをほめちぎり、ウェッブは一夜にして英雄となった。  だが正確にいうと、ドーバー海峡を泳ぎきったのは、かれが最初ではない。ウェッブに先立つこと三カ月、アメリカのP・ボイトンなる人物が二三時間余でみごとにこの海峡を泳いで渡った。ただ、ボイトンは救命胴衣を着用していたので、正確な意味で「泳いだ」ということにはならなかったのである。  ウェッブの偉業にたいして、イギリスの世論は讃辞を借しまなかった。かれのゆくところ、かならず、群衆が押し寄せ、英雄の顔を見ようとひしめきあった。ウェッブは、イギリス海岸のあちこちの海水浴場で水泳を指導したり、模範泳法を披露したりした。しかし、人の噂もなんとやらで、二年ほど経つと、かれの名前は忘れ去られてしまったのである。そして、好事家たちは、ウェッブを海辺に連れていって泳がせ、果たして何時間この男が泳ぎつづけることができるか、という賭をたのしんだりした。長時間泳げば、それだけウェッブの賞金も多くなる。かれはある時、七四時間を泳ぎつづけ、四〇〇ポンドの賞金を得たが、落ち目になるいっぽう。  ウェッブに目につけたアメリカの興行師は、かれの名声回復のため、ナイアガラの滝壺を泳がせよう、とかんがえた。一八八三年の夏、ウェッブはこの挑戦にこたえ、観衆の見守るなかで滝壺にとびこんだが行方不明となった。死体は三日後に浮びあがった。いま、かれの墓はナイアガラ墓地にある。 ■最初のジェット機■ジェット噴流の推力によって飛行するジェット機は、こんにちではごくふつうのものとなったが、その第一号機はドイツのハンス・フォン・オイハンの設計によるハインケルHe一七八型機である。この実験飛行がおこなわれたのは一九三九年八月二四日。ひそかにこの新型飛行機の開発がはじめられたのは一九三七年のことだ。  これをモデルにしてやがてメッサーシュミットMe二六二A型戦闘機が大量生産され第二次大戦で活躍すべく用意されたのだが、ときすでにおそく、その初登場は一九四四年。時速八六〇キロのジェット戦闘機隊はその後まもなくドイツの敗北によっていっこうに力を発揮できなくなってしまった。  日本でもメッサーシュミットにならって三菱がB29迎撃用のジェット戦闘機「秋水」をつくった。時速八○○キロで大いに期待をもたれたが、試験飛行を一回しただけで敗戦。いっぽうアメリカもジェット戦闘機の開発に力をそそぎ、XP—59Aというのをつくったが、性能はプロペラ機におよばなかった。だが、こうした第二次大戦中の飛行機技術は戦後にもちこされてジェット機時代をつくりあげたのである。   8月25日 ■大日本国正統図■一四七四(文明六)年八月二五日、三条西実隆は後土御門天皇から地図の模写を命ぜられた。その原本になっているのは唐招提寺にある「南瞻《なんぜん》部洲大日本国正統図」という地図である。「南瞻部洲」というのは仏教用語であって、現世すべてを包括する観念。したがって、この地図は、いわば世界のなかでの日本を位置づけたもの、ということができるだろう。  この地図は、行基のつくったものとつたえられるもののひとつであって、日本製地図としては最古のものにぞくする。ただ、これは、地理学的な正確さを狙いとした測地図というよりも、むしろ、各地方の関連をトポロジカルにあらわした概念図である。長方形のこの地図は、その周囲に解説文をめぐらし、中央部にえがかれた日本列島は、あたかもサツマイモのごとき形状を呈している。いちおう畿内から瀬戸内、四国、九州、そして五島列島あたりまでの描きかたは正しいし、房総半島もおぼろげながらみえている。しかし、東北地方などは風船玉のようにふくれあがっていて、いっこうに見当がつかない。  そのうえ、この日本についての記述は大いにマユツバものだ。たとえば寺が二九〇〇、神社二万七〇〇〇などとあるのはまだしものこと、人口については、「男一九億四千八万二十八人、女二十九億四千八百二十人」というおどろくべき数字があげられているのである。さらに天の高さは「一万八千九百四十里」とあり、末尾には「弘法大師記之」とある。  とはいうものの、これは日本という国についての輪郭をあきらかにした最初の地誌というべきであって、室町時代の日本人がみずからの国についての意識を高めてきたことをしめすものといえる。 ■真田家の鉄砲■種子島に鉄砲が渡来したのは一五四三(天文一二)年八月二五日のことであったが、徳川時代二五〇年はおおむね天下泰平のうえ、武器の開発に制限がくわえられていたから、日本の鉄砲はいわゆる種子島銃のままたいした進歩もなかった。  ところが、ここに片井京助なる人物があらわれる。かれは松代藩の鉄砲師として真田幸貫に仕えたが、在来型の種子島銃が非能率であることに着目し、早撃ち銃を開発した。その発明の要点は、火繩を使用するかわりに、砲身の手もとに小型の鉄製の箱をとりつけ、そこに発火用の丸薬を充填し、箱を手前に引くと、そのたびに丸薬が火皿に投入され、これに衝撃をあたえることで発射される仕掛けになっている。在来の火繩銃で二発射撃する時間に、この新型銃は七発を発射することができた。  この新兵器は、松代藩の幹部だけが知る最高軍事機密とされていたが、幕末の風雲急を告げる時代になると、その製法を一藩のみが独占することはゆるされない、ということになり、幕府は松代藩にその提出を命じた。そして江戸で試射をおこなったところ、その性能にはおどろくべきものがあり、幕府は、即座に三百挺の製作を京助に命じた。  京助は、さらに高速の早撃ち銃を開発すべく松代藩の軍学者でもあった佐久間象山の指導をうけ「迅発撃銃」を開発した。これは、近代銃砲の特徴である薬莢を使用した元込銃であって、まったく西洋の鉄砲技術から独立した新発明品であった。このほか、かれは、四連発銃、六連発銃から、半自動機関砲まで製作したが、結局のところ、時代のピッチのほうがはやく、実用に供されることはなかった。だが、小藩といえども、かつて大坂の役における真田幸村の伝統をひいて、真田家の軍略は幕末まで生きつづけたのである。   8月26日 ■フレンチ・フライのはじまり■一八三七年八月二六日、パリからサン・ジェルマンまでの鉄道が開通した。パリから到着する一番列車を出迎えるべく、地元の楽団は音楽を奏でる準備をする。また、コックは腕によりをかけて祝賀会にそなえる。当日のメニューは牛のヒレ肉ステーキと揚げたじゃがいも。  列車到着の時刻が近づく。コック長は、ぴったりその時間にあわせるように油を大鍋に煮えたぎらせ、じゃがいもを揚げはじめた。ところが、世のなかはままならぬもので、列車は大幅に延着ということになってしまったのである。黄金色に揚げられたじゃがいもは、すっかり冷えて、ぐにゃりとしてしまった。これではどうにもならない。コック長がまっ青になったとしてもふしぎではなかろう。  だが、どうにかしないことには急場をしのげない。窮余の一策で、列車の到着と同時に、すでに揚げられたじゃがいもを、もういちど油のなかにほうりこんだ。もう、ヤケなのである。ところが、二度めに揚げてみたら、じゃがいもはふくれあがり、表面はカリカリに固いのに内がわはやわらかくなった。列車から降りたルイ・フィリップ王は、これこそ珍味、というのでコック長をほめたたえ、おかわりを所望なさった。  なお、じゃがいもという植物は南アメリカ原産であってこれがヨーロッパに渡来したのは一六世紀なかばのことであった。日本にはヨーロッパ経由で一五九八年に輸入されたのがそのはじまりである。一八世紀になると、その栽培は本格化し、人間の食用としてだけではなく、家畜の飼料としてもひろく利用されるようになり、飢饉や戦乱にさいしては救荒食となった。 ■化学染料のはじまり■ヴィクトリア女王の夫であったアルバート公(一八一九年八月二六日生)は科学の振興に熱心で、王立科学専門学校をつくり、化学者のA・ホフマンをその初代校長に任命した。  ホフマンの学生のひとりにW・パーキンという一八歳の青年がいて、かれはキニーネを化学的に合成しようと実験をくりかえしたが、いっこうに成果はあがらず、キニーネのかわりに茶色の沈澱物を得ただけだった。しかしパーキンは、化学的にこうして「色」ができることに興味をもち、アリニンを使って紫色の結晶体をつくることに成功した。これで絹を染めてみると、じつにその色沢が美しい。かれは、さっそく染色工場をつくり、さまざまな色の合成にのり出した。事業は大成功でヴィクトリア女王もパーキンのつくった藤色を好まれ、切手にまでその色が使われた。  こんな脇道にそれてしまった弟子に、最初のうちは先生のホフマンも批判的だったが、やがてその意味をみとめ、逆に積極的に協力するようになった。そしてホアマンじしんも、ローザニリンという紅色の染料を開発したのである。ところが折も折、イギリスはドイツとのあいだの貿易が赤字で、その返済手段として、こんなふうに成功した染料技術をドイツの化学工業にゆずりわたしてしまったのである。   8月27日 ■ジキル博士とハイド氏■スコットランドのエジンバラに、W・ブロディなる人物がいた。生年は一七四一年。かれの職業は家具屋であり、同時にエジンバラ市の要職にもついていた。ゆたかな商人、そして、信頼のあつい行政官──これがブロディを見る世間の眼というものであった。  ところが、このエリートは、夜になるとすっかり人格がかわったのである。つまり、かれは夕方に数杯のビールを飲みほすと、昼間につきあう人びととはまったく異質の人びと、つまり、盗賊だの、いかがわしい人物だのの仲間に入って、べつの人生を送ったのだ。かれは市内の商店の合鍵をつくり、夜中にしのびこんで現金や商品を盗み出したのである。  その盗みはつぎつぎに成功した。それに味をしめたブロディは三人の手下とともに一七八八年三月、エジンバラ市の金庫をおそい数千ポンドの現金を盗もうとしたが、職員のひとりが、たまたま現場に来てしまったのでブロディ一味は逃亡した。市当局は、犯人のうち、誰でも名のり出ればその人間の罪は問わない、という布告を出した。ブロディに恨みをもつ手下のひとりがその布告にこたえて警察に出頭し、真相を洗いざらい報告した。ブロディは、いちはやくエジンバラを離れ、ロンドンまで南下し、フランスゆきの船に乗った。だが船客のひとりが、ブロディが指名手配中の人物であることを、掲示されていた似顔絵から見破り、それを報告した。ブロディは逮捕され、一七八八年八月二七日に裁判にかけられて絞首刑を言いわたされた。  死刑執行の当日、かれは、喉に銀製のパイプを呑み、絞首台で窒息しないですむように準備し、みずからの「死体」をあらかじめ手配済の医師のところにはこび、生きかえることができるよう、計画を練った。だが、このこころみは成功せず、死んだ。R・スチーブンソンは、この事件に興味をもち、一五歳のとき「二重生活」という戯曲を書いた。これをさらに展開させたのが『ジキル博士とハイド氏』なのである。 ■史上最悪の津波■一八八三年八月二七日、クラカトア火山の大爆発によって海面が盛りあがり、おそろしい津波がジャヴァ西部とスマトラ東部に押しよせた。突然のことでもあり、これらの島の島民たちは海岸部に多く居住していたから、あっというまに合計三万六〇〇〇人がこれに呑まれて死亡した。この津波の余波はインド洋から喜望峰をまわって大西洋にいたり、クラカトアの噴火後三三時間でイギリスに達し、ロンドン周辺でもかなりの水位の上昇がみられた。また、東にむかっての余波は太平洋をわたり、パナマやカリフォルニアでも異常な海面の盛りあがりが観察された。  日本の三陸海岸の津波は一八九六(明治二九)年六月一五日に起きた。その原因となったのは海底火山の噴火であって、この日、海岸では、たまたま神社の祭礼がおこなわれており、二万人ほどの人びとが海辺にいた。突然おそいかかってきた三〇メートル以上の津波で、合計二万七〇〇〇人が死に、九〇〇〇人が負傷し、家屋一万三〇〇〇戸が波に呑まれた。釜石では人口の七二パーセントが死んだ。だが、皮肉なことに、五〇キロほど沖合で操業していた漁船は津波をほとんど感じることがなかった。巨大な海水のかたまりは、漁船群の下を猛スピードで通過していたのである。そして漁師たちは、ふだんのように魚をとり、母港に帰ってはじめてその大惨事を知ったのであった。この津波の余波は一〇時間後にサンフランシスコで感知されている。  ところで、この津波の経験から、日本では津波の研究がはじまり、その成果は世界最高の水準を誇ることになった。現在、「ツナミ」という日本語は、地球物理学や海洋学の専門家のあいだでは学術用語として確乎たる市民権を獲得している。   8月28日 ■ワグナーの放浪■一九世紀ドイツが生んだ最大の作曲家リヒアルト・ワグナーは、その晩年の大作「ニーベルンゲンの指輪」でかれの作曲技法のみならず、世界観ないし哲学のことごとくを集大成したが、この大作曲家の生涯は波瀾に富んでいた。  まずその一〇代には文学に関心をもち、一三歳のときにシェクスピアもどきの戯曲を書くほどの早熟児。一五歳になってベートーヴェンの音楽に接し、作曲に生きようと決心してライプチヒ大学に入って哲学と音楽を専攻したはいいが、放蕩のかぎりをつくして中途退学。あらためて勉強をしなおして「ハ長調交響曲」を書くが、結果はかんばしくない。  二〇歳になって歌劇「恋愛禁制」をつくり、これを無理に上演しようとして失敗したばかりか、女優M・プラナーのあとを追って各地を転々とする。「恋愛禁制」どころのさわぎではない。どこに行っても、ワグナーには幸運はめぐってこないようである。かれはヨーロッパ各地を転々とし、ついにロシア領リガまで放浪する。名もない小楽団の指揮者をつとめてはやがて失業——そのくりかえしだ。二六歳のときには借金を背負ったうえでまたもや失業である。借金とりから逃れるため、リガからパリヘ放浪はつづく。  花のパリでも、無名の若いドイツ人作曲家など相手にされるはずはなかった。ひとの作品の編曲をしたり、写譜のアルバイトをしたりして辛うじて糊口をしのぎながら、「リエンチ」と「さまよえるオランダ人」の二曲をつくりあげる。このときにワグナーのライト・モチーフ(指導動機)の作風が芽生え、同時にこの二曲が故国ドイツでみとめられ、このへんから運が向いてきた。二九歳のときである。  この二作の上演が成功したのでワグナーはドレスデンで宮廷劇場第二指揮者に任ぜられ、ひとまず安定を得た。このときにかれの中期の二つの歌劇「タンホイザー」と「ローエングリン」が完成する。とくに後者はロマンチックな甘美な旋律によってひろく愛好された。その記念すべき初演は一八五〇年八月二八日。ワグナーは三七歳のはたらき盛りである。ところがかれは宮廷指揮者でありながら革命運動に参加したため指名手配。あわててスイスに亡命する。また放浪がはじまった。  このスイス亡命中に「ニーベルンゲンの指輪」に着手したが、ここではショーペンハウエルの厭世哲学に共鳴し、「指輪」は中断して「トリスタンとイゾルデ」にとりかかる。ところが「トリスタン」は興行的に失敗し、ワグナーはふたたびどん底に突きおとされ、絶望状態におちいってしまった。  そんなときバイエルンの国王ルードヴィヒ二世から突然、国賓として遇するという手紙が舞いこみ、ワグナーはどん底から救われる。国王はワグナーの生活を保障し、自由に創作活動をさせてくれた。ここでかれはまず「ニュールンベルグの名歌手」を書き、つづいて「指輪」にとりかかる。こうなるとワグナーはじぶんの作品を思う存分に上演するための劇場が欲しくなる。国王はこれを許し、その結果バイロイト祝祭劇場ができあがった。このコケラおとしは一八七六年。そしてその七年後にワグナーは七〇歳で死去した。放浪者は最終的には功成り名遂げたのである。   8月29日 ■専売制のはじまり■特定の品物を政府が独占的に生産を管理し、販売権をも独占するのが専売制だ。そのおもな狙いは国家の財政収入を安定させることにあるが、西洋では絶対王制下ではじまり、日本では幕藩体制下で各藩がその財政上の理由から専売制を採用した。加賀や仙台でははやくから米や塩は藩の専売品だったが、とりわけ西国の諸藩では、たとえば松江の鉄、長州の紙、ロウソク、姫路の木綿、皮革、薩摩の黒砂糖といったふうに、それぞれの特産品について専売制を施行し、その蓄積がひいては明治維新における西国雄藩のエネルギー源となった。  しかし、幕府じしんも江戸中期になると財政難を打開するために専売制を導入することにした。その品目は油。各地でさかんになってきた菜種油を全面的に幕府が収入源にしようというわけ。各藩はもとよりのこと、農民も自由市場を失ってすくなからず難渋した。この油の専売制が施行されたのは一七五九(宝暦九)年八月二九日のことだ。 ■流刑者奇談■オーストラリア最大の都市のひとつメルボルンがあらたな都市計画のもとに建設の第一歩をふみ出したのは一八三五年八月二九日のことであった。  そもそもオーストラリアの存在はふるくから知られ、二世紀にアレクサンドリアのプトレマイオスの地図にすでにその姿をあらわしているし、当然のことながら、東南アジア、とりわけマレー半島やインドネシアの人びとにはかなりむかしから知られていた。しかし、この大陸にヨー口ッパ人が入ったのは、一六〇六年、スペインのL・V・トレスがニューギニアとのあいだの海峡(トレス海峡)を通過したのがそのはじめである。その後一八世紀後半には、イギリスとフランスがオーストラリアの領有をめぐってはげしい競争をつづけたが、結局のところ、クック船長が一七七〇年にシドニーの南方ボタニー湾に上陸して、こんにちのサウス・ウェールズ地方をイギリス領として宣言した。ちょうどそのころイギリスは北アフリカの植民地を失った。この地方はイギリスの流刑地であったため、イギリスはさっそく、オーストラリアをそれにかわる流刑地として利用することにした。囚人たち七〇〇名を乗せた第一回の船団一一隻は一七八七年にこの新大陸に到着し、一八四〇年までつぎつぎに囚人が送りこまれた。オーストラリアを開拓したのはこれらの流刑囚たちであったといってよい。  しかし、母国からへだたったオーストラリアまでの道のりはあまりにも遠く、途中で脱走をはかる者もすくなくなかった。そのうちのひとりJ・オコーネルは、囚人船からひそかに太平洋のまっただなかで小型ボートで逃亡し、どういう運命のいたずらか、中部太平洋のポナペ島に漂着してしまった。海岸にはポナペの原住民が槍をかまえて待ちうけている。しかし殺される運命にあったオコーネルは、ひょうきんなしぐさで原住民を笑わせ、そのままこの島に住みついて何年かをすごした。そのあいだにかれはからだじゅうにいれずみをほどこし、やがて沖合を通過した船に救助された。イギリスに帰ってからは、そのいれずみを売りものにしてサーカスをおこない、それによって有名になった。脱走者の多くが誰にも知られることなく太平洋の藻屑と消えたことをかんがえれば、この人物はまことに幸運であったといわなければならない。   8月30日 ■ステレオ音響■おなじ音源から左右の耳にことなった音を送って立体感をつくり出そうというアイデアを最初にもったのは、ドイツ人のクレメント・アーデルである。かれは劇場の両袖にマイクを置き、そこから有線で聴取者の耳のイヤフォーンにつなぎ、パリ万国博で公開して大きな評判になった。アーデルのこの発明は「劇場用改良電話装置」という名称で一八八一年八月三〇日に特許があたえられている。ラジオのステレオ放送は一九二五年コネチカット州でおこなわれたのがはじまりで、ステレオ・レコードの特許は一九三〇年にA・D・ブルムラインなる人物がとっている。 ■ブタの演奏会■フランスのルイ一一世(一四八三年八月三〇日没)は、退屈しのぎに、なにかおもしろい楽器ができないものか、と近くにいたベイヌの修道院長に話しかけた。修道院長は、かしこまって候、とひきさがり、珍案・奇案を練りはじめた。かれは、ふと、ブタの鳴き声で音楽演奏ができないものか、というかんがえにとりつかれ、さまざまなブタを小さな杖で叩き、その品種や大きさによってブタの声がちがう、ということを発見した。そして、どうやら、これら多様なブタの鳴き声をオクターブに編成することができそうだ、という自信を得て、ブタによる演奏会をこころみることにしたのである。  いよいよ、そのコンサートの当日になった。大きなブタが低音部、子ブタが高音部──何十頭かのブタが音階にしたがってテントのなかに並べられる。それぞれのブタの背中のうえには、叩き棒がぶらさげられており、その叩き棒からはロープが張られて、そのロープの末端が演奏家の修道院長の手もとにある鍵盤につながっている。修道院長が特定のキーを叩くと、それが特定のブタを叩き、そのブタが一定の音階でブー、と鳴く、というわけ。王様はもとよりのこと、宮廷の貴族たちの居並ぶまえで、修道院長はうやうやしくお辞儀をし、鍵盤にむかって優雅なる宮廷音楽の演奏を開始した。叩き棒がうまく命中すればそれなりの音が出るはずだったが、あたっても鳴かないブタもいるし、命中しないこともある。ただならぬ気配に、叩き棒があたらないのに嗚くブタもいる。したがって、かならずしも音譜どおりに音楽が奏でられたというわけではないが、記録によると、どうやら、辛うじて「音楽」と呼ぶことのできるものをきくことができたそうである。参会者ことごとく抱腹絶倒。いずれにせよ、このブタのコンサートは大成功裡にその幕を閉じた。   8月31日 ■ブレヒトの実験■B・ブレヒトは、他の多くの作家たちとおなじように幼児期から好奇心きわめて旺盛で、一六歳のころからペンネームで詩や評論を書きはじめた。のち医学を志すが、やがて戯曲の創作に専念するようになる。その代表作『三文オペラ』はやがてクルト・ヴァイルの作曲によってあらたな大衆的オペラになるのだが、そのなかで歌われる「マック・ザ・ナイフ」はそれじしん独立してヒット曲のひとつになった。  ところでこの「マック・ザ・ナイフ」というのは有名なロンドンの連続殺人事件「切り裂きジャック」をそのまま詠みこんだもの。この「切り裂きジャック」なる人物はロンドンの売春婦をつぎつぎに残酷な方法で殺害した凶悪犯。被害者は体じゅうを深くナイフで刺されたうえ、ときには内臓までが抜きとられていた。この犯人からロンドン警察に宛てられた手紙によると、犯人はそんなふうにして抜きとった内臓を食べたというから、たんに凶悪というだけでなく、精神異常というほかはない。かれは当局が知っているかぎりですくなくとも七件の殺人事件を連続して犯しているが、ついにその正体はあきらかにされなかった。『三文オペラ』はロンドンのみならずヨーロッパぜんたいをおどろかしたこの事件をエピソードとして入れたのである。「切り裂きジャック」の第一回の犯行は一八八八年八月三一日。被害者はM・アン・ニコルズという女性であった。 [#改ページ]   九  月   9月1日 ■地下足袋の活躍■足袋《たび》の製造をおこなっていた日本足袋株式会社の社長石橋徳二郎は久留米の人。ところが、大正のはじめに横浜で外国人がゴム靴(九月七日の項参照)をはいているのを見かけ、そこからヒントを得てゴム底の足袋を試作し、大正一二年から売りはじめた。市販に先立って石橋は九州の炭坑で炭坑夫たちに試験してもらった。炭坑内、すなわち地下で使用するからいつしか「地下《じか》足袋」と呼ばれるようになった。  ところが、市販をはじめると間もなく関東大震災の一九二三(大正一二)年九月一日。その復興のために全国からあつまった労務者たちがこの地下足袋を作業用に使い、たいへん好評であったところから、爆発的に売れるようになった。これを契機に石橋は足袋屋からゴム工業に転身する。こんにちのブリヂストンは「石橋」をひっくりかえして英訳した会社名だ。 ■ダイアモンド秘話■ルイ一四世(一七一五年九月一日没)は、一六四〇年にタヴェルニエなる宝石商から一一二カラットという大きなダイアモンドを買った。だが、この宝石は、まもなく、ちょっとしたまちがいで割れてしまった。王室御用の宝石商は、その割れたダイアを四四カラットの宝石につくりなおしたが、この作業中に熱病にかかって死んでしまった。とにかく、こうしてつくりなおされたダイアは、王室の財務長官であったフーケが着用することをゆるされた。ところがそれを着用したとたんに、不正行為が発覚して、フーケは翌日に解任された。  このダイアモンドは、やがてイギリスのヘンリー・ホープ卿が買いとって、それを息子にゆずり、ホープ家の家宝となった。だが、このダイアを手に入れてからつぎつぎに不幸が訪れ、ホープ家は破産する。ホープ家からこれを買いとったのはポーランドの貴族だった。かれは、それを愛人であるパリの踊り子にプレゼントしたのだが、この女性もまもなく死んでしまった。こうした因縁つきのダイアは、二〇世紀のはじめに、新聞経営者のマクリーンのものになったが、ダイアを手にしたとたんに、夫人から離婚を請求され、そればかりか、かれの経営する新聞社も破産した。マクリーンは、養老院で淋しく死んだ。マクリーンのふたりの子どもも事故で死亡した。これを最後に買いとったのは、アメリカの宝石商ハリー・ウィンストンだが、かれは、このダイアにまつわる不幸をよく知っていたので、一九五八年にワシントンにあるスミソニアン博物館に寄贈した。このダイアは「ホープ・ダイアモンド」として知られ、いまもスミソニアンにある。 ■野球解説者のはじまり■一九五一(昭和二六)年九月一日、大阪の新日本放送と名古屋の中日放送のふたつの放送局が、ほとんど同時に民間放送第一号として電波を流しはじめた。機械設備その他は最新式で問題はなかったが、放送にあたる人員のほうにつぎつぎに問題が起きてしまった。なにしろ局員の大部分はまったくのシロウトであって、放送には珍談・奇談が続出する。NHKなどからあらかじめ助言をうけたり、スタッフをスカウトしたりということはあったらしいが、とても人員が足りない。  とりわけ困ったのは野球の中継放送である。野球のラジオ放送のためにはそれ専門のアナウンサーが必要だったし、なによりも野球というスポーツについて熟知していなければならない。開局したばかりの民間放送にそんな器用な人材がいるはずはないが、しかしそうかといって野球中継をしないわけにはゆかない。そこで窮余の一策として、プロ野球の引退選手などを起用し、シロウトのアナウンサーと対話してもらう、という形式をとった。ところがこれが大成功だったのである。なぜなら、聴取者の大部分はシロウトであり、したがってアナウンサーは聴取者代表、といったかたちになったからだ。この苦肉の策が、結局のところ「野球解説者」というあらたなタレントを誕生させたのである。   9月2日 ■奇妙な海戦■シーザーの死後、ローマの主権を継ぐべき候補者はオクタビアヌスとアントニウス。アントニウスの妻はオクタビアヌスの妹で、したがってこのふたりは義理の兄弟ということになるのだが、エジプトに渡ったアントニウスはクレオパトラに夢中になり、ついに妻を離婚した。つまり、ふたりの後継候補者のあいだには関係がなくなったのである。そこで両者の権力争いがはじまった。  アントニウスはクレオパトラとともにアンブラキア湾に大型の軍艦を浮べてオクタビアヌス側の艦隊を迎え撃つ態勢をとった。オクタビアヌスのほうの軍艦はことごとく小型で、小まわりはきくが、アントニウスの大型艦にぶつけられたらひとたまりもない。ところがアントニウスのひきいる大型艦は小型艦にぶつかるだけの速力がでない。そんなわけで、この海戦は珍妙なものになった。オクタビアヌス側の小型艦は三、四隻がチームを組んでアントニウス側の大型艦にぴったりと横づけになり、兵士たちは、船上で白兵戦を展開した。紀元前三一年九月二日のことである。戦闘はオクタビアヌスの圧倒的勝利。アントニウスとクレオパトラは逃げ出し、翌年自殺した。 ■椿と文芸■椿は朝鮮半島、山東半島から日本にかけて自生する植物で、むかしは「海石榴」と表記された。この植物が最初に記録にみえるのは『日本書紀』であって、それによると、景行天皇は豊後《ぶんご》国の土蜘蛛、すなわち土着の豪族を討つにあたって椿の木をあつめてそれで武器をつくり、山野にたてこもる敵を徹底的に平定した、とある。じっさい、この地方は椿の産地として有名であって、『延喜式』にも豊後は豊前《ぶぜん》、肥後などとならんで椿油をその特産品としていた。  この植物は一八世紀はじめに宣教師がヨーロッパにはこび、カメリアという名で知られることになる。フランスの作家デュマは、さっそくこの異国情緒あふれる椿の花を手にして社交界をはなやかにめぐりあるく女性を主人公にして『椿姫』を書き、さらにヴェルディがこれを同名のオペラにして不朽の作品となった。  いっぽう、日本では秀忠がたいへんに椿を好み、文化・文政期までには合計四〇〇ほどの新品種がつくられていた。烏丸広光などは、日本の国花はもはや桜ではなく椿である、などといいはじめるしまつ。馬琴が源為朝を主人公にして書いた『椿説《ちんせつ》弓張月』で椿を題名に詠みこんだのは、為朝の配流《はいる》地であった伊豆大島が椿の名産地であったことにもよるが、同時に、この植物がこんなふうに準国花的な高雅なイメージをもっていたからであった。為朝が大島に流されたのは一一五六(保元元)年九月二日。   9月3日 ■クロムウェルの首■イギリスの名誉革命の主役O・クロムウェルは一六五八年九月三日にその五九歳の生涯を終えた。当然のことながら、かれの葬儀は盛大にとりおこなわれ、遺体は鄭重にウェストミンスター寺院に安置された。しかしかれの死後まもなく政治情勢は逆転して、かれは許すべからざる国賊となり、その棺はむざんにもあばかれた。そればかりではない、クロムウェルの遺体はバラバラに切断され、その首は鉄の棒の先に突きさされて、その後二四年間にわたってロンドンでさらしものにされてしまったのである。  ところが、一六八五年、大嵐がロンドンを襲い、クロムウェルのさらし首は落ちてしまった。そして守衛のひとりがそれを拾い、自宅の煙突のなかにかくし、その秘密を娘にだけ明かしてやがて死んだ。どのような経過であったかはあきらかでないが、一七一〇年ごろ、この首は売り出され、一七七五年にはS・ラッセルという俳優の手に入っていた。ラッセルはこの首を見世物にし、見物料をとって収入源とした。一七八七年、ラッセルはそれをJ・フォックスなる宝石商に売り、フォックスはさらにボンド通りの商人たちのグループに転売した。この商人たちは、大々的に見世物興行をこころみたが、たいして客をあつめることはできなかった。  一八一四年、クロムウェルの首はウィルキンソン博士なる人物が買いとり、それをいわば家宝として代々つたえることにした。首はカシの木でつくった箱にいれられ、絹布で包まれ、そのままウィルキンソン家に安置されつづけた。だが、一九六〇年になって、ウィルキンソン家の当主は、この首をクロムウェルの出身校たるシドニー・サセックス大学に贈ることにした。同校は、これをうけとり、大学構内に埋葬したのであった。クロムウェルの首は、三世紀にわたって転々とし、やっとここで安住の地を見出すことができたというわけだ。 ■百科事典の災難■フランスの啓蒙時代を象徴するのがディドロの編集する『百科全書』であったことはここであらためていうまでもないことだ。編集の基本になっているのはあくまでも近代合理主義であり、神秘主義はもちろんのこと、非合理的な神学にたいしても批判的な姿勢がつよく打ち出された。かくして、こんにちの百科事典の原型となる『百科全書』はみごとに進行しはじめたのだが、保守派はこの出版計画に大反対。あれこれと妨害や脅迫じみたことまで執筆者たちの身辺で起るようになった。怖気づいた執筆者のなかには脱落する者も出てくるしまつ。  そこに追討ちのパンチとして出てきたのがバチカンの法王庁である。内容が怪しからぬというので『百科全書』を所持している者はことごとく破門、というきついお達しが出た。一七五九年九月三日のことであった。カトリック教国たるフランスの知識人は、あらたな啓蒙思想への魅力は捨てがたく、さりとて教会から破門になるのもおそろしい。『百科全書』を買った人たちは、ひそかにそれをひもとくのみであった。   9月4日 ■救世軍のはじまり■一八九五(明治二八)年九月四日、救世軍のライト大佐が来日し、その思想に深く共鳴した山室軍平らはさっそく日本でも救世軍活動を開始した。歳末の社会なべなどをつうじて、この実践的なキリスト教団は馴染みぶかい。  ところで、救世軍とはいったいどのようにしてはじまったのであろうか。その発端は一九世紀なかばのイギリスにさかのぼる。ロンドンのメソディスト教会の牧師であったW・ブースは、産業革命の進行にともなって生まれてきた都市の最下層の人びとがいっこうにキリストの福音にふれていないことに気がついた。あまりの貧しさのために、貧民街の人びとは信仰生活に入る余裕をもっていなかったのである。ブースは、これらの人びとに教会に来るように呼びかけたが、あまりその効果もなく、また、来る人があっても、既成の教会のメンバーはそれを歓迎しなかった。  そこで、一八七八年にかれはこうしためぐまれない人たちを対象にあらたな教団を組織し、それを救世軍と名づけた。その名のしめすとおり、救世軍はその組織形態からすると軍隊にその範をとっており、ブースじしんが大将、そして将官、佐官、尉官といった階級システムがつくられた。制服も軍隊と似たものにした。この疑似軍隊が戦うべき相手はもろもろの社会悪であり、その悪の犠牲となった貧しい人たちを救うのがその目的である。ブースは、抽象的な神学をあげつらうのでなく、慈善事業や社会福祉事業に実践的にとりくんだ。ライト大佐が日本に来たとき、日本もおなじような問題に直面しはじめていたから、山室らは敏感にそれに反応したのであった。 ■五〇歳からの出発■伊能忠敬が測量技術を学び、日本地図の作製に手をつけはじめたのはかれが五〇歳になったときであった。それまで忠敬は下総国佐原の伊能家の当主として活躍していたが、五〇歳でひとつの区切りをつけて隠居し、江戸に出て天文の専門家高橋至時の門下生となって天文と測量を学習した。  初老にさしかかったひとりの男が、五〇歳でまったく異質の学問に手をつける、というのは、それだけでもさわやかな物語だが、忠敬はこうして学んだ測量学を使ってみずから日本列島を踏査し、日本全土の地図をつくることを決意したのである。かれは六年間にわたって学習をかさね、五六歳の春、まず蝦夷地(北海道)から手をつけることにした。そして、それ以後一六年の年月をついやして、ついに日本全国の正確な地図を作製したのである。この地図のうち伊豆諸島については部下を派遣したが、他の部分はことごとくみずから歩いて実測したのである。その集大成としての「日本沿海地図」が完成したのは一八二一(文政四)年九月四日。  かれのつくった日本地図は一般に「伊能図」と呼ばれ、その原本は幕府に献上されたが、たまたまそれを見たシーボルトはその正確さにショックをうけ、日本の技術文明に感嘆してさっそく模写してヨーロッパに持ちかえった。明治初年に政府はあらたに日本地図を作製するにあたって、伊能図を基礎とした。近代測量技術からみて、伊能図はほとんど完全にちかかったのである。   9月5日 ■海賊旗の起源■八九四(寛平六)年九月五日、新羅《しらぎ》の海賊船四〇隻余が対馬を襲った。しかし海賊が西洋で本格化するのは一七世紀から一八世紀にかけてであろう。このころ、イギリスやフランスの海賊船は大西洋からインド洋にかけて大活躍。しかも、しばしば海賊たちは権力の保護下にあった。たとえばアメリカのスペイン領で掠奪をかさねたドレーク船長はその財宝の半分をエリザベス女王に献上しているし、フランスのシャルル二世なども大っぴらに海賊船のパトロンになっている。  このころになると、海賊たちは一種の組合のようなものをつくり、西インド、マダガスカルなどを基地にして「海岸の兄弟」などというギルドを組織し、規則をつくった。それによると、掠奪品の分配は公正でなければならず、それに違反したばあいには耳や鼻を削ぐ、とか、分配高が一人あたり一○○○ポンドになるまでは掠奪と襲撃を中止しない、とかいった厳密な規定が設けられている。片脚を失った海賊というのは映画や小説でおなじみだが、そんなふうに脚を失うと八○○ポンドの補償金がもらえる、といったような社会保障制度もととのっていた。  ところで、海賊といえばすぐに思い出すのがドクロの絵をあしらった黒旗である。黒旗を使うまえにはかれらは赤旗を使い、抵抗する者は徹底的に撃滅する、という意志を表示したが、一七〇〇年にフランスの海賊E・ウィンは、セント・ジャゴ島沖でイギリス軍艦と遭遇し、このときにはじめてドクロのついた黒旗をあげた。黒旗は降服勧告の旗であり、徹底攻撃の赤旗にくらべると、より文明的であったともいえる。いや、海賊の立場からみても、やみくもに攻撃するよりも、すんなりと財宝や積荷をもらったほうがどれだけ効率が高かったかわからない。それだけ海賊哲学も進化したのであろう。  この旗がじっさいに使われたのは一七〇〇年から一七二三年までのわずかな期間であったが、海賊旗のイメージは鮮烈であり、イギリスではこのガイコツを「ジョリー・ロジャー」という愛称で呼んだ。こんにちでも、医学部の学生たちのあいだでは、ドクロは「ジョリー・ロジャー」の名で呼ばれている。 ■児童文学のはじまり■文字教育がひろがり、いささかの経済的余剰が生まれてくると、子どもむけの文学が東洋でも西洋でも出版されることになった。イギリスでは一六、七世紀ごろ「ホーンブック」と呼ばれる絵本が子どもたちのあいだでひろまり、一六七八年、バンヤンの『天路歴程』がひとつのランドマークになったし、フランスでは一六九九年にフェヌロンの書いた『テレマックの冒険』が児童文学の第一号といわれる。  日本はヨーロッパよりさらにはやく、一六五〇年ごろには、室町時代に成立した御伽草子などの翻案を中心に、児童むけの草双紙が刊行されはじめている。そうした説話を現代的に再構成したのが巌谷|小波《さざなみ》(一九三三〈昭和八〉年九月五日没)。小波は、はやくからその文才をあらわし、大町桂月、江見水陰とならんで文学三羽烏といわれたが、『黄金《こがね》丸』という児童文学を執筆して以来、もっぱらこのジャンルで活躍し、近代日本児童文学の基礎をきずいた。   9月6日 ■鉄道の栄光■一八七六年九月六日、サンフランシスコとロスアンゼルスをむすぶ南カリフォルニア鉄道が開通し、こんにちのアメリカ西海岸都市ベルトのもとになる動脈が完成した。ロスアンゼルスは、このときから西海岸の商工都市としての未来を約束されることになったのだが、ふと気がついてみると、たいへんな乾燥地帯であったがゆえに、水不足がはなはだしく、人口増加はおのずから制限され、鉄道開道後数年のあいだは、年間一〇〇〇人そこそこが移住したにすぎなかった。  この鉄道が開通して五日後の九月一一日、こんどはセントルイスからカリフォルニアをむすぶ大西・太平洋鉄道会社が設立され、アメリカは鉄道ブームをむかえる。なお、この年、カリフォルニアで栽培された果物がはじめてミシシッピー地方に出荷され、アメリカでの物流は新時代をむかえることになった。  いっぽう、ヨーロッパに眼を転ずると、この年、ワゴン・リー社は、はじめて寝台車を採用することになり、その参考とするため、同社の社長で技術者のG・ナゲルメーカースはアメリカにやってきてプルマン型寝台車に試乗している。  とはいうものの、鉄道時代は同時に鉄道事故というあたらしい種類の災害をももたらすことになる。この年の一二月二九日、オハイオ州のアシュタブラにつくられていた鉄道橋のうえを通過中の一〇輛編成の列車が脱線して五〇メートル下の湖に墜落した。機関車は焔をふき上げながら沈没し、客車に乗っていた乗客のうち八三人が犠牲となった。橋の設計がわるかったのか、それとも機関士の運転にミスがあったのかは、その後も裁判がつづき、結局は、機関士のスピードの出しすぎ、という判決がくだった。その結審まで七年かかっている。 ■メイフラワー号と人口問題■最初のアメリカ移住者をのせた「メイフラワー」号が大西洋を横断する航海に出たのは一六二〇年九月六日。一般の歴史の書物によると、この船に乗ったのはイギリスからオランダに亡命した清教徒たち、ということになっているが、船客名簿をつぶさに検討してみると、一〇一人の移民のうち、こうした宗教的亡命者の数はわずか三五人であった、ということがわかる。のこりの七〇人ほどは、職人だの家事労働者など。  つづいて移住してきたイギリス人は浮浪者、脱走囚などをふくむ下層階級の人びとであった。一六〇〇年の経済恐慌がこうした初期の移住の背景にはたらいており、失業した炭鉱夫や工場労働者が、これにつづいた。いわば、アメリカという新世界はイギリスにとっての「ゴミ捨場」のごときものだった。  ところが一八世紀になると、突如としてアメリカヘの移住には他の要因が加わるようになる。それはイギリスの人ロがおどろくべきスピードで増加してしまったからだ。じじつ一七五〇年から一八五〇年までの一世紀のあいだに、イギリスの人口は三倍にふくれあがり、小作人たちは農場から追い出されたのである。しかもこの時代になると、新大陸アメリカは、人びとが夢を託すに足るだけの実力をつけはじめていた。かくして、アメリカヘの移住集団としてのイギリス人の人口が圧倒的優勢を占めることになり、ついにアメリカは英語を国語とする新興国になったのであった。   9月7日 ■ゴム靴のはじまり■きょうはブラジル建国記念日。ブラジルが世界文化に貢献した例はいくつもあるが、そのなかのひとつにゴム靴がある。そもそもゴム靴というのは、アマゾン奥地のインディオたちが、足先にゴムの樹液を塗りつけ、ジャングルのなかをうごきまわるにあたって足を保護するために発明したもの。ゴムが乾くたびに上に何層にも塗りかさねたから、厚さは二、三ミリとなった。そして、そこまで厚くなると、ゴムの弾性によって着脱可能になり、これがゴム靴の原型になったのである。  一八世紀のおわりにブラジルに旅行したアメリカ人がこれを見つけて持ち帰ったところ、雨の日に便利だというので大好評。そこで何足もまとめて輸入してみたのだが、商品としては成功しなかった。というのは、インディオの足を型にしてつくられたゴム靴は平均的アメリカ人の足にはあわなかったからである。アメリカ人の足にあわせるため一八二〇年ごろ、ボストンの靴屋が木で型をつくり、それにゴムを塗付してゴム靴を売り出した。それまで靴といえば、その素材は革か布にかぎられていたわけだから、ここではじめて文明世界にゴムという新素材が紹介されたことになる。  日本では一八六〇(万延元)年の遣米使節がまずアメリカでこれを見て記録にとどめているし、一八八○(明治一三)年ごろにはすでにアメリカからの輸入がはじまっているが、国産品の第一号ができたのは一九一六(大正五)年である。すなわちこの年、奈良県の米田某という人が農家の副業としてはじめ、その製法を教えられた松田奈良一がそれから二年後に神戸の神港ゴム製造所で本格的生産にはいった。神戸のゴム工業は、これを契機にいよいよ着実な地歩をかためたのである。 ■江戸のコピー・ライター■広告の文案をつくる人のことをコピー・ライターというが、江戸の戯作者たちはしばしば広告文案をつくったり、ときにはみずから商品の販売をしたりした。山東京伝(一八一六〈文化一三〉年九月七日没)などもそのひとりである。かれは多くの黄表紙を書き、庶民のあいだに文名も高かったが、同時にアイデア・マンでもあり、煙草入、煙管などの店を経営したり、自家製薬による「読書丸」なる薬を売り出したりもした。「天ぷら」という料理名をつくったのも京伝だという俗説さえある。  式亭三馬は、オランダ薬方によって新化粧水をつくり、これを「江戸の水」と命名した。三馬はそのみごとな広告文案で「江戸の水」を売りつづけ、商売大繁昌であった。ちなみに、化粧水として古くから使われていたのはヘチマ水。ヘチマが日本に渡来したのは室町時代だが、その蔓を切りとって、したたり落ちる液体を顔に塗ると美顔効果があるというので、これを主材料にあれこれの化粧水が江戸時代には販売されていた。三馬の「江戸の水」は新商品として在来の化粧水を圧倒的におさえこんでほとんど市場を独占したのである。   9月8日 ■「新世界」の作曲■近代の作曲家のなかでA・ドヴォルザーク(一八四一年九月八日生)ほど幸運にめぐまれた人物は他にあまり例をみない。一六歳のときプラハのオルガン学校に入り、やがて国民劇場管絃楽団でヴィオラを弾きながら作曲に専念し、三四歳のとき「讃歌」の作曲で国家から年金を受けるようになり、ブラームス、リストなどからも高く評価され、とんとん拍子にプラハ音楽院の作曲教授となった。  三六歳になったときにはロンドンに招かれて自作の「悲しみの聖母」を演奏して大好評。五〇歳の年にはケンブリッジ大学から名誉音楽博士の学位をうける。あまりにもその名声が高かったものだから、その二年後にニュー・ヨークの国民音楽院から院長として就任を乞われ、アメリカで三年間をすごした。しかし、かれはニュー・ヨークのような都市よりもむしろあらたな開拓地にアメリカ精神を発見しようとし、中西部にながく滞在した。一八九三年に作曲された「新世界交響曲」、および絃楽四重奏曲「アメリカ」は、アメリカの民俗音楽をとりいれた傑作だが、これらの名曲の楽想を得たのはアイオワ州のスピルヴィルという荒野の寒村であった。  こうした多彩な音楽的功績によって、一八九五年、かれは母国オーストリアに戻ると上院の終身議員に任ぜられた。 ■流れた棺桶■一九世紀のおわりアメリカで活躍した俳優C・コフマンは故郷のテキサス州ガルベストンの町の墓地に葬られた。一八九九年のことである。ところがその翌年の九月八日この地方を集中豪雨がおそい、墓地に埋められていたコフマンの棺桶は雨水で地中から洗い出され、そのまま流れに乗ってメキシコ湾に姿を消してしまった。土葬だから、もちろんコフマンの死体は棺に入ったままである。  びっくりしたのは遺族たち。八方手をつくして流された棺桶の行方を追い、厖大な金を使って捜索船を出したりしたが、いっこうに行方はわからない。ところが、それから二七年後の一九二七年九月、この棺桶は、アメリカ東海岸に打ちあげられた。メキシコ湾からフロリダ半島をまわり、結局のところ、およそ四〇〇〇キロの漂流をしたことになる。だが、二七年という年月をかんがえてみると、いったいどこをどうまわってコフマンの棺が流れたものやら、さっぱり見当がつかない。ただひとつだけたしかなことは、人気俳優にふさわしく、コフマンの死体が丈夫なカシの木の棺に入れられていたからこそ二七年もの漂流にたえることができた、ということだ。安物の棺だったら、とっくにこわれていたはずである。   9月9日 ■「菊合せ」の公事■「花をかざる」──われわれにとって、ごくありふれているとおもえるこの行為が、こんにちのごとくに大衆化したのは、じつは、二〇世紀の近代文明社会になってからのことであるらしい。とはいうものの、キク、バラ、カーネーションなどの栽培の歴史は、もっとずっとふるく、それぞれの時代の一部の上流階級に重用されたことも、いっぽうで、たしかなじじつである。なかでも、キクは、『懐風藻』のなかでうたわれているほど、日本人とのかかわりもふるく、平安時代になると、「菊合せ」の公事がおこなわれるようになった、という。唐の風をならったものらしく、九月九日の重陽の日に、清涼殿の前に一対のキク花壇をしつらえ、文武百官がその花をめで、あるいは歌によみ、おわってのち、菊酒と氷魚をたまわるしきたりになっていた。そうして、こんにち、日本は、世界に冠たる花卉《かき》園芸のさかんな国となった。ちなみに、日本のキクは、その商業的地位において、バラやカーネーションをしのいで世界第一位をほこっているという。 ■ベートーヴェン最後の演奏■よく知られているようにベートーヴェンは耳がきこえなくなった。そのことを誰よりもよく承知していたのはベートーヴェンじしんである。そこで一八一四年、かれは最後の室内楽リサイタルをひらき、その翌年にはいちどだけ、聴衆を前にピアノをひいた。一八一九年、かれは完全に聴覚を失った。この年「フィデリオ」を指揮しようとして、かれはなんの音もきこえず、ほとんど発狂状態になって指揮台をおりた。一八二四年、あの有名な「第九」が初演されたときも、かれは客席にすわってオーケストラを見ているだけであった。作曲はできるが、きくことができない。こんなかなしいことがあるだろうか。かれは、最終楽章がおわり、聴衆が熱狂しているのを|見て《ヽヽ》安心した。ちなみに、この演奏会でかれが手にした金は、こんにちの価値に換算してわずか一万五〇〇〇円ほどでしかなかった。  ところがその翌年、つまり一八二五年九月九日、ウィーンのウィルデマン・ホテルでべートーヴェンは絃楽四重奏曲作品一三〇番の演奏に立ちあっているとき、突如として、そのある部分が楽譜に忠実に演奏されていないのを「きく」ことができた。かれは、やおら椅子からとびあがり、バイオリン奏者から楽器をとりあげてみずから弾きはじめた。それがかれの最後の演奏だったのだが、そのバイオリンの調子はかなり狂っていた、といわれる。かれの最後の作品は絃楽四重奏曲、作品一三五番。精魂をこめた第一〇交響曲はついに未完成におわった。 ■枝豆沿革■未熟な大豆を青いうちに刈りとって、ゆでて塩をふった枝豆は夏の風物として欠かすことのできないものだが、大豆をこのようにして食べることは古くからおこなわれており、『延喜式』のなかに九月九日節料として「青大豆」という名がみえている。いうまでもなく、この「青大豆」は中秋の名月にそなえる宗教的意味をもっていた。   9月10日 ■里芋の話■滋賀県蒲生郡日野町中山では、毎年九月一〇日に「芋くらべ祭」というのがおこなわれる。これは中山の村をふたつにわけ、その年につくったサトイモをあつめ、神前でその大小優劣を競うめずらしいお祭りだ。似たようなイモくらべ行事は太平洋諸島にも分布しているが、そのあいだに文化的なつながりがあるかどうかはわからない。  ただサトイモの歴史は古く、『万葉集』に「芋(うも)の葉」ということばがみえているし、『延喜式』にもサトイモの栽培法がのっている。サトイモは「いへついも」、つまり家で栽培するイモ、という名でも知られており、それは自生するヤマイモと対比される。南方文化圏でのタロイモはまさしくサトイモであり、ヤムイモがどちらかといえばヤマイモにちかい。おなじイモといっても、この系統のイモはサツマイモやジャガイモと植物学的にも文化的にもまったくちがうのである。 ■樹木と人格■「実のなる木を一本かいてください」といって、A4判の画用紙と4Bの鉛筆を手わたす。十分後、その人の「実のなる木」の絵ができあがる。ドイツ語で「樹木」のことを「バウム」というが、これはバウム・テストとよばれる心理テストの一種である。たいへん単純なテストにみえるが、えがかれた「実のなる木」の絵には、それをかいた人のパーソナリティがみごとにあらわれる。民族や年齢や職業や性別のちがいによって、あるいはまた、自信家かそうでないか、几帳面かズボラか、など、文字どおり性格のちがいによっても、えがかれた絵はずいぶんちがったものになってしまう。このバウム・テストは、聖書にでてくる「樹木と人間のかかわり」をふかく文化史的に考察することをとおして、カール・コッホという心理学者が開発したものである。ちなみに、かれは、一九〇六年九月一〇日に北スイスの小都市に生まれている。   9月11日 ■ブタをふとらせる法■一八世紀のなかば、イギリスのノッティンガム州レットフォードにムーディという篤農家がいた。かれは室温をあげることでウシをふとらせることをくふうした。その方法として、ムーディは換気のわるい閉ざされた牛舎にウシをつめこんだ。ウシたちは体温を保つために呼吸がはやくなり、やたら汗をかく。こうした密度効果によってウシはふとるのであった。農業経済学者のA・ヤング(一七四一年九月一一日生)はこのムーディの方法にはやくから着目し、家畜の大量集約的飼育法の可能性を論じたが、やがてムーディの方法は、他の家畜にも応用されることになった。  まず、J・ゴードンは、この方法をブタに応用してみた。ゴードンは「スウェット・ボックス」(汗の箱)と呼ばれる小舎にブタをぎゅうぎゅうにつめこんだ。その空間はやがてブタたちじしんの体温で上昇する。ブタはあまり汗をかかないが、吐息と、尿の蒸発でこの「スウェット・ボックス」は、高温でかつ湿度九〇パーセントという一種のトルコ風呂のような状態になる。まことに残酷な風景だけれども、これでブタはみごとにふとるのであった。  ニワトリも、ご存じのブロイラー方式でふとらせることができた。こうした人工的飼育に適さない家畜は羊である。だから、羊だけは、ひろびろとした牧草地で自由にうごきまわっている。 ■公衆電話はじまる■日本の公衆電話第一号は一九〇〇(明治三三)年九月一一日に上野と新橋の両駅に設置された。電話そのものはこれよりはやく一八九〇年に一般加入者を募集し、東京・横浜を中心に官庁や新聞社が電話を利用するようになっていた。  当時の電話はもちろん交換手によってつないでもらうもの。最初のうちは、男が交換台業務を受持ったが「オイ、オイ」という男声は評判がわるく、公衆電話ができたころには交換手は女性にかわっていた。ちなみに、当時の電話交換手は一四歳から二五歳までの未婚の女子。品行方正で目や耳に異常がなければよろしい、ということであったが、女性公務員の第一号だから、日本髪を結い、ハカマをはいて出勤した。   9月12日 ■婦人警官のはじまり■世界ではじめて婦人警官に任命されたのは、ロスアンゼルス警察のA・C・ウェルズさん。辞令が出たのは一九一〇年九月一二日である、彼女のおもなしごとはスケートリンク、ダンスホールなどで青少年非行を監視すること。ときには行方不明者の捜索を手つだったりもした。とくに若い女性を訊問するには男性よりも婦人警官のほうがなにかにつけて都合がよかった。  ウェルズさんは、きわめて職務熱心だったから、その功績がみとめられるとともに、全米の警察が婦人警官を募集するようになった。これにヒントをえて、一九一四年にはイギリスで婦人警官が誕生。そのなかには、若いころ過激派運動に加わったM・アレンさんなる女性がいたが、彼女はじぶんの「前科」を生かして適切な取締をすることができた。  いっぽう日本は、というと、占領軍のお声がかりで一九四六(昭和二一)年三月に五〇人の婦警さんを募集。競争率は三七倍というせまき門。彼女たちはおもに女性風紀、生活相談といったしごとを受けもったが、だんだんと守備範囲がひろがり、交通取締だの特別機動隊だのといったところにまで婦人警官が活躍することになった。 ■薬代奇聞■一四七六(文明八)年のきょう桜島が噴火し、そこから流れ出た熔岩によって桜島は九州の本島とつながった。桜島は日本一の巨大な桜島大根の産地として有名だが、日本人は大根を食用とすることにおいて天才的であった。西洋では大根はもっぱら家畜の餌にされるが、日本は大根の品種を改良し、漬物にしたり煮物にしたりする。  ところで江戸時代の『睡余漫筆』という随筆におもしろい話がのっていた。すなわち江戸の豪商の息子が蕎麦を食べすぎ、腹がふくれあがって息が絶えそうになった。そこで曲直瀬道三なる名医を呼ぶと、道三はじっと患者を診察し、よし、治療してあげよう、だが治療代はまず前金で五〇両、という。薬も出さずに五〇両とはふしぎな話とおもったが、医師のいうままに金を用意する。金をうけとった道三は、おもむろに女中に命じて大根おろしを大量につくらせ、これを患者に飲ませたところ、たちどころになおった。道三、にっこりと笑い、はじめに大根おろしを飲ませてから五〇両といったらあなたは支払うまい、だから前金で貰ったのさ、と言いのこして立ち去ったという。大根おろしのごときはタダ同然。しかし診療というのは薬代ではない、ということをしめした医薬分業思想のハシリというべきであろう。   9月13日 ■ストーブ発売■暖房用具としてのストーブは江戸時代から「置囲炉裏《おきいろり》」という名で知られており、三代将軍家光の時代にある大名から献上されている。ひょっとすると、長崎あたりで西洋人から仕入れたものかもしれない。  幕末になると、箕作玩甫が長崎のオランダ商館を訪れ、そこに設備されているストーブをみてこんな記録を残している。「側の壁を穿ちて一焔※を通じカッヘルを置く。カッヘルは暖室の炉なり。正面に円き戸あり、内に火を※《た》くべき室あり。その中にて木を燃やせば烟は烟筒より出で炉気温暖なり」要するにダルマ・ストーブのことである。  明治維新のあとは、まもなくアメリカ式ストーブが輸入されるとともに国産品もできた。国産第一号は神田鎌倉町の増田某という人がつくり、一八七三(明治六)年九月一三日に売り出している。その広告文にいわく。「今や文明の時、機器の行はるる中にもストーブは防寒の要器にて人体を健康にし欠くべからざるものなり」ちなみに、電気ストーブができたのは一九一五(大正四)年であった。 ■まぼろしの聚楽第■関白となった秀吉は、天下統一の英雄としての居所として聚楽第をつくった。この邸の築造命令が出たのは一五八六(天正一四)年の冬、そして翌年の九月一三日に秀吉は大坂城を出て聚楽第に移った。この巨大な建造物のなかには利休のための「利休屋敷」もつくられており、四季それぞれのたのしみが用意されていた。  翌年には後陽成天皇も聚楽第に行幸になり、ぜいたくをつくした歓迎をうけた。ところがこんなに有名な建造物でありながら、いったい聚楽第がどこにどんなふうに建っていたのかはさっぱりわからないのである。それというのも、完成後八年めに、関白秀次の失脚によって聚楽第は徹底的に破壊されてしまったからである。一説によると、この豪華な建造物はその大部分が移築されて伏見城になったともいうが、その名のみ歴史にのこりはしたものの、聚楽第はまぼろしの建造物なのであった。   9月14日 ■ピアノと皇后■ピアノの発明者はイタリアのクリストフォーリ。最初にこの楽器が音楽史のなかに登場したのは一七〇七年のことだ。日本にはシーボルトが一台持参したらしいが、一八六九(明治二)年九月一四日、日本とオーストリアとのあいだに条約が結ばれたとき、オーストリア公使から皇室に献上されたさまざまな品物のなかにピアノが一台あり、皇后はこのピアノによってレッスンを受けられた。  その一〇年後、伊沢修二が東京師範学校の校長になったとき、音楽教育のため一一台のピアノを一括購入し、このへんから日本のピアノ時代がはじまる。国産ピアノは明治中期に出現するが、舶来品に遜色のないものを目標に山葉寅楠という人物が明治二四年にピアノ製造に着手。これがこんにちの「ヤマハ」の出発点であった。 ■「猫」の死亡通知■漱石の『吾輩は猫である』は一九〇五(明治三八)年から「ホトトギス」誌に連載され大好評だったが、そもそも漱石にこの作品のヒントをあたえた猫はその前年、夏目邸に迷いこんできた黒猫。漱石の夫人は大の猫ぎらいで、なんべんも捨てに行くが、ひょっこりと帰ってきて居ついてしまった。これをじっと眺めながら漱石は「猫」の構想を立てたようである。  しかしこの重大な役割を担った黒猫は明治四一年九月一四日に死んでしまった。漱石はあまりにも有名になった「猫」、そしてじぶんを有名にしてくれた「猫」への哀惜の念をおさえることができず、友人知己に死亡通知を出した。いわく。 「辱知猫儀久々病気の処、療養不相叶、昨夜いつの間にか、裏の物置のヘッツイの上にて逝去致候。埋葬の儀は車屋をたのみ、箱詰にて裏の庭先にて執行仕候。但、主人�三四郎�執筆中につき、御会葬には及び不申候」  漱石は、この「猫」のために供養塔を建て「この下に稲妻起る宵あらん」という一句をささげた。   9月15日 ■一六八歳の長寿■敬老の日にちなんで、長寿の記録をひとつ。ソ連邦アゼルバイジャンに住んでいたS・ミスリモフは、一八○五年に生まれ、一九七三年に死んだ。一六八歳という奇蹟的な長寿である。かれは一六五歳になるまで、馬に乗り、羊を追い、木を伐り、そして菜園を耕す、という通常の作業をつづけていた。一八五〇年のクリミア戦役のころの記憶もたしかであった。  このアゼルバイジャン地方では、長寿はめずらしくない。一九七〇年のソ連の人口統計によると、この地方には一〇〇歳以上の人が二五〇〇人、つまり、人口一○万人にたいして六三人の割合でいた。ミスリモフが死んだとき、かれの妻は一〇七歳であり、直接の血縁者、つまり、子、孫、曾孫などは合計二一九人におよび、そのなかには、一〇〇歳の孫もいた。  この長寿記録に疑問を寄せる学者もいた。一九〇〇年代のはじめ、つまり、ツアー時代に徴兵のがれをするため、三〇ないし四〇年のサバを読んで、ほんとうの年齢よりはるかに高い年齢を申告した人間がたくさんいた、というのである。しかし、この地方に徴兵制がおよんだという記録はなかったし、またミスリモフは一八○五年出生と明記された旅券をもっていたのである。  長寿の理由はいったいなんであったのだろうか。清潔な山の空気、ゆっくりした生活のリズム、脂肪分のすくない食べもの──そして、イスラムの伝統にしたがって、かれはいっさいアルコールを飲用せず、もっぱら野菜、果物、チーズを食べていた。タバコは三〇歳のころいちど吸ったが、気分がわるくなったのでやめた。酒も、いちどだけ飲んだことがあったそうだが、からだじゅうが焼けそうな感じになったので、これも、それ以来口にしたことがない。だが、かれによると、六五歳になるまで結婚しなかったのが長寿の秘訣だったのだそうである。 ■戦車の登場■装甲された戦車というアイデアはレオナルド・ダ・ヴィンチももっていたし、それ以前にも何人かが思いついていた。だが、近代的意味での本格的戦車を発明したのはオーストラリアに住むデ・ラ・モーラなる人物であった。かれはその発明をロンドンの陸軍省に一九一二年に送ったが、このすばらしい発明は、陸軍省の書類の山のなかで散逸してしまった。だが、これにややおくれて、イギリス技術省のE・スウィントン大佐がアメリカの農業用トラクターからヒントを得てほぼおなじような戦車を設計した。陸軍省はこれを大いによろこんだ。ときあたかも第一次大戦中である。当局は、W・ウィルソンなる将校にこの兵器の開発を秘密裡に命じた。ウィルソンは一九一六年一月にマークI型戦車を完成した。このモデルは、八人乗り、六挺の機関銃をそなえ、時速六キロ。さっそく、量産にとりかかった。  この年の夏、西部戦線は膠着状態。イギリス軍は、この新兵器を使うことにした。合計四九台がドーバー海峡をわたった。機密保持のため、当局が、この巨大な鉄箱を「貯水タンク」である、と説明したところから「タンク」なる名称が生まれたのはご承知のとおり。ところが、この四九台のうち一七台は、戦線に到着するまでにエンコしてしまい、結局一九一六年九月一五日早朝、隊列をととのえ初の出撃をしたタンクは三二台。霧のなかに突如として姿をあらわした新兵器にドイツ軍はびっくり仰天、退却をはじめた。だが突進するタンクのほうも、ぬかるみにはまったり溝に落ちたりするもの一四台。のこる一八台がドイツ軍陣地をのりこえ踏みこえたが、こんどはつぎつぎに燃料切れでうごかなくなった。やっと三台が、フェールという村のドイツ軍要塞までたどりついてこれを攻撃したけれども、予定どおりの戦線突破とまではゆかなかったのであった。   9月16日 ■トウガラシ文化■トウガラシの赤い皮をこまかく砕き、これに胡麻、山椒、ケシの実、菜種、麻の実、陳皮を加えて七種とし、これらをまぜて「七色唐辛子」なるものをつくったのは、江戸でカラシを扱っていた商人、中島徳右衛門である。正確な年月はさだかでないが、およその見当で一六三〇年ごろ。つまり寛永のころである。  ここにいうトウガラシとは、くわしくいうと「鷹のツメ」というやつで長さ三センチほど。とびあがるほどからい。しかし、もともとこのトウガラシは日本にあったものではない。じっさいのところ、この植物が日本にもたらされたのは一六世紀のおわりごろ。原産地は中米すなわちメキシコである。この地方を征服したスペイン人は、タバコやトマトといっしょにトウガラシを太平洋をこえて東洋にはこんできたのだ。それほどに東洋にとってトウガラシはあたらしい植物なのであった。いや、日本では中国経由で来たものだからトウガラシなどというけれど、中国人だってこの植物にはじめて接したのは明代のおわりごろであって、日本とたいしてちがいはない。  しかしトウガラシは、東洋の各地でことなったうけとられかたをした。たとえば中国ではこれをあらたな調味料として活用した。とりわけ四川料理などは、トウガラシをたっぷり使う。朝鮮半島ではキムチにみられるようにみごとにトウガラシを使いこなした。東南アジアでもトウガラシは好まれた。タバコとおなじく、あっというまにトウガラシ文化圏はひろがったのである。  ところが、どういうわけか、日本ではトウガラシはあまり好まれなかった。好まれない、というだけではなく、敬遠された。江戸時代の文献をみると、トウガラシは消化器官や歯を痛めるから用いないほうがよろしい、とある。おなじ辛さでも、たとえばワサビのようなピリリとした辛さが日本人の嗜好であって、カーッと熱くなるトウガラシの辛さにはあまり馴染めなかったようなのである。だから、はじめに書いたように、七色唐辛子、といったような中和的方法でやっと食生活文化のなかに組みこまれたにすぎない。  いずれにせよ、タバコ、トウガラシ──それらはメキシコから世界にひろがったあたらしい栽培植物であった。そのメキシコがスペインに叛乱を起したのが一八一○年九月一六日。きょうは独立記念日である。ヴィバ・メヒコ!   9月17日 ■鹿の民俗■きょうから岩手県花巻の鹿踊りがはじまる。鹿の頭に模したかぶりものを頭上にのせ、腹に太鼓を下げて、背には「ササラ」「ヤナギ」などと呼ばれる飾りものをとりつけ、太鼓をたたきながら踊るのである。伝説によると、かつて空也上人が深山に庵を結んでいたところ、狩人が鹿を殺したのでその供養のために発案した、といわれるが、逆に日本での鹿狩りは古くから宗教的意味をこめておこなわれていたらしい。たとえば諏訪信仰のあるところでは、毎年鹿をとらえてその頭を神にささげていたし、『播磨風土記』によると、かつてこの地方では稲のタネをまくときに、あらかじめタネモミを鹿の血にひたしたという。犠牲獣をささげることは日本人、とりわけ山地民のあいだではごくふつうのことだったらしいのだ。奈良の春日神社、安芸《あき》の厳島神社などで鹿が神格をもったものとして扱われているのも、日本の信仰のなかで鹿がもっている特別な意味を象徴する。  ところで、鹿踊りはシシオドリ、と発音され、これはさまざまな「獅子舞い」と深く関連する。日本語のシシは、かならずしもライオンを意味するものではなく、イノシシや鹿などの獣類全般を指すと同時に獣肉をも意味するものだ。いや、鹿も古語ではカノシシと呼ばれていた。歌舞伎の「鏡獅子」などはこうした「獅子舞い」を原型として洗練させたもの。 ■海底火山の大きさ■一九五二(昭和二七)年九月一七日、伊豆諸島の南で海底火山が爆発。付近で操業していた静岡県焼津の漁船第一一明神丸がそれを発見したので、この爆発で海面に姿をあらわした小さな岩礁は「明神礁」と名づけられた。  海面に出ている部分は小さいが海底火山はかなり大きい。たとえば小笠原諸島の西にある西之島は面積七万七〇〇〇平方メートル、その南にできた西之島新島をあわせても二万平方メートルほどでしかないが、この付近の海の深さは約四〇〇〇メートルだから、その大きさはほぼ富士山と匹敵する。海のなかにあるこのような山は「海山」と呼ばれ、たまたま、その頂上が水面に顔を出すとそれが岩礁になったり、島になったりするのである。   9月18日 ■英語辞典のはじまり■一六〇四年、ロンドンでR・コドリーなる学校の教師が『アルファベット順によることばの表』というものをつくった。これには基本的な英語約三〇〇〇が収録されており、これが英語国民のあいだで最初につくられた辞書ということになるだろう。Dictionaryと銘打った辞書はそれからおよそ二〇年後にロンドンで出版された。  しかし、なんといっても、英語辞典の決定版ともいうべきものをつくったのはS・ジョンスン博士(一七〇九年九月一八日生)であろう。一七五五年に二冊本で出た『英語辞典』は、ひとつひとつの単語を文学作品で用いられた用例をそえて説明した、当時としては完璧な辞書であった。ジョンスン博士がこの辞書の刊行計画を立てたのは一七四七年。かれはその援助をチェスターフィールド卿にたのんだが、色よい返事をもらうことができず、結局は自分で編集しなければならなかった。その間、かれは収入の道もなく、おまけに病苦に悩まされたが、ユーモアの精神を失うことはなかった。たとえば、その初版本で「カラス麦」の定義をみると、「イングランドでは通常、馬の飼料として使われ、スコットランドでは人間が食料にする穀物」といったような皮肉もあるし、「辞典編集者」の定義はみずからをからかう意味をこめて「無言の奴隷」となっている。しかし、こういうお遊びは散見するのみであって、ぜんたいとしては、きわめて厳密かつ学究的にことばの意味が定義されている。ジョンスン博士の辞書をしのぐものは、その後一世紀たってもあらわれなかった。 ■ロンゴ・ロンゴの謎■きょうはチリの独立記念日だが、太平洋に面したこの国の領土はイースター島をふくんでいる。イースター島にゆくにはチリ航空に乗るのがいちばん便利だ。  イースター島は、例の巨大石像だの、ヘイエルダールの「コンチキ号」だの、さまざまな話題にこと欠かないが、とくにおもしろいのは「ロンゴ・ロンゴ」と呼ばれる象形文字である。この文字(あるいは記号)は木版にぎっしりと書きこまれているが、こうした文字はポリネシアの他の島じまではまったく知られていないものだ。ハンガリーの考古学者ヘウエシは、ロンゴ・ロンゴをしさいに検討し、それがおよそ四〇〇種類の文字によって綴られていることを発見、さらに、そのうちほぼ半数が古代インドの文字と符合することを確認した。さらに、オーストリアのR・ハイネ・ゲルデルンは、インドだけでなく中国の古代文字とロンゴ・ロンゴのおどろくべき一致を見た。アルゼンチンのJ・イムベロニは、こうした発見をふまえて、インダス流域からスリランカ、中国南部、インドネシアからイースター島にいたる「インド・太平洋文字システム」という雄大な仮説を立てた。ロンゴ・ロンゴをめぐる学説は賛否両論はてしがない。   9月19日 ■子規と野球■正岡子規(一九〇二〈明治三五〉年九月一九日没)は、アメリカからきた「ベースボール」に「野球」という名訳をあたえたが、かれじしん一高時代は野球チームの熱心な推進者であり、ピッチャーをつとめた。そして、野球を主題にいくつかの和歌までのこしている。いわく。 「今やかの三つのベースに人満ちて、そぞろに胸の打ち騒ぐかな」 「久方のアメリカ人のはじめにし、ベースボールは見れど飽かぬも」 「久方の」という枕詞は空、光、天、雨などにかかる。その音をもじって「アメ」リカにかけたところなどほほえましい。 ■ヨーロッパ美人コンクール■妙齢の女性をずらりとならべて、そのなかで誰がいちばん美しいかを投票できめるというのはアメリカ人の発明にかかるもので、一九世紀なかばにすでにはじまっていたようだが、保守的なヨーロッパ社会にもやがてこの習慣が伝染し、まずベルギーで一八八八年九月一九日にヨーロッパはじめての美人コンクールがおこなわれた。応募者は三五〇名ほど。第一次選考は写真によっておこなわれ、これでえらばれた二一名が最終審査にのこった。  審査員たちに予断をあたえないため、また候補者間に不当な競争意識をあおらないため、この二一名の女性たちは互いに隔離された特別の宿泊施設にいれられ、ごていねいにも、審査会場にむかう馬車の窓は閉め切られていた。会場に着くと、彼女たちはそれぞれ男性の介添人に手をとられ、しずしずと入場した。服装は、ことごとく竜骨いりの長いスカート。その風景は、ひとことでいうなら、優雅な宮廷風俗であった、といってよい。このコンクールで優勝したのは一八歳のB・スカレ嬢。彼女はこれがきっかけで女優になった。  いっぽう、アメリカのほうでは一九二一年から美人コンクールは水着で、ということになり、この年にそのコンクールの優勝者が同時に「ミス・アメリカ」の栄冠をあたえられるようになった。ちなみに、この第一回「ミス・アメリカ」にえらばれたのはM・ゴーマン嬢。一五歳で、身長は一五二・五センチであった。   9月20日 ■スチュアーデスのはじまり■きょうは「航空の日」。こんにちでは飛行機に乗るとスチュアーデス(またはエア・ホステス)が客室内のもろもろのサービスをうけもっているが、この職種はべつだん航空会社が発案したものではない。ことの発端は、一九三〇年五月に看護婦の資格をもつE・チャーチなる女性がユナイテッド航空に手紙を出し、乗客の看護のためじぶんを雇ってくれ、と申し出たことからはじまる。当時の飛行機はもちろんプロペラ機で、震動もはげしかったし、設備もじゅうぶんでなかった。そこで看護婦が必要であろう、というわけ。  ユナイテッド航空はこのアイデアを採用し、チャーチ嬢をはじめ七人がまず世界最初のスチュアーデスになった。機体が小さかったから身長一六〇センチ以下、体重五二キロ以下、というのがその条件。しかし彼女たちのしごとは看護や食事のサービスのみならず、乗客の荷物をはこんだり、機体の整備を手つだったり、ときにはホースをかついで飛行機に給油したり、という重労働であった。  蛇足ながら、どういうわけか航空業界はその用語や慣習をおおむね船舶にならった。よほどの ことがないかぎり、搭乗ロはつねに機体の左がわだし、左右をあらわす灯火の色も船とおなじである。飛行機の発着するところは空「港」であり、乗務員もパイロット、パーサー、スチュアード、スチュアーデス、などと呼ばれる。ちなみに英和辞典によると、スチュアードは「給仕人」、スチュアーデスは「女性給仕人」と訳されている。 ■ジプシー音楽■主としてヨーロッパ各地を転々と移動するジプシーの数は推定五〇〇万。この漂泊民族は、まずインド北西部にその起源をもつものとされているが、その一部は、かなりはやくからエジプト、北アフリカを経てスペインからヨーロッパにはいった。「ジプシー」という英語の呼称は「エジプシャン」(エジプト人)をその語根としている。  ジプシーはダンスを好み、すぐれた音楽的才能をもっていて、ヴァイオリン、タンバリン、カスタネット、アコーディオンなどを使って即興的な器楽演奏をする。その特異な楽想は、ヨーロッパの作典家たちを魅了し、リストやブラームスもジプシー音楽をその旋律のなかにとりいれたが、いちばん有名なのはサラサーテ(一八四四年九月二〇日生)の「ツィゴイネルワイゼン」であろう。しかしサラサーテは作曲家というよりもむしろヴァイオリニストとして有名であった。とにかく、ヴァイオリンを持たせたら神童というほかなく、一〇歳のとき女王イサベル二世じきじきにストラディヴァリウスをかれに贈っている。ラロやブルッフはそれぞれのヴァイオリン協奏曲をサラサーテのために作曲した。   9月21日 ■対馬海流のいたずら■七二七(神亀四)年九月二一日、最初の渤海使節が日本にやってきた。渤海国というのは七世紀末から一〇世紀まで、こんにちの中国東北部に栄えた大国で、日本としては中国や新羅に対する牽制の意味からも渤海との国交はだいじであった。朝鮮半島のつけ根のあたりから使節をのせた船は出発し、日本からもその答礼使を派遣した。その使節交換は、合計すくなくとも一二回にのぼっている。  それはそれでよろしいのだが、この使節団にとっての最大の難関は対馬海峡をわたることであった。朝鮮半島の海岸沿いの旅程は長いが、陸地を見ながらおおむねおだやかに航海をつづけることができる。しかし、いったんその沿岸航路をはなれて海峡に出たとたんに対馬海流、すなわち黒潮分流のはげしい流れにぶつかり、対岸の九州を目前にしながら、東へ流されてしまうのであった。運がよければ九州上陸ができるが、そうでなければ流されて出雲半島に漂着する。出雲に着けなければ能登半島まで流される。日本海に突き出している能登半島は、使節船をひっかけるカギのような役割を果たしていたのだ。しかし、このカギにもひっかからなかったばあいは、さらに流れ流れて出羽国、つまりこんにちの山形県でやっと上陸ということになる。何回かの経験によって、渤海使を迎える迎賓館は、結局、能登に置かれることになったらしい。 ■日本画復興■E・フェノロサ(一九〇八年九月二一日没)は、ハーバード大学で哲学をおさめ、一八七八(明治一一)年に日本にきて哲学と経済学を教えたが、だんだんとかれの関心は日本美術に傾斜し、狩野派、土佐派の日本画の伝統を讃美した。なにごとも西洋のように、というので、当時の日本の美術界では洋画がのしあがり、伝統美術はお先真っ暗の状態。フェノロサのこの評価によって、日本画は復興への手ががりをつかんだ。  これに力を得てその生涯を日本美術の再建につくしたのはいうまでもなく岡倉天心。かれは狩野芳崖と橋本雅邦の協力を得て東京美術学校を創設した。この学校は洋画はいっさい教えず、絵画のみならず彫刻も工芸もことごとく日本のものだけ。生徒の制服は奈良朝の装束、天心みずからもその服を着て馬で通勤した。   9月22日 ■二足のワラジ■ドイツの文豪シラーは貧しい軍医の家に生まれ、領主オイゲン公の命により、領主の経営するカール学院に進学し、医学や法律を勉強した。しかし、もともとシラーの興味は人文学にあり、暇を見つけては文学書を読みあさった。つまり、おもて向きは領主の忠実な学徒、実態は文学青年、という二重生活がシラーの青春期を運命づけたのだ。  この二重生活は、その後もつづく。じぶんの意に反して父親とおなじ軍医の職についたシラーは、学生時代から書きはじめていた戯曲『群盗』をシュトゥットガルト連隊に勤務しながら完成させた。『群盗』は大評判になり、一七八二年には、マンハイム劇場で上演され、これもまた大好評。しかしほんらい軍人であるべきシラーが文筆活動をした、というので、パトロンのオイゲン公は大いに怒り、シラーに文筆活動の停止を命じ、同時に禁錮刑を言いわたした。追いつめられたシラーはついにこの年の九月二二日、軍隊を脱走して放浪の旅に出る。  日本でおなじような境遇におかれたのは、いうまでもなく鴎外であった。軍医総監という要職にありながら小説を書くとはなにごとかという無言の圧力がつねにはたらいた。かれのばあいは、その圧力に耐えながら人生を生きたが、鴎外の念頭にはおそらくシラーの苦い経験がひとつの前例として去来していたにちがいない。 ■御伽衆の起源■戦国時代の大名や武将は、戦陣のなかにあって予期せぬ敵襲にそなえ、徹夜しなければならないことがしばしばであった。とはいうものの、眠いものは眠い。睡魔を退散させるにはどうしたらいいか。そこでかれらは「御伽衆《おとぎしゆう》」という人間たちを側近に採用することにした。御伽衆とは、要するにこれらの武将たちを睡気から救うためにあれこれと世間話をして気をまぎらす話し相手というような意味で、いわば人間覚醒剤だ。  その出身はさまざまであって、僧侶あり、医者あり、茶人あり、とにかくおもしろい話をして くれればよろしい。それもおなじ人間だけだと変化にとぼしいから、たとえば周防の大内家のばあいなど、合計二〇人余の御伽衆がいて、入れかわり立ちかわり夜話の相手をしていた。秀吉の天下統一後は、もはや徹夜の必要もなく、御伽衆は側近のエンターテイナーという役割をになうようになる。きょうは、その代表者、曾呂利新左衛門の命日(一六〇三〈慶長八〉年)。   9月23日 ■歯車の研究■歯車のアイデアの基本になっているのは井戸から水を汲みあげるときの鎖である。鎖を水平軸に回転する腕木に巻きつけるときに、その安定をよくするため、腕木の軸のつけ根に歯車をとりつけたのだ。無名の発明家の考案になるこの歯車は紀元前二、三世紀ごろエジプトではじめて使用され、それから一〇〇年ほど経つと、こんどはローマの建築家ヴィトルヴィウスが水車の軸にクラウン歯車をつけ、それを石うすの軸にとりつけたピン歯車に連動させた。  アルキメデスもその発明した機械のなかでしばしば歯車を使用したが、かれのばあいはそれまで使われていた木製の歯車と並行して金属性の歯車を使った。ただ、金属歯車は精密な職人芸を要求したので、その製作はけっして容易ではなかった。じっさい、歯車というものは、誰でも一見してその作動する理屈はわかるのだが、それをいちばん効率よくうごかすためにはどうしたらよいのか、ということになると、さっぱり見当のつかない複雑な性質をもっていたのである。そこで、レオナルド・ダ・ヴィンチは理想的なギア比と歯形の計算に厖大な時間を費した。歯車の数学的計算はきわめてむずかしく、これに近代数学で本格的に挑戦して研究の糸口をつくったのはデンマークの天文学者O・レーマー(一七一〇年九月二三日没)であった。経験的知識とその利用は二〇〇〇年の長期間にわたってつづき、科学的解析がついこのあいだやっと完成したもの──歯車はその代表である。 ■川柳のはじまり■俳句というのはもともと連歌の形式から独立したものだが、その練習用にまず一四音の前句をうけて一七音の句をつくる、という方法がとられたが、この前句の制約を脱して、より自由な一七音で書かれた詩のジャンルを開拓したのが柄井川柳(一七九〇〈寛政二〉年九月二三日没)である。その句集『柳多留《やなぎだる》』が一七六五(明和二)年に刊行されると、江戸はもとよりのこと全国的に大いによろこばれ、季題や切字にとらわれることの多い俳句より、この形式のほうが大衆レベルでもてはやされるようになった。これがその創始者の名をとって「川柳」と呼ばれることになったのである。 「川柳」は、人間の内面生活を吐露する俳句とちがって、むしろ世相、人事を描写するのがその特徴であって、しばしば諷刺的な効果をもった。詠みこまれている素材に具体性があるから、ある意味で、これは大衆参加によるほんとうの大衆文芸であるのかもしれない。   9月24日 ■西郷札奇聞■一八七七(明治一〇)年九月一日、西郷隆盛は最後の手兵三〇〇人とともに城山にこもって官軍を迎撃したが、同月二四日、官軍は最後の総攻撃。西郷は二発の銃弾を受け、いまはこれまでと刀を腹にあて、そこを側近の別府晋助が首を刎ねて介錯した。西郷の享年五一歳。  西郷はこの西南戦争の軍事費調達のため、臨時の私製紙幣をつくった。有効期限三カ年。これが「西郷札」である。西南戦争の勝敗は目にみえていたけれども、維新後、さまざまな不満を抱きつづけてきた多くの人びとにとって西郷は圧倒的な人気をもった英雄であったから、「西郷札」はたんに鹿児島県内だけでなく、主として西国に流通した。いや流通した、というよりも、一種の護符のごときものとして西郷ファンのあいだで珍重され、その価値は西郷の死後にむしろつり上った。  さて、大阪の商人柳井某もたいへんな西郷ファンで、生活ことごとく薩摩ふう。酒は薩摩焼酎しか飲まず、器も薩摩焼でなければ気がすまない。もちろん、手にいれた一枚の西郷札はつねに財布の底にだいじにしまってある。ところが、この人物、ある日遊廓にあそびに行ったはいいが、夜になってにわかに腹痛をおばえ、近所の薬屋まで使いを出した。しかしその代金として、こともあろうに、まちがって西郷札をわたしてしまったのである。翌朝、あわてて薬屋に掛けあいに行くと、なんとこの薬屋も熱烈なる西郷信者であって、はからずも手に入った一枚の西郷礼を神棚に祀り、神酒をささげて一家で拝んでいる最中である。柳井が返してくれといっても、いったん受けとったものを返せるか、と議論になり、取組みあいの大喧嘩。結局は、この一枚の西郷札は柳井の手もとに戻ったというが、西郷は死後に、かえってこういう信者たちを獲得し、国家的には逆賊とされながらも、庶民のなかでは英雄として鮮明なイメージを形成したのであった。上野の山の西郷の銅像は、そのイメージの結集であったといってよい。   9月25日 ■アメリカで最初の新聞■アメリカで最初に新聞がつくられたのは、「ロンドン・コーヒー・茶ならびにチョコレート・ショップ」という小さなコーヒーハウスからであった。が、このコーヒーハウスの店主は、ロンドンで反王党の出版をしていたが情勢不穏のためしかたなく妻子をつれてボストンに逃げてきた、というかわった経歴の持主である。かれ、ベンジャミン・ハリスは、ボストンにやってきた翌年、一六八七年に『ロンドン出版所』をつくり、本やパンフレットの出版をはじめた。このコーヒーハウスにそれらの出版物をおき、売りはじめたのである。かれはロンドンで新聞をだしたことがあるので、印刷の事業が順調に軌道にのると、さっそく『社会の出来事』という新聞をだした。日付は一六九〇年九月二五日。これがアメリカで最初の新聞であった。しかし、新聞とはいうものの、当時の新聞は日本の週刊誌よりやや大きめの、四ページくらいのものにすぎなかった。現在その一部はロンドンの公共記録局に保存されている。 ■日本陶磁の誕生■肥前有田の陶工酒井田柿右衛門(一五九六〈文禄五〉年九月二五日生)は作品の絵付にくふうを凝らし、あらたな作風を生むことに専念したが、かれにとっていちばん大きな課題は赤絵でもなくまた画風でもなかった。俗説に、秋の陽にかがやく柿の色を出すために苦心した、というが、それもじつは難問ではなかった。しからば、なにがかれの問題であったのか。  ひとことでいえば、それは絵付をする地の色である。もともと有田の窯は朝鮮半島の陶工李参平がひらいたもので、このあたらしい技術によって日本のやきものは素朴な土器から洗練された陶磁の時代へと大きく変貌をとげるのだが、柿右衛門はすきとおるような白磁ではなく、あるかなきかのやわらかみのある地色の閉発をこころみたのだ。その色は米のとぎ汁のようなうすいべージュ色。この地方では、とぎ汁のことを「にごし汁」というので、この色を柿右衛門は「にごし手」と呼んだ。古伊万里や色鍋島は白磁に極彩色の絵や模様をびっしりと塗りこめる。これにたいして柿右衛門は、「にごし手」の地色のうえに、たっぷり余白をとって花鳥をあっさりと描いた。それは陶磁という新技術をうけとめながら日本独自の美学に転換させた文化革命であった。当時の西洋諸国は、日本から輸入された陶磁器があまりにも高価だったため、発奮して模造品をつくりはじめたが、そのなかでもっとも模造品の多かったのは柿右衛門であり、また、もっとも模造のむずかしかったのも柿右衛門であった。   9月26日 ■トマトを最初に食べた男■新大陸アメリカに移住したヨーロッパ人は、この新世界の動植物に興味を持ったが、トマトという植物にたいしては、一種の疑惑感を抱いていたもののようである。あの真赤な色が毒々しく、ピューリタン的精神と相容れなかったからだ。観賞用としてはともかく、これを食用にしよう、などとは誰もかんがえなかった。  ところが、ここに、ロバート・E・ジョンソン大佐なる勇敢な人物があらわれ、トマトを公衆の面前で試食する、と宣言し、それを実行したのである。その記念すべき日は一八三〇年九月二六日、と記録されている。場所は、マサチューセッツ州、セラムの町。  当日、かれはバスケットいっぱいのトマトを持ってあらわれた。町医者のミーター博士は、トマトが有害な毒物であると主張し、もしそれを食べたら、たちどころに発熱し死亡するであろう、さいわい生きのびるとしても、すぐにガンになるであろう、と説いた。そしてジョンソン大佐に最後まで思いとどまるようすすめたのだが、大佐はききいれない。ミーター博士は、緊急用の薬箱をもってこの試食会に立ちあった。見物人は合計二〇〇〇人。  その注視のなかで大佐は、まず一個のトマトをがぶりとかじった。人びとは息をのんで見つめている。二個めを食べた。観衆のなかからは悲鳴がきこえ、失神する婦人も出る始末。だが、何個食べても、にこにこと笑っている大佐を見て、安堵の声がきこえはじめた。ミーター医師はこそこそとその場を立ち去った。ジョンソン大佐のこの英雄的行為のおかげで、トマトは一八三五年ごろから、アメリカの市場に出まわりはじめた。  しかし、トマトにたいする偏見はなかなか消えず、一八六〇年になっても、トマトはすくなくとも三時間煮なければ安全でない、といったような雑誌記事が散見されたのであった。 ■食堂車あれこれ■世界の鉄道史に最初に食堂車が登場したのは一八六三年、アメリカのフィラデルフィア・ウィルミントン&ボルチモア鉄道であった。もっとも、食堂車といっても、これは普通の客車の椅子をとり払い、それを中央でふたつに仕切って、いっぽうを喫煙室、他方をビュッフェ式にしたもの。食物は立って食べたり、あるいは座席に持ち帰って食べたり、といった軽食サービスである。  本格的なテーブル・サービスをつけた食堂車の第一号は一八六七年にカナダのグレイト・ウェスタン鉄道で走った。アメリカやカナダのような広大な国土を走る長距離列車がまず食堂車を必要としたことはじゅうぶんに理解できる。  そうした新大陸の鉄道のあたらしいサービスをみて、おくればせながらイギリスでも一八七九年九月二六日に、ロンドンとリーズをむすぶ「プリンス・オブ・ウェールズ」号に食堂車ができた。日本ではさらにおくれて一八九九(明治三二)年(上巻・五月二五日の項参照)。   9月27日 ■ヴァイキングの船■一〇六六年九月二七日、一五〇〇隻の船団をつらねてノルマン人が北洋からイギリスに上陸した。いわゆる「ノルマン征服」である。海洋民族のノルマン人は、けっして高度の文明をもっていたとはいえないが、その造船技術と航海技術はすばらしいものだった。遠征用の船は長さ二〇メートルでへさきが高く、帆を張ることもできたし、また二〇人ほどで漕ぐこともできた。乗員数は五〇人ほど。速度は一〇ノットという高速である。一五〇〇隻の一挙来襲というわけだから、イギリス海岸には一万人ちかいノルマン人が上陸したことになる。  そのうえこれらの船は吃水が浅かったから、内陸部の河川にもノルマン人が自由に出入りした。フランク王国では八世紀ごろから、沿岸も河川もノルマン人に荒らされていたから、先例はあったわけだが、ついにイギリスも一時的にノルマンに征服されたのである。こんなふうに船とともに生きたのがノルマン人であったから、かれらのあいだには「舟葬」という葬送儀礼があった。つまり、死者は舟を棺桶にして副葬品とともに海岸に埋められるのである。叙事詩『ベーオウルフ』に出てくる舟葬は、豪華な舟に死者をのせて、はるかなるわだつみに送る、という劇的なもの。北大西洋ヴァイキング物語のひとコマである。 ■鉄道人身事故第一号■蒸気を利用した機関車はまず一八○四年にトレヴィシックが実験し、その成果をふまえてG・スティーヴンソンがさらにこれを事業化することをかんがえ、一八二五年九月二七日、世界最初の鉄道会社が開業、「ロコモーション」号が走った。機関車は改良を加えられ、やがて「ロケット」号が運行を開始したが、この機関車は二回にわたってボイラー爆発をおこし、いずれのばあいも機関士は死亡した。原因はともに安全バルブの操作ミスで、要するに機関士たちが不馴れであったことによる。  ところがこの「ロケット」号は、一八三〇年にイギリス下院議員のW・ハスキンソンを轢き殺してしまった。これもハスキンソンの不注意によるもので、鉄道開通記念日の特別参観にあたり、引込線に入って停止していた「ノーザンブリア」号からひとりで線路上に降り、そこから列車を見物しているところを全速力で走ってきた「ロケット」号に轢かれてしまったのである。「ノーザンブリア」号は重傷を負ったハスキンソンをのせて時速六〇キロで病院のあるところまで走ったけれども、かれは出血多量でその日のうちに死んだ。これが鉄道人身事故の第一号である。   9月28日 ■福沢諭吉の写真■一八六〇(万延元)年に日本とアメリカの修好通商条約本書批准交換のためにいわゆる「万延元年遣米使節」が新見豊前守を正使としてアメリカにわたった。随行する者七七人。この年の正月に米国軍艦「ポーハタン」号にのってハワイ経由、パナマ地峡を鉄道でこえてワシントンに行き、無事責任を果たしたのち同年九月二八日に帰国した。  なにしろながい鎖国のあとのことであるから、使節団一行、見るもの聞くもの、ことごとく珍しくてたまらない。汽車をみてはおどろき、ホテルの給湯設備をみては感心し、といったぐあいである。政治制度などもびっくりの連続。アメリカ議会のありさまをみた副使の村垣淡路守は、議会での討論はあたかも「わが国の日本橋の魚市」のごとくである、と感想をのこしている。さらに大統領との会見にあたって使節団は狩衣《かりぎぬ》に烏帽子《えぼし》をいただき、正装で出かけたのに、大統領のほうは商人といっこうにかわらぬ「黒ラシャの筒袖、股引」姿であるというのも不満であったらしい。そのうえ、村垣は五〇歳。ただでさえ保守的なところに順応性がなくなっているから、アメリカ式食事の連続に耐えかね、ホテルに戻ると従者の持ってきた切干大根をわけてもらって飢えをしのぎ、はやく日本に帰ってお茶漬と味噌汁を味わいたい、と日記につけている。  さて「ポーハタン」号に随行するようなかたちで「咸臨丸」がひと足先にアメリカに到着した。こちらのほうは勝海舟が艦長で、乗員のなかに福沢諭吉がいた。福沢はサンフランシスコに到着すると、おおむね単独行動をとった。なにをするにもグループで、ひとりが何かをするとみんながおなじようにそれに見習うという日本人の団体旅行風俗がいやだったのだろう。かれは、ある日ひそかに市内の写真スタジオを訪れ、肖像写真をとってもらった。たまたまそのスタジオに一五歳くらいの娘がいたのでいっしょにならんで撮影してもらうこともできた。福沢は出来上った写真を荷物の奥にしまいこみ、帰国の途中でそれを仲間に見せびらかした。かれはそのことが自慢で、『福翁自伝』のなかでもふれている。もしもじふんが写真屋で娘といっしょに写真をとったといえば、みんなが真似をするから黙ってかくしておいて、ハワイを出帆してから取り出し、うらやましがらせてやった、というわけ。独立自尊、二六歳の福沢である。  ただ福沢が「威臨丸」の操船はことごとく日本人がやった、と書きのこしているのはちょっと勇み足の記述であって、ほんとうはアメリカ海軍の将兵一〇人が大活躍だったのである(上巻・二月二五日の項参照)。   9月29日 ■太平洋の領有宣言■V・バルボアが南米のパナマ地峡をこえて太平洋を発見したのは一五一三年九月二九日。これより先、かれはパナマの北部で金鉱さがしをやっていたのだが、そこから南下すると大きな海がある、ということを現地人からきき、およそ四週間かかってここに到着したのである。果てしもなくひろがる海をかれは「南の海」と名づけ、この海ぜんたいをスペイン領と宣言した。もとより、かれは、「南の海」が地表の三分の一を占める太平洋であることを知るよしもなかった。これが湖でなく海であるということを証明するため、バルボアの一行は水を口にふくみ、それが大西洋の水とおなじく塩分をふくんでいることを確認した。大西洋と太平洋がつながっているのを実地に踏査したのはいうまでもなくマゼランである。 ■ネルソンの誤算■トラファルガーの海戦でネルソン提督(一七五八年九月二九日生)のひきいるイギリス艦隊はフランス艦隊を敗走させたが、ネルソンじしんは戦死という悲痛な結果になってしまった。しかし、ネルソンが砲撃をうけたのは、かれのがわの誤算にもとづくところもすくなくなかったようである。というのは、四時間にわたるこの海戦で、ネルソンは二回にわたって射撃中止を命令したからだ。かれは、敵味方の砲撃を見ていて、敵艦隊が沈黙したのに気づき、これで降服するのではないか、とかんがえてしまったのである。しかし、この沈黙は、じつは弾薬の準備のための沈黙であって、ネルソンは、その沈黙を破って発射された弾丸にたおれた。ネルソンの姿は、フランス艦隊の射手の位置からまる見えで、要するに狙撃されたのである。  この海戦でネルソンがイギリス艦隊に示した信号旗は有名な「イングランドは全員がその義務をつくすことを期待する」という名句であったが、ネルソンはもともとは「期待する」ではなく「信ずる」という動詞で信号旗をあげさせようとした。しかし、信号で「信ずる」ということばを示すには手間がかかるので、すでに慣用されていた簡単な「期待する」にとりかえられた。敗軍の将ナポレオンはネルソンのこの信号旗にすくなからず感銘し、フランス軍にもしばしばこの模倣版の信号やメッセージをつたえた。   9月30日 ■イルカ美談■ニュージーランド北島の北端にワンガレイという港町がある。一九七九年九月三〇日、この港に、突然五〇頭のクジラがまぎれこんだ。クジラたちは、いっこうにうごこうとせず、そのままにしておくと死んでしまうことがあきらかであった。当局は、あれこれと知恵をしぼったがクジラはうごかない。窮余の一策で、モーター・ボートを沖に出し、イルカの群をさそいだすことに成功した。そして、そのイルカたちを湾内にひきこんだうえで、かれらにクジラの案内をさせることにした。イルカは、みごとにクジラを港外に連れ出してくれた。  イルカが水路をひらいてくれた例は、ほかにもいくつかある。このニュージーランドのできごとの前の年には、漁師たちがイルカに救われた。すなわち、一九七八年の初夏のことだが、南アフリカに出漁した小型漁船に乗り組んだ四人の漁師たちは、深い霧にとざされ、すっかり方角がわからなくなって漂流をはじめた。ところが、そのとき、四頭のイルカがあらわれ、漁船のまわりを泳ぎはじめた。このイルカたちが邪魔するので、船のうごきがとまった。漁師が気がつくと、船はまさに岩礁にぶつかる寸前だったのだ。つまり、漁船はイルカに救われたのである。霧が晴れて見とおしがよくなるまでイルカは漁船のそばをはなれなかった。このできごとは一九七八年五月二八日、と記録されている。  一九七一年には、インド洋でヨットが難破し、海にほうり出された女性がもがいているところに三頭のイルカがあらわれ、そのうち一頭がしずかに彼女をその背にのせ、二頭がかたわらで護衛しながら三〇〇キロほどを泳ぎ、無事に港外のブイの浮いているところまで連れていった。  こんな話がいくつもあるものだから、アメリカ人のなかには、イルカをまもれ、というヒステリックなうごきが出現したのである。 ■大仏くらべ■お釈迦さまは偉大だったが、その偉大さはたんに思想にとどまらず、からだの大きさについてもあてはまったものらしく、仏典ではその尊容丈六と表現する。一丈六尺といえば五メートル余。まさしく巨大である。だからその巨大さと偉大さを表現するために、大きな仏像をつくることが仏教国の各地でこころみられた。たとえばインドのカシア地方には五世紀ごろつくられたと推定される七メートルの涅槃《ねはん》像があり、スリランカのアウカナの断崖には一五メートルの石像がある。ビルマには金箔に光る四〇メートル像。そしてアフガニスタンのカブール北西にある有名なバーミヤンの立像は五三メートル。これは二世紀の建立になるものだ。  中国にもいたるところに石像の大仏があり、敦煌にはかつて五〇メートルの像があったという。朝鮮半島では忠清南道の灌燭寺に三〇メートルの弥勒像がある。日本での大仏の代表は奈良東大寺の大仏さま。正しくは盧遮那《るしやな》仏。座像で一四・九メートルであるから、お立ちになったら右に列記した各国の諸大仏に伍するだけの身長になられるであろう。この奈良の大仏さまの着工は七四七(天平一九)年九月三〇日。完成するまでちょうど一〇年かかった。 [#改ページ]   十  月   10月1日 ■映画常設館のはじまり■初期の映画があらたな見世物興行の域を出なかったことは、別項(上巻・六月二〇日)にみたとおりであって、歌舞伎座その他の既設の劇場を借りていたにすぎないが、一九〇三(明治三六)年一〇月一日、浅草電気館が日本最初の映画常設館として誕生した。しかし「電気館」の名はあるものの光源にはガスを使っていた。館内にはこれといって設備もなく、観客は下駄ばきのまま土間に立たされ、ひとの肩越しにスクリーンをのぞくといった次第。入場料は一〇銭であった。  いっぽう、アメリカではこれよりはやく一八九六年六月にニューオルリンズで「ヴァイタスコープ・ホール」が開場している。定員四〇〇人で入場料は一〇セントであった。イギリスでは一九〇一年八月に「バーナード・ホール」が開館されたが、本格的な大映画館として記録にのこされてしかるべきものは一九一〇年にパリにつくられた「ゴーモン・パレス」である。これは客席五〇〇〇というとほうもない大劇場であって、映写機を二台置いて、映写にあたってフィルムの連続映写ができるようになっていた。なお、「ゴーモン・パレス」は、こんにちの映画館の原型であって、ここではじめて映写室は客席後方に置かれた。それまでは、スクリーンの裏側から映写していたのである。 ■デパート食堂■一九〇三(明治三六)年一〇月一日、東京の白木屋は和洋折衷の二階建新店舗の改築を完了した。ここには、ベルギーから輸入した厚さ一寸二分のガラスを張ったショーウィンドウがつくられ、天井まで吹きぬけの大ホールがあり、その片隅に遊戯室が設けられていた。この遊戯室は、買物中のお客の子どもをあずかるのが主たる機能で、木馬、シーソーなどの遊具も置かれたが、同時に、ちかくの飲食店のうち梅園の汁粉、東橋庵のそば、それにほかけずしの鮨の出張店を誘致して買物客の便をはかった。これが日本におけるデパート食堂のはじまりである。   10月2日 ■史上最大のいたずら■一八○九年のこと、ロンドンにT・フックなる人物がいた。かれの唯一の趣味は、ひとをあっといわせるプラクティカル・ジョーク、つまり実行をともなう途方もないバカ話。ふとある日、かれは散歩中にバーナーズ通り五四番地という、なんの変哲もない一軒の家に気がついた。持ちまえのいたずら心がうごきはじめる。かれは友人のビーズリーに、この家をロンドン第一の有名な家にしてみせるがどうだと話しかけ、賭をすることにした。もしこの家を有名にすることができたら、なにがしかの金をビーズリーがフックに払い、失敗したらその逆、というわけ。  フックは、この家がトニンガム夫人という未亡人の居宅であることをたしかめ、夫人の名前を使って〇〇〇通以上の手紙をほうぼうに書いた。いずれも品物の注文書であり、それには特定の日に配達するように、という指示がつけ加えられていた。いよいよその当日がやってきた。まず煙突掃除人がきて、トニンガム家のなかをひっかきまわしているところに、こんどは家具屋がテーブルや椅子をはこんでくる。大きなビア樽がきたかと思うと、教会用のパイプ・オルガンが配達される。荷馬車いっぱいの石炭がくる。肉屋がくる。宝石商がくる。メガネ屋やカツラ屋もくる。バーナーズ通りは大混乱になり、トニンガム夫人はいっこう身におぼえのない注文書を手に手に殺到する商人たちを相手に半狂乱状態。  警察が出動したが手のつけようもない。そこにこんどは陸軍大臣のヨーク公がとんできた。ヨーク公のところには、陸軍兵士がバーナーズ通り五四番地で瀕死の重傷を負っている、というニセの通報がフックからもたらされたのである。おなじ手口にのってカンタベリー寺院の僧正、ロンドン銀行の頭取、そして、ロンドン市長までがやってきた。かくして、バーナーズ通り五四番地はロンドンでもっとも有名なところとなった。フックは賭に勝ち、しかも、この事実をながいあいだ誰にも気づかれることなく、にんまりと人間たちを眺めていたのであった。この話をもとにマルクス兄弟は「オペラの一夜」なる傑作喜劇映画をつくった。グルーチョ・マルクスの誕生日は一八九五年一〇月二日。 ■計算ちがい■イギリスは一六三三年、西アフリカのギニア地方で金鉱を見つけ、その金を原料として金貨をつくった。その金産地名をとって、この金貨は一ギニーと呼ばれた。一ギニーはすなわち二〇シリング、つまり一ポンドと等価であるはずだった。ところが、いったんギニー金貨が流通しはじめてからしらべてみると、一ギニーのなかにふくまれる金の含有量が法定の数値より高いことが判明。とすると、これを二〇シリングと等価にするのはおかしい、ということになり、一ギニーは二一シリング、という中途半端な換算率が一七一七年以後適用されるようになる。つまり、一ギニーは一ポンドと一シリングというわけだ。  一八一三年以後、この計算ちがいによる貨幣は鋳造を中止されたが、金額の表示としてはいまも残っている。たとえば弁護士の謝礼、不動産価格、寄附金といった領域では、ポンドではなくギニーで金額が表示されるのである。一ギニーは二一シリングだから、ポンド計算にプラス五パーセントを加えなければならぬ。たとえば五〇〇ギニーということは五二五ポンドということ。  ギニア地方は、イギリスのみならずスペインやフランスも金鉱さがしに出かけ、結局は仏領になってしまったが、一九五八年一〇月二日、新興アフリカ諸国の一員として独立した。   10月3日 ■編物のはじまり■W・モリス(一八九六年一〇月三日没)は、幼いときから詩や神学にしたしんでいたが、オックスフォード大学を卒業すると、最初は聖職者をめざしたものの、よくかんがえてみると抽象的な神学の世界に沈潜するよりも、具体的な現実問題にとりくむほうが意味がある、という結論に達し、社会改良運動に乗り出した。かれの頭のなかにはユートピア思想がかたく根をおろしており、それはのちにユートピア小説『無可有郷便り』に実をむすぶものだが、実践的には手工芸を奨励した。  かれは友人を語らって、モリス・マーシャル・フォークナー商会なる会社を設立し、室内装飾や彫刻、ステンドグラスなど、手づくりでなければ味わうことのできない工芸活動に専念する。それは産業革命によってはじまった大規模機械化生産へのひとつの反抗であると同時に、そのあたらしい産業社会のなかで、ややもすればその存在基盤を失いかけていた手工芸の職人たちをまもる運動でもあった。モリスはさらにこの運動を大衆的啓蒙活動につなげることをかんがえ、手近なところで、まず婦人たちに編物をすすめた。すでに衣料品は量産がはじまっている。しかし、たとえば靴下とかセーターとかいったものは手づくりでつくることができるし、その手づくり作業のなかで婦人たちは創造力もやしなうこともできるだろう、というわけ。そのモリスの呼びがけは成功し、まずイギリスから、つづいてヨーロッパ、アメリカ、さらに日本にも編棒を手にして編物をする女性の姿がふえてきたのである。 ■椅子の復活■一八七二(明治五)年一〇月三日、東京新富町の新富座の客席に椅子が登場した。これは洋服を着る人たちが目立ちはじめたからだ、というが、日本の文化史をたどってみると、じつは椅子にすわる生活は古代ではけっして珍しいものではなかった。たとえば『日本書紀』の雄略天皇などについての記述をみると「胡床」というものに貴人たちが腰かけていたことがわかる。また、埴輪のなかにも椅子にすわった人物像がいくつも発見されている。平安時代になってもその習慣はかわらず、四角形で四脚の椅子が使われていた。腰かけの部分にクッションを置き、左右にひじかけがあって背もたれもあったわけだから、まさしくこんにちの椅子とそっくりだ。  ただ、やがて平安貴族のあいだでは床にすわることがさかんになったため、日本における椅子生活は消滅し、わずかに武将たちが戦陣で鎧を着けたまま腰をかける将几《しようぎ》としてその伝統がのこったにすぎない。しかし、そんなふうにかんがえてくると、明治初期に椅子があらわれたのはべつだん西洋渡来の新風俗なのではなく、いったん途切れていた伝統の復活とみるべきであろう。ちなみに、古代の椅子は中国大陸から輸入されたアイデアであり、いすということばじたい、宋音の「いし」が訛ったものだ。   10月4日 ■バイブルの語源■一五三五年一〇月四日、最初の英語版聖書の印刷ができあがった。決定版ともいうべき「欽定聖書」がつくられたのはそれから七〇年余を経た一六一一年のことだったが、そもそも「聖書」(Bible)というのはどういう語源から出ているのであろうか。  まず、製紙法が発明されるまでエジプトで葦の繊維を使ったパピルスというものがあったことはご存じのとおりだが、このパピルスの内皮のことを biblos と呼んだ。それを語根としてギリシャ語で biblion というのが「書物」を意味する。その複数形 biblia がラテン語を経由してフランス語の bible となり、英語はそれをそのまま借用したというわけ。それは要するに「書物」ということであり、「文献目録」(bibliography)などに使われる biblio- という接頭語もこれを語源としている。いわゆる「聖書」は Bible と大文字からはじまる。ひとことでいえば「これこそが書物」といったようなことであろうか。 ■太平洋横断飛行とリンゴ■飛行機の性能と操縦技術が進歩するにつれて、太平洋を横断してみよう、という冒険家たちがつぎつぎにあらわれた。太平洋に最初に挑戦したのは、アメリカ陸軍のメートランド、ヘーゲンバーガーの両中尉で、かれらは一九二七年にカリフォルニアのオークランドを飛び立ち、二五時間でハワイのオアフ島まで無事にたどりついた。  その翌年には、アメリカからオーストラリアまで一万二〇〇〇キロをチャールズ・スミスなるオーストラリア人が飛んだ。燃料補給のため、カリフォルニアからホノルル、フィジー、ブリスベーンの各地に寄港して、ついにシドニーに到着した。  しかし、太平洋の両海岸、つまり、日本とアメリカ大陸を無着陸で飛ぶという本格的な太平洋横断飛行が成功したのは一九三一(昭和六)年のことである。この年の一〇月四日、アメリカのパングボーン、ハーンドンの両飛行士は青森県の三沢を飛び立ち、四一時間三一分でおよそ八○○○キロの飛行をつづけて北太平洋を横断してワシントン州のウェナッチに到着した。離陸にあたって、かれらは青森特産のリンゴをたくさん機内に積みこんだ。ところが、たまたま、ウェナッチもリンゴの産地であったところから、このふたつの町は、飛行機のとりもつ縁で日米姉妹都市の第一号となったのである。   10月5日 ■ダルマさんの話■きょうは達磨忌。といっても達磨の正確な没年月日がわかっているわけではない。達磨大師は正確には菩提達磨。その出自は南インド香至国というところの王子さまである。深く仏法に帰依したけれども、正法が衰えてゆくことを嘆いてはるばると中国に帰化した。中国に到達したのは四七〇年ごろ。そしてまもなく北上して魏の国にいたり、嵩山少林寺で有名な「面壁九年」、つまり、じっと壁にむかって九年間すわりつづけ悟りをひらいたという。すわりつづけたために足が不自由になり、うごけなくなった、というので、いわゆる「ダルマさん」が生まれたのである。  この「ダルマさん」のヒントになったのは中国の玩具「不倒翁」である。張子の玩具の底に重りをつけておくと、たおしても起きあがる。それを日本では室町時代から「起き上り小法師」と呼んで流行したが、江戸時代の中期になると「面壁九年」の伝説とむすびつけて朱塗りの「ダルマさん」がデザインされた。その朱色は子どもの疱瘡よけに効能があるともいわれたし、また「起き上る」のが縁起がいい、というので養蚕、農業、漁業などはもとよりのこと、商売繁昌の守護神として用いられるようになった。そして、それがひろまるにつれて、たとえば高崎などはダルマ人形の産地として有名になり、ダルマ市が立つようになった。ダルマ市で売られる「ダルマさん」は片目が白く、なにかの願いごとが叶ったときにそこに墨で黒く目をいれるのが習慣になっている。 「ダルマさん」がこんなふうに一種の民間信仰になったことの一因は「達磨宗」という宗派がついに成立しえなかったこととも関係している。じじつ、達磨はいわば禅宗の開祖であって、それは古くは最澄・空海が中国からもたらしたが宗派としては形成されず、のち栄西が一一九一(建久二)年にあらためて禅宗を日本でひらいたときにはじめ「達磨宗」を名のったのだが、比叡山の僧がそのうごきを迫害し、ついに栄西はみずからの宗派を「臨済宗」と名のったのである。その事情は栄西の『興禅護国論』にくわしい。なお伝説によると、達磨大師は一五〇歳の長寿を生きた、ということになっている。   10月6日 ■ダムの失敗■G・ウェスチングハウス(一八四六年一〇月六日生)は、のち、電気機器メーカーとして有名なウェスチングハウス社の創立者となったが、かれは若いころ水力発電所の設計をその職業としていた。ナイアガラの滝のすさまじい水力によって発電をするというアイデアを具体化したのもかれの設計によるものだ。  しかし、初期の水力発電用のダム工事にはいくつもの悲惨な失敗がつきまとった。たとえば一八三六年にペンシルヴァニア州が音頭をとってコネマウ河につくった高さ二五メートル、幅三〇〇メートルの巨大なダムは、その完成後の維持管理がきわめて貧弱であった。鉄工会社の社長D・モレルは私財を投じてダムの状態をくわしく調査し、それが崩壊寸前にある、と警告を発したが、誰もまじめにとりあげようとはしなかった。  ところが一八八九年の春、この地方は集中豪雨に見舞われた。ダムは放水をはじめたが間にあわず、水はダムの壁に沿って滝のように流れはじめる。そしてやがて、ダムの中央部に亀裂がはいったかとおもうと、たちまちこの巨大なコンクリート構造物は崩れおち、ダムにたまっていた水が谷間ぞいに高さ二〇メートルほどの奔流になって流れはじめた。途中には鉄道の鉄橋があり、折あしく、そこを列車が通過中だった。あっというまに機関車も列車も流され、合計二二〇〇名の住民が死んだ。泥と岩石にまきこまれた死体は一九〇〇年代にはいっても、この地方で建設工事がおこなわれるたびに発掘されたという。名誉のためにつけ加えておくと、このダムはウェスチングハウスが設計したものではない。 ■真説真田十勇士■一六一四(慶長一九)年一〇月六日、真田幸村は乞われるままに手勢をひきつれて大坂城に入った。九度山に閉じこもって部下たちに細々と真田紐の行商をさせていた幸村にとって、これは最後の晴舞台である。大坂方が幸村をスカウトした値段は五〇万石。もちろんこれは成功報酬であって、首尾よく大坂方が勝ったら五〇万石の領地をあげよう、というわけだ。敗けたら元も子もない。幸村は、べつにこの戦争に勝てるとはおもっていなかったらしいが、九度山の貧乏ぐらしにはいいかげんうんざりしていた。だから大坂入城。そして、華々しく戦って一六一五(元和元)年五月、真田勢は最後の総攻撃をかけ、ついに正面を突破して家康の本陣にせまり、家康は間一髪の差で命が助かった。  ところで、幸村といえば、猿飛佐助、三好清海入道といった豪傑や忍者をそろえた「真田十勇士」を連想するが、このなかで、ほぼ実在したと推定できるのは穴山小助、根津甚八、海野六郎の三人。のこりの七人はことごとく立川玉秀斎のつくった「立川文庫」あたりの創作である。物好きな歴史家が猿飛佐助についてしらべようというので甲賀忍術家五三家の系図をことごとく調査したが、結局、佐助に該当する人物を見つけることはできなかった。   10月7日 ■ポーの怪奇な生涯■推理作家のE・A・ポー(一八四九年一〇月七日没)は生まれつき陰気な人がらで、かれの笑顔を見た人はひとりもいなかったといわれる。一七歳のときから酒びたりになって定職をもったことはいちどもなかった。しかし、文名が高くなるとかれに面会を求める者も多く、当時のポーク大統領もポーに会いたがった。だが約束の日になるとポーは忽然と姿を消し、大統領は待ちぼうけ。そんなことはポーの生活のなかでは日常茶飯事だったらしい。常識から完全にはなれ、アルコールのなかでかれは生きた。  一八四九年九月三日、かれはボルチモアで行方不明になった。やがて場末の酒場で発見されたポーは泥酔どころか意識不明。病院に収容されたが精神は完全に錯乱して、ついに七日に息をひきとった。享年四〇。ほとんど無一文である。  かれの死体は、ボルチモアの墓場の、祖父のD・ポー大佐の墓のとなりに埋められた。棺桶はかれの主治医がポケット・マネーで買った。ところが、この墓地のすぐそばを鉄道線路が走っており、数年ののち鉄道事故でポーの墓石はどこかに吹っとんでしまった。その墓石のあとには、「八○番」という墓地の区画を示す標識が立てられただけ。  これではいくらなんでもかわいそうだ、というので、文豪をいたむボルチモア市民有志は募金してポーの墓地をつくりなおすことにした。一八七五年の一一月、いよいよ改葬がおこなわれ、G・スペンスなる墓掘人夫が朽ち果てた棺桶を掘り出す。スペンスは第一回の埋葬を手がけた人物であったから要領はよくわかっている。この改葬に立ちあったH・シェパード博士は、ボロボロの棺桶のなかのポーの白骨化した死体をしげしげと観察し、「頭骨の状態は完全であり、ポーの特徴的な前頭部は容易に識別できた。歯も完全で真珠のごとく純白であった」とその所見を記録している。市民有志の用意した堅牢かつ豪華な棺に死体が移されたが、シェパード博士はその間に、古い棺桶のかけらを記念にポケットにいれ、これを家宝とした。正式の改葬式は一一月一七日におこなわれ、それには詩人のホイットマンも参列している。  ポーにはティーンエージャーのヴァージニアという妻がいたが、彼女も短命で、べつなところに埋葬されていた。ところが、彼女の墓地は土地開発でとりつぶされた。ポーの熱烈なファンであったW・ギルなる人物は彼女の骨を箱づめにし、じぶんのベッドの下に置いてながいあいだ保管していたが、ポーの改葬がおこなわれた一〇年後の一八八五年、ヴァージニアの骨をポーの墓地にあわせて葬った。   10月8日 ■犬が牛肉を焼く話■牛肉の大きなかたまりを直火のまえに置いてゆっくりと回転させながらまんべんなく焼き上げたのがご存じのロースト・ビーフである。食べものについてはあんまり名物というもののないイギリスだが、ロースト・ビーフだけはアングロ・サクソン民族が世界に誇る名物料理だ。小説家フィールディング(一七五四年一〇月八日没)もその作品のなかで roast beef of old England ということばを使っている。  ところで、たしかにロースト・ビーフは美味であるにちがいないが、これをちゃんと焼くためには肉を剌した大きな串を回転させなければならぬ。数時間にわたるこの調理は料理人にとっての重労働。そこである知恵者が犬を利用して串をまわさせることを考案した。方法はいたって簡単で、串の心棒と歯車で連動させた金属製の円筒をつくり、その円筒のなかに犬を入れ、同時に炭火をほうりこむ。犬は炭火の熱さに耐えかねてやみくもに走る。走るといっても、それは円筒のなかだから、要するにハツカネズミのカゴまわしのようなもの。ただ、あんまり速く走りすぎると炭火が円筒内に散乱し、犬は全身に火を浴びることになるから、やがて経験的学習によって犬はほどよい速度で走るようになり、したがってローストのほうもほどよい焼けぐあいになるという次第。この苦役に使用された犬は turnspit dog といわれ、ダックスフント型の長身短足の犬がもっともこの作用に適していた。なお、この方法はイギリスではフィールディングの同時代、つまり一八世紀までおこなわれていたようである。 ■小笠原の帰属■伊豆七島のはるか南に小笠原諸島がある。総面積一〇〇平方キロ。この島じまを一五九三年に発見したのは小笠原貞頼だったというが、そのころは無人島。スペイン人も探検したが、べつだん手を打ってはいない。ただ、ボーニン諸島という名をつけただけである。  しかし幕末になると、この南海の孤島をめぐって領有問題が本格化してきた。まず一八二七(文政一〇)年にはイギリス軍艦「ブロッサム」号が来航してイギリス領だ、と宣言し、その三年後にはこんどはアメリカ人サヴォリーがハワイ人をひきつれてこの島に移住して既成事実をつくってしまった。ごていねいにも、ペリー提督はこの島に寄港してサヴォリーを島の首長に任命した。こんなふうに英米が対立しているところに、日本が一八六二(文久二)年、外国奉行水野忠徳を派遣し、同時に八丈島の島民を移住させて日本領と宣言。幕末の外交としては大ヒットである。  とはいうものの、英米との交渉も難航し、この島が日本領であることを外国が承認したのは一八七五(明治八)年であった。そんな事情があるものだから小笠原は内務省の直轄地という異例の地域としてとりあつかわれた。これが東京府に行政的に移管されたのは一八八〇(明治一三)年一〇月八日のことである。  ちなみにここに移住したハワイ島民は、榔子の葉でハワイふうの小屋を建て、また双胴式カヌーをあやつった。そのハワイ文化はやがて八丈島にもつたえられ、こんにちでも八丈島ではカヌーが活躍している。   10月9日 ■シカゴの大火■一八三〇年のシカゴは人口わずか一七〇人の砦であるにすぎなかった。その後四〇年でこの小さな集落は人口三三万の大都市に成長した。しかし、その成長のしかたというのはまったくの無秩序で、いたるところに行きどまりの小路あり、細い裏通りあり、といった調子であった。そこに掘立小屋が軒をならべて建ちならんでいる。しかも、建物の多くは本造だ。火事はしょっちゅう起った。  ところが、一八七一年一〇月九日の早朝、五頭の乳牛を飼って近隣の人たちにミルクを売りながら細々と生計を立てていたC・オレーリーの牛小舎から出火、さっそくシカゴ消防団第六分団が出動して消火につとめたが、作業は遅々としてすすまない。それというのも、その前日に一六時間にわたって燃えつづけた大火があり、消防団員は疲労の極に達していたからだ。折悪しく、この年、中西部一帯の空気は乾燥しきっていたうえに強い南西の風が吹いていた。火はますます燃えひろがり、消防団のほか軍隊も出動、さらに、ミルウォーキーやオハイオからも救援の消防隊がかけつけたがどうにもならない。シカゴは三日間猛火に包まれ、市街地ぜんぶを焼き払って自然鎮火した。これが有名なシカゴの大火。  これを機会にシカゴの本格的都市計画が実行に移され、シカゴは中西部最大の都市となった。なお、出火したオレーリー家の五頭の牛はことごとく焼死したが、この牛の皮でつくった細工物はシカゴ大火記念として珍重され高値で売れた。 ■切手がつくったパナマ運河■フランスがパナマ地峡を横断するパナマ運河の建設の権利を手にいれたのは一八七八年のことであった。しかし、じっさいに手をつけてみると難問が山積しており、計画は挫折せざるをえなかった。しかし工事にあたっていたフランスの若い土木技師P・ブナウ=ヴァリアはパナマ運河建設が可能であることを確信していた。必要なのは資金である。もはやフランス政府の財政は頼ることができない。そこでかれはアメリカに救いをもとめることにした。  ワシントンに行ってしらべてみると、アメリカ政府がフランスのパナマ計画に対抗してニカラグアを候補地とする運河計画を立てていることがわかった。ニカラグア湖を利用すれば、それを水路の一部とすることができるから工費が削減できるだろう、というのがアメリカの発想だったのである。こんなことをはじめられてはたまらない。ブナウ=ヴァリアはさっそく活動を開始した。かれはニカラグア政府発行の切手を数百枚手にいれ、それを一枚ずつ同封して国会議員に送った。その切手は手前にニカラグア湖、遠景に活火山の噴煙のみえる風景をあつかった図柄である。こんなふうにニカラグアは火山活動が活発です、ここに運河をつくるなど危険きわまりないことではありませんか、というのがその文面。議員たちは、切手にえがかれている活火山をみて、なるほど、と再考し、ニカラグア運河計画の立法に反対票を投じた。そして、それにかわって、パナマ運河建設計画が浮びあがってきた。  だが皮肉なことに、アメリカはフランスの計画にテコいれするという方法でなく、一九〇四年に建設の権利をそっくりフランスから買取し、周到な準備のもとにJ・スティーヴンスを主任技師として、ついに運河を完成させたのである。とはいえ一枚の切手が大西洋と太平洋をむすんだという事実にかわりはない。きょうは万国郵便連合記念日。   10月10日 ■中国の人口■きょうは中国の国慶節。中国の人口は八億とも一〇億ともいわれ、世界最高だが、歴史統計をみても、中国はその人口においてつねに第一位である。  すなわち、一八〇〇年におよそ三億、一八五〇年に四億、一九〇〇年にはやや減って三億七〇〇〇万、一九三〇年に四億四〇〇〇万、一九五〇年に六億四〇〇〇万。人口第二位は、これも過去二世紀ほどかわらず、インドである。第三位もかわらず、ロシア、ソ連邦。  だが四位以下は、変動がはげしい。フランスは一八○○年には二七〇〇万で第四位だったが、一九三〇年には四〇〇〇万と絶対数はふえたものの第九位。一九五〇年以降はトップ・テンから脱落している。イギリスは一八五〇年に二〇〇〇万で第一〇位に顔をのぞかせ、一九三〇年に第九位、一九六〇年に辛うじて第一〇位を保ったが、それ以後はこれまたトップ・テンから消えた。トルコは一八○○年に二五〇〇万で第六位、一八五〇年に第七位。それからあとはアウト。  いっぽう、上昇型のトップはアメリカ。一八五〇年に二〇〇〇万で第一〇位だったのに、一九〇〇年には七五〇〇万で第四位。それ以後は第四位を守りつづけている。インドネシアは一八〇〇年に一三〇〇万で第一〇位だったが、一九〇〇年に第八位、一九五〇年に第六位、一九六〇年が第五位。ちなみに、一九五〇年以降、突如としてトップ・テンに入ってきた国としては、パキスタン、ブラジル、バングラデシュ、そしてナイジェリアがある。  ところで日本の位置だが、おもしろいことに一八○○年以来こんにちまで第四位と第八位のあいだを安定してうろついているのである。すなわち一八〇〇年には一五〇〇万で八位、一九〇〇年が四三〇〇万で六位、一九五〇年に八三〇〇万で五位。人口からみると、日本は「中位国家」。 ■痰つぼの起源■中国の話をもうひとつ。まことに瑣末的な話で恐縮だが、中国のいたるところで見うけられる痰つぼについてひとこと。痰つぼは「秦檜《しんかい》」と呼ばれるが、これは南宋の総理大臣の名前である。秦檜は宋が金と争っていたとき、主戦論者をおさえて金と妥協的な和議をむすんだ。宋の愛国者たる岳飛《がくひ》は秦檜によって投獄され、結局のところ獄死してしまったが、岳飛が国民的英雄となったのにたいして、秦檜は文字どおり唾棄すべき大悪人。そこで痰つぼは俗称秦檜と呼ばれることになった。中国人は、じつにみごとに痰つぼに痰を吐き出すが、そのたびに国辱的な秦檜に恨みをこめているのであろう。宋のころといえば一一世紀から一二世紀。一〇〇〇年ちかくにわたって中国人民の恨みは痰つぼにこもっているのである。 ■眼科の起源■きょうは「目の日」だが古代の医学では眼科というものが独立していなかった。大宝令では、耳、ロ、歯を一括してそれを医学の一専門としていた。どうやら、この四者はたがいに関連しあっているものとおもわれていたようである。中世の医学書をみても、五臓六腑、陰陽精気というものは、ことごとく身体のなかを上昇して目におよぶ、とされている。ただ眼病の治療というのは、いかにも怪しげであった。たとえば「昼ハ清明ニシテ暮ニ至レバ則チ物ヲ見ザル」症状、つまり、鳥眼を治すには、雀をつかまえてその頭の血を眼に塗る、またはネズミの肝を患部にあてる、あるいは、イノシシの肝を食べる、といった処方があたえられていた。  眼科が独立するのは、中国では元の時代、そして日本では南北朝のころである。このころ、清眼僧都なる人物があらわれ、はじめて眼科医を名のった。当時の医学がそうであったように、この眼科医学も流儀の問題であって、この流儀は「馬島流」と呼ばれた。その技術は中国伝来のもので、馬島流の継承者たちはその技術を秘伝としたが、馬島眼科がもっとも得意にしたのは、白内障などの内障《そこひ》であり、漢方薬による洗滌、内服のほか、外科的手術もおこなわれたようである。 ■運動会のはじまり■西洋から競走、幅とびなど、いわゆる「体育」競技が輸入されたのは明治初年のことだが、アスレチック・スポーツという英語を日本語に訳すのはたいへんな作業であったらしい。こんにちでいえば、要するに「運動会」ということにほかならないのだけれど、英語の先生から漢文学者までが動員され、結局のところ「競闘遊戯会」という訳名が決定した。明治七年三月一六日のことである。  この「競闘遊戯会」がおこなわれたのは、のちに海軍兵学校となった兵学寮であって、若い生徒たちがさまざまなゲームを競いあった。だが訳語の傑作は「競闘遊戯」の個々の種別であった。たとえば、もっとも単純な徒競走だが、これは「雀雛出巣」(すずめのすだち)と名づけられたこれに参加したのが一二歳以下の少年にかぎられていたのでこういう名称になったのであろう。「文[#「魚+搖のつくり」]閃浪」(とびうおのなみきり)というのがある。これは走り幅とびのことだ。  こうしてはじまった体操競技を「運動会」としてさかんにしたのは開成学校、すなわちこんにちの東京大学である。この予科に明治八年、W・ストレンジなる教師が着任し、日本の学生たちがいっこうにスポーツというものをしないことに気がついた。そこで、かれの発案によって「運動会」がはじまった。のちに兵庫県知事になった服部一三がスターターの役をつとめたが、競技開始の合図は、まずコウモリ傘を頭上にかざし「よろしゅうごわすか」と選手たちに用意させ、おもむろに「イチ、ニ、サン」と傘をふりおろすのがその作法であったという。これがのちの「ヨーイ、ドン」のそもそもの原型であった。きょうは体育の日。   10月11日 ■月のなかの動物たち■一九五八年一〇月一一日、ソ連の最初の月ロケットが発射され、はじめて月はその実体的研究の対象となったが、月は古代から信仰の対象としてさまざまな象徴的意味づけをされてきた。とりわけ、月の表面にみえる斑点をどのように見立てるかについてはおもしろい分布がある。  日本ではいうまでもなく月にいる動物はウサギということになっているが、この俗信は中国からきたもの。ただ中国ではウサギ説に先行してヒキガエル説が有力であった。しかし、ウサギ説はべつだん極東にかぎられたものではなく、南アフリカ、ヨーロッパ、インド、チベット、蒙古、北米のアメリカ・インディアンにまでひろがっている。さらにおもしろいことに、メキシコのアズテック文明のなかでも月にはウサギがいる、ということになっているのだ。誰が見ても見立てのしかたは似たようなものになるのだろう、という並行進化説もありうるだろうが、どうやらこの見立ては、中国あるいはインドから発して世界にひろがったものとおもわれる。むかし蒙古族はベーリング海峡をわたってアメリカ大陸のインディアンあるいはインディオになったのだから、月のなかのウサギというイメージもそんな経路で移動したのであろう。  日本でも沖繩、とくに宮古島では、月のなかにみえるのは人が水を汲んでいる姿だ、とされているが、この見立ては北ヨーロッパ、アイヌ、ニュージーランド、そして南北アメリカに共通している。さきにみたアズテック文明には、ウサギとならんでこの伝説もある。絵文字をつらねた『コデックス・ボルジア』にみえる月のなかには、ウサギといっしょにえがかれている。  月のなかにいる動物として、このほかにポピュラーなものとして、クマ、ネズミ、イヌ、ヘビなどがあるが、比較民族学者たちはこれらの動物の共通の性質として、(1)冬眠または穴居によって見えかくれする、(2)水とかかわりが深い、のいずれか、または双方がある、と指摘している。   10月12日 ■博物館ことはじめ■さまざまな品物をあつめて収蔵庫にいれる、ということは、社会が重層化してくると東西をつうじて古代からおこなわれてきた習慣だが、近代的意味での博物館の第一号は、一六八三年、オックスフォードにつくられたアシュモリーン博物館である。この博物館にはこびこまれたのは、もともとトレイズカント家の蒐集品。これを遺贈されたアシュモリーンなる人物がそのままオックスフォード大学に寄附したというわけ。  収蔵品は「自然物」と「人工物」に二大区分され、動物の標本だの、家具だの、さまざまな道具、雑器だのが荷馬車で一二台分。こんにちの水準からみれば小博物館だった。それに刺激されて一七五三年には世界に名だたる「大英博物館」を国営で開設することが国会で議決され、六年後に一般公開された。ここにあつめられたのは、大英帝国が世界じゅうで手にいれたもの。クック船長が太平洋から持ちかえったものもあるし、例のロゼッタストーン(八月二日の項参照)もここに収蔵された。いくたびかの戦争での戦利品も陳列された。日本では一八八〇(明治一三)年一〇月一二日に上野博物館が開設され、それを記念してきょうは「博物館の日」。 ■サンタ・マリア号の行方■コロンブスは、旗艦サンタ・マリア号に二隻の船をしたがえ、大西洋をわたって新大陸発見の旅に出かけた。出帆後五カ月を経た一四九二年一〇月一二日、かれはついにこんにちのバハマ諸島に到着。それをサン・サルバドルと名づけた。サンタ・マリア号は当時としては大型の船で、全長三〇メートル余、乗員三〇人のほか、一五〇立方メートルの船荷を積むことができた。その後、いくつかの小事件ののち、キューバを経てハイチに着いた。ハイチでは好天にめぐまれ、サンタ・マリア号は環礁のなかに碇泊した。海面はすっかり凪《な》いで、コロンブスじしん、「あたかもコップのなかにいるようだ」と書き残しているほどである。ところが、夜半になってみんなが寝静まったころ、突如として高波がおそった。サンタ・マリア号は、サンゴ礁に乗りあげ坐礁してしまったのである。  なにぶんにも突然のことだったから、乗員はなすすべを知らず、しかも船長が判断を誤ったので、サンタ・マリア号は使いものにならなくなってしまった。コロンブスは、やむなく、この歴史的な船を廃船処分にすることを決意し、解体したうえで、ごていねいにも、僚船の大砲で砲撃し、完全に沈没させた。  ハイチ沖に沈むサンタ・マリア号は、それ以来、歴史家の研究の対象となった。ハーバード大学のE・モリソン教授は、コロンブスの航海記録その他の文献を参照し、この船の残骸ののこっているであろうとおもわれる三地点を推定し、一九四九年、D・ラングウィッツは、小型飛行機で低空から偵察し、どうやら船らしいかたちの降起を海底に発見した。一九六七年になると、エール大学でスペイン史を専攻するF・ディクソンが、みずから潜水服に身をかため、ついにサンタ・マリア号の残骸を発見したのである。しかし、この水中探検で、さらにもうひとつの謎が生まれた。というのは、サンタ・マリア号のさらに下に、もう一隻の船が見つかったからである。科学的な時代推定をすると、あきらかにこれはサンタ・マリア号よりも古い。いったい、誰がどこからこの船で来たのであろうか。   10月13日 ■東京地名論争史■一八六八(明治元)年一〇月一三日、それまで江戸城と呼ばれていた幕府の総本山が東京城と名称変更した。だがこの「東京」なる地名については明治初期から議論があった。まずこれに疑義を提出したのは西村茂樹。かれは「東京」というのは「東ノ都」ということであってこれはたんに都市の格をあらわすものであるにすぎず、地名はあくまでも江戸だ、というのである。かれによれば、パリは固有名詞、それに対して「フランスの首府」というのは普通名詞、「東京」というのは首府機能をあらわすことばだから、「江戸」を廃するなら「パリ」も廃すべきだということになる。  この論争は昭和になってからもつづき、法律家でありかつユニークな歴史家でもあった尾佐竹猛が西村の所論をうけついで「東京」は地名ではない、と論じた。尾佐竹説によると、江戸は東の京、京都は西の京、その二都市のあいだをご巡幸になるというのが明治天皇の趣旨であるから、江戸の名称をやめるのは京都という名称をやめるのとおなじだ、というわけ。じっさい、『西国立志編』の著者中村敬宇もその著書の奥付に「明治八年十月、江戸 中村……」と署名していた。  しかし、西村から尾佐竹にいたる議論はほとんど無視され、結局「東京」だけが生きのこってしまったのだ。ちなみに、東京を首都とする、という遷都令は出ておらず、したがって京都すなわち西京の人たちのなかには、天皇は「東京」に長期に滞在しておられるだけ、とかんがえている人もすくなくない。 ■麻酔のはじまり■和歌山の人華岡清洲は一八○五(文化二)年一〇月一三日、チョウセンアサガオを主剤とした麻酔薬「通仙散」を発明し、世界ではじめて麻酔による乳ガン手術に成功した。  西洋ではこれに先立って一七九九年、イギリスのH・デービーが一酸化窒素(笑気ガス)の存在に気がつき、これを適度に空気中にまぜると気分が陽気になることを発見した。だから、その後、パーティなどがひらかれると、その雰囲気を盛りあげるために笑気ガスはしばしば使われることになったのである。ところが、あるパーティで、笑気ガスの吸いすぎでぐったりして眠りこけてしまった人物がいた。叩いてもつねってもいっこうに反応しない。しかし呼吸は正常である。そこで笑気ガスを使えば人間は痛みを感じることなく手術を受けられるだろう、とかんがえたのがアメリカのW・クラークである。かれは一八四二年、このガスを使ってある婦人に麻酔をかけ、無痛で歯を抜いた。さらにおなじ年、C・ロングは合計九回にわたってエーテルを使い、外科手術に成功した。だが、人びとはロングが魔法を使っているにちがいないとかんがえ、エーテル使用を禁止したという。  最初の全身麻酔による手術は一八四六年一〇月一六日、患者の首にできた腫瘍をとるためにW・モートンがマサチューセッツ州立病院でおこなった。日付からみて、華岡におくれることちょうど四一年である。   10月14日 ■鉄道唱歌■「気笛一声新橋を……」という「鉄道唱歌」は一九〇〇(明治三三)年から大流行をした。この時代になると、鉄道は東海道線のみならず山陽、北陸、東北なども開通しており、歌詞はぜんぶで一一七番まである。ぜんぶ歌うと二時間かかる。  この歌詞の作詞家が誰であるかはわからない。ただわかっているのは、その人物から大阪の三木書店が版権を買いとり、それに目をつけた大和田建樹が補作した、ということだ。これに大阪師範の多梅稚《おおのうめわか》、宮内省楽長|上真行《かみまさゆき》らの人びとが力をかし、あの有名なメロディがつくられた。大和田はみずから楽隊をひきつれ、東海道をこの歌を歌いながら大行進。行く先々で歌詞を印刷した小冊子(一冊六銭)は大評判となり、またたくうちに五〇万部以上を売りつくした。  鉄道のありがたさは、この時代にはさまざまなかたちで日本人の生活のなかに投影されるようになっていた。たとえば西瓜が福島県以北に流通しはじめたのは東北線による貨物輸送がおこなわれたからである。きょうは鉄道記念日。 ■最古の戦車■第二次大戦中、北アフリカ戦線でドイツと連合国がわとのあいだで空前の戦車戦がおこなわれ、敗軍の将とはいえ、この作戦を指揮したロンメル将軍(一九四四年一〇月一四日没)の名は戦史上にのこっているが、人類史上最初の戦車もおなじく旧大陸の乾燥地帯に登場した。すなわち、紀元前三〇〇〇年のころ、ウルに牛にひかせた戦車があらわれたのである。それから一〇〇〇年ほどたつと、こんどはエジプトで馬を使った戦車が使用されるようになる。車体は柳の技や牛皮でつくられ、そこに二人の兵士が乗る。一人は車体をひっぱる馬をあやつり、もうひとりは弓矢をもって疾走する馬車から射撃をした。  ところが、やがて乗馬の技術が発明されると、騎兵隊が編成され、こうなると馬車式戦車はスピードの点からも機動性の点からも不利になって、結局は姿を消すことになる。ローマ時代には、馬車式戦車はもはや兵力にはならず、スピードを競うスポーツに変貌していた。近代的戦車の誕生までそのあと十数世紀が空白となったのである。   10月15日 ■魔法ビンの起源■真空理論はイタリアのトリチェリ(一六〇八年一〇月一五日生)によって一六四三年に発見されていたが、その理論を応用して真空ビン、つまり、二層のガラスのあいだを真空にして熱伝導を防ぐビンが最初につくられたのは一八九二年のことであった。製作者はJ・デュワーであり、この魔法ビン第一号はこんにちもなおロンドンの王立科学研究所に保存されている。かれはこのビンを息子に与えるあたたかいミルクを保温するためにつくったらしいが、その効果に疑問をもったデュワー夫人は、魔法ビンの外がわに毛糸で編んだカバーをかぶせた。  一九〇四年、ドイツで生活用具の発明コンクールがあり、このときR・ブルガーは魔法ビンを家庭用に開発し、「テルモス」という名で応募して入選した。まことに結構な新発明だったが、その製造はむずかしく、熱練工が一日がかりでやっと八個をつくる、というのが生産性の限度であった。  日本にはじめてこれが輸入されたのは一九一一(明治四二)年のことであって、保温保冷二四時間保証というのがそのうたい文句。その実用性に着目して国産化をはかった人物は日本電球株式会社の八十亭二郎という人で、第一号が日本に輸入された翌年にすぐさま試作品を完成させている。しかし、この当時の魔法ビンは生産原価が高いうえにこわれやすく、その市場はきわめて小さかった。なお、ブルガーの「テルモス」は商標権としてこんにちなお健在である。 ■最初の精神分析■きょうは「精神衛生の日」。この領域では、いうまでもなく精神分析学という学問が活躍し、人間心理の意識の下に眠っている不安や葛藤を掘りおこして心の病の診断や治療をするが、この心理療法の患者第一号は匿名でアンナ・Oという若い女性である。この患者の治療にあたったのはフロイトの親友であり共同研究者であったJ・ブロイエル博士。その事情はこうである。  一八八○年一二月のある日、ブロイエルのところにウィーンの某富豪の家から呼び出しがかかった。この富豪は肺結核にかかって死の床にあったのだが、かれの二一歳になる娘もはげしくせきこんでおり結核の疑いがつよかった。しかし、よく診察してみると、たんに咳だけでなく、手足に麻痺症状が出たり、眼がどんよりしていたり、はげしい頭痛があったり、という他の症候群をともなっていることがわかった。そのうえ、彼女はひとことも口をきかない。ブロイエルは彼女は典型的なヒステリー患者である、と判断した。  ヒステリーの治療方法としてブロイエルは彼女に催眠術をかけてみることにした。その結果、この女性は父親への看護にエネルギーを使いはたしてしまっていたこと、さらにそれにともなってもろもろの精神障害が起きていることがわかった。これが精神分析のはじまりである。アンナ・O嬢は不幸にして全治することはなかったが、ブロイエルの話をきいたフロイトはそこから本格的にかれの理論を構築しはじめたのである。なお、この症例はその後一七年間にわたって秘密にされていた。   10月16日 ■連続難破の話■一八二九年一〇月一六日、マーメイド号という船がオーストラリアのシドニー港を出航した。行先はおなじオーストラリアの西海岸。船は順調に航海をつづけ、やがてオーストラリアとニューギニアのあいだのトレス海峡にさしかかった。ところがここでマーメイド号は嵐にぶつかってあえなく沈没。  乗組員と船客は近くの岩礁につかまって三日間をすごし、そこでスイフトシュア号という小さな船に救助された。そこまではよいのだが、こんどはその二日後にスイフトシュア号が坐礁。まえに救助されたマーメイド号とスイフトシュア号の乗員あわせて三二名はやっと海岸にたどりついた。さいわいにも、三時間後にガバナー・レディ号という船がこの遭難者たちを発見し、ふたたび救助活動がはじまる。三隻の乗員をあわせると六四名。もうこれでおわりか、とおもったら、三時間後に船火事。全員がまた海を漂流した。そこにコメット号という船が通りかかって全員を救助したのだが、コメット号も嵐にあい、船底を上にひっくりかえってしまった。  いよいよこれで最後、とふたたび全員が海上に浮いていると、郵便船ジュピター号というのがやってきて救助してくれた。奇蹟的にひとりの死者も行方不明者もいない。全員無事である。災難というのはかさなるもので、こんどはこのジュピター号が坐礁。このころになると、都合五回の難破で、遭難者の数は累計一二八人になっていた。トレス海峡にはサメがたくさんいる。だが、ふしぎなことにサメもこない。そこにこんどは、シティ・オブ・リーズ号という船が通りかかって遭難者たちを救出した。かくして五回の海難事故ののち、ひとりの死者もなく船は無事に目的地に着くことができた。世界の海難史上、こんな連続遭難、連続救助の記録はほかにない。 ■指紋応用のはじめ■今日、指紋法の利用は犯罪捜査のうえで不可欠となっているが、日本では、明治四一年一〇月一六日に司法省監獄局が全国の刑務所で受刑者に対して実施したのにはじまる。これは主に累犯者発見を目的にしており、警視庁が指紋法を実施したのは、明治四四年四月一日になってからである。なお、日本で最初に実施された指紋法は、ルクセンブルグ警視総監のロッセル博士の方法に小訂正を加えたものであった。   10月17日 ■窮余の発明、安全ピン■きょうは貯蓄の日。日本人の貯金熱の高さは世界に定評があるけれども、逆に借金で身うごきができない人の数もすくなくない。その借金ゆえに、やむをえず新発明のヒットが放たれた話をひとつ。  ニュー・ヨークにW・ハントなる人物がいた。かれは一五ドルの借金を背負っていて、これを早急に返さなければならない立場に追いこまれた。すこしぐらい返済期限をのばしてもよろしいわけだが、ハントはクエーカーである。期日に返さなければ良心がとがめる。そこで一晩かんがえた。思いつきがどこからきたのかさだかではないが、ふつうのピンは衣料品をとめるとピン先がからだを傷つけたりする。その危険をとりのぞくことのできる「安全」なピンはできないだろうか。即座にかれの頭のなかには、金属の弾性を利用した設計図が思い描かれた。それが「安全ピン」のはじまりである。発想から設計まで、所要時間は三時間ほどだった、という。一八二五年のことだ。この発明のパテントをかれは四〇〇ドルで売り、もちろん借金を返したうえに、かなりの金額を手に入れることができた。  これを契機に、かれはいろいろな発明を手がけた。たとえばライフルの連続発射機構、釘の量産機械、乾式ドック、その他もろもろ。そうした一連の発明のなかに、縫製用ミシンがあった。これは、せいぜい二〇センチほどの長さを縫うことができるだけの簡単なミシンにすぎなかったが、かれはじぶんの娘に、これを製造販売したらどうだろう、とまず相談した。娘は、そんなことをしたら、たくさんのお針子たちが失業してかわいそうじゃないの、と答えた。ハントは、なるほど、とうなずき、ミシンの特許申請を思いとどまった。かれはまことに欲のない発明家だったのである。 ■ショパンの死■一八四九年一〇月一七日、作曲家でありかつピアニストであったF・ショパンが死んだ。かれは肺結核でひどく苦しんでおり、最後の瞬間には口をきくこともできなかった。そこで紙をとりよせ、「地球がわたしを窒息させそうだ、生き埋めにされるのはいやだから、解剖してから葬ってくれ」と書いた。これがショパン最後のことばである。遺言どおり、遺体は解剖され、心臓だけは故国ポーランドに葬られた。  ショパンはこの三週間まえパリに新居をかまえたばかり。そしてかれが息をひきとるとまもなく、ショパンの恋人ジョルジュ・サンドの義理の息子にあたるJ・クレシンガーがデスマスクをとりにきた。F・リストはショパンの死顔をみて、「生前の苦しげな表情が消え、やすらかで若々しい顔つきになった」といった。  ショパンの遺体は、しかしながら、一三日間にわたって花束につつまれたまま安置され、なかなか葬儀がいとなまれなかった。それというのも、ショパンは葬儀にあたってモーツァルトの「鎮魂曲」を演奏するように、と言いのこしていたのだが、当時の教会ではまだ男女差別がのこっており、女声合唱をなかなか許さなかったからである。だが結局のところ教会がわが折れて、女声合唱が許された。なお、ショパンのデスマスクはマンチェスターの王立音楽学校に保存されている。   10月18日 ■犯罪人類学のはじまり■C・ロンブローゾ(一九〇九年一〇月一八日没)はイタリアのヴェロナに生まれ、はじめは軍医を志したがのち精神医学の専門家となり、トリノ大学で世界最初の「犯罪人類学」の講座をひらいた。かれの理論はダーウィンの進化論にもとづいており、犯罪をおかしやすい人間には先天的な身体的特徴があるという仮説を立て、さらに犯罪者の頭蓋骨の大きさを計測してその仮説を実証しようとした。したがって、ロンブローゾ説によると犯罪傾向は先天的に決定されている、ということになる。  この理論は、のちに否定されることになるが、ロンブローゾの研究の成果である『犯罪人論』が端緒となって犯罪人類学、犯罪社会学というあらたな学問分野がひらかれた。 ■さかさまのマチス■一九六一年一〇月一八日から、ニュー・ヨーク近代美術館でアンリ・マチスの「ボート」という抽象画が展示されたが、係員のカンちがいで、この絵は上下さかさまに壁にかけられてしまった。しかしこのまちがいは、誰にも気づかれないまま、四七日間もつづいた。その間に、この絵を見た入場者は一〇万人以上にのぼる。 ■真説「パピヨン」■フランス領ギニアの島々は「悪魔の島」という名で呼ばれていた。それというのも、この島が流刑地であって、フランスの犯罪人は、本国からはるばるとこの島まではこばれてきて、重労働に従事させられたからである。獄舎の状況はきわめて劣悪で、そのうえ暑熱と疫病が島を襲ったから、囚人たちはつぎつぎに死んでいった。たまりかねて島から脱出しようとこころみる人間がいたとしてもふしぎではない。何人もの囚人が脱走の機会をうかがった。  たとえば、R・ベルモントなる人物は、ネックレスをひとつ盗んだという微罪にもかかわらずこの島に送られたが、一九三六年、他の数人の仲間といっしょにボートで逃亡することに成功し、コロンビア海岸までたどりついた。フランス警察はなおも追及の手をゆるめず、コロンビアまで追いかけてきたが、結局、ベルモントはつかまらずにすんだ。  これよりさき、一九二八年にデュドンヌという囚人もここから脱走している。かれは土地のインディアンに金を払い、小さな帆船でついにブラジルまでたどりついた。フランスはブラジルに対して身柄の引きわたしを要求したが、ブラジルの世論はデュドンヌに同情的であって、かれもまた、みごとに逃げおおせることができた。  映画でおなじみの「パピヨン」は、八回にわたる脱走計画を立て、そのたびに失敗したが、九回目に、ココナッツをつめた袋を筏にして海上をさまよい、イギリス領ギニアまで漂流して、そこで小さなレストランを開業した。そこからパピヨンはさらにベネズエラに移住したが、ひょんなことから現地の警察につかまって、また監獄暮らし。しかし、ほどなく軍事クーデターが起きて釈放され、やっと堂々と自由の身になることができた。その記念すべき日は一九四五年一〇月一八日である。   10月19日 ■火事とイノシシ■江戸の町とりわけ吉原あたりには、しばしばイノシシの姿がみられた。多くは放し飼いで、昼間は往来をうろちょろし、それは「むくつけくおそろしくありし」ことであった、とある随筆に記録されている。  なぜイノシシを飼ったか。それは、十二支の亥が北に位置し、水を象徴していたからである。水の象徴であれば、当然の理として、火にたいしてつよい。つまり、イノシシは防火のおまじないとして飼われていたのである。コタツは火事の原因になることが多かったから、そこでも縁起をかついで、コタツの火入れは亥の日をえらんでおこなわれるのがふつうであった。将軍吉宗も、そうした俗信にしたがい、柳原土手下にイノシシを放し飼いにしたようである。  ところが、この努力にもかかわらず一八三七(天保八)年一〇月一九日、吉原に大火があり、ここでもせっかくイノシシを一匹飼っておいたのに吉原の一廓が全焼してしまった。イノシシのほうはじょうずに逃げて、焼ブタならぬ焼イノシシにならずにすんだが、二年後にこのマスコット的イノシシは天寿を全うして死んでしまった。そこでのちのちまでの防火の神さまとして、このイノシシの霊を弔うべく三ノ輪の浄閑寺には「|豕 碑《いのこひぶみ》」なる記念塔が建立された。  防火のまじないとしてイノシシを飼うことはその後もつづき、幕末の嘉永年間にも、たとえば麹町の伊勢八、尾張町の布袋屋、といった豪商はイノシシを飼っていた、という。いずれも呉服屋で、その店頭をイノシシがうろうろしているなどというのはいかにも体裁がわるかったが、火事への恐怖心のほうが体裁に先行していたのであろう。ちなみに、江戸で、イノシシの肉を食べさせる料理屋が繁昌したのは、こんなふうにイノシシが市中をうろついていたからである。こうなると、防火もなにもあったものではない。   10月20日 ■新聞広告の珍種■きょうから新聞週間がはじまる。新聞は広告と切りはなしてかんがえることはできない。歴史をふりかえって最初の新聞広告をしらべてみると、どうやら一六二二年にイギリスの「ウィークリー・ニュース」に歴史家のH・サンプソンが出した広告が第一号であるらしい。サンプソンはじぶんの乗馬が盗まれたので、たずね人ならぬ「たずね馬広告」を出したのである。  だがもっとも風がわりなのは一七八九年にアメリカの新聞に出た自殺予告広告であろう。それを抄訳すると── 「わたくしこと、トマス・タッチウッドは今月末日にピストル自殺を決行することにいたしました。わたくしの生命は、わたくしじしんにとっても友人たちにとっても、もはや何の意味をももっておりません。したがって死ぬことにしたのです。この機会をみなさまに見とどけていただくため、わたくしは二挺のピストルを用意いたしました。一挺のピストルでわたくしはまず腹部を貫通させ、二挺めで頭を打ち抜きます。この�興行�は当日午後九時ちょうどでありますが、八時から開場いたします。ご婦人のために特別席も用意してございます」 ■電信を知った日本人■日本人で最初に電信という新発明を知ったのはジョン万次郎である。かれは一四歳のとき漂流しているところをアメリカ船に救助され、一一年間をアメリカですごしたのだが、その滞在中に電信を見聞し、日本に帰国するとさっそくこれをつぎのように報告した。 「路頭に高く張金を引き有之、是に書状を掛け、駅より駅へおのずから達し、飛脚を労し申さざるようにいたし、もっとも途中にて行逢わぬように往来の差別を仕り候。その仕掛、くわしく心得申さず候えども、鉄にて磁石を吸い候ようにも相考え申し候」  またおなじく初期の漂流民であったジョセフ・ヒコもアメリカでおなじような経験をして、こう書いている。 「その仕かけをみれば、空中の�エレキ�を銅線に伝うれば、その意を通じて先に文をなし、往来一瞬間にして事便ずるなり。その仕かけを見しに、丸太を建て、その先に硝子の玉をつけ、その玉をつらぬきて銅線を通し、諸方に分かちて通わせありたり」  ペリー提督が浦賀にくる以前に、ちゃんとこのふたりの日本人は電信を知っていたのだ。きょうから電信電話週間。   10月21日 ■豚カツとカツ丼■一八八二(明治一五)年のきょう、東京専門学校、つまりこんにちの早稲田大学の前身となる学校が開校したが、早稲田のあたりは何年たっても周辺は閑散としており、学生の利用できる飲食店の数もきわめてすくなかった。そのうちの一軒「カフェーハウス」の常連に文学部学生中西敬二郎がいた。毎日かわりばえしないメニューで、中西はカレーライスとカツレツ定食を交互に食べていたが、ある日、店主に乞うて丼飯をもらい、そのうえにカツを切ってのせ、さらに自家製ソースをかけてみたところ、なかなかの珍味である。店主、これをみて、この新発明品をメニューにくわえて「カツ丼」と称した。一九一二(大正一〇)年二月のことである。丼ものは幕末からそばを中心にできあがっていたから、「カツ丼」はその延長線上にあるといってよい。  蛇足ながら、トンカツとは、豚のカツレツの略であって、この略称を考案したのは一九二九年ごろ、もと宮内省の大膳職をつとめていた島田信二郎である。かれは宮内省を退いてから上野で「ぽんち軒」なる西洋料理店をひらき、くふうの末厚い豚肉を揚げることに成功し、これをひらがなで「とんかつ」と書いて宣伝した。たまたま講釈師の円右がこの新料理をこよなく愛し、寄席の話のなかでしばしばトンカツと口走ったので有名になり、ついにトンカツは日本調理史のなかに定着したのであった。ちなみにカツにキャベツの千切りをそえるのは、銀座「煉瓦亭」の発明である。 ■吉宗の望遠鏡■望遠鏡が日本にはじめてやってきたのは一六一三(慶長一八)年のことであった。イギリス船「クローブ」号の船長J・セーリスが、W・アダムスの仲介で家康に面会し、そのときに望遠鏡を献上したのである。このころには望遠鏡ということばはなく、「遠目鏡」と呼ばれた。「長さ一間(約一・八メートル)ほど」と記録されている。かなり大型だ。  徳川家では八代将軍吉宗(一六八四〈貞享元〉年一〇月二一月生)が天文学に深い関心をしめし、一七一八(享保三)年、測午儀を設置し、また長崎の鏡職人に命じて大望遠鏡をつくらせた。これが国産望遠鏡第一号である。ちなみに、ガリレオがはじめて望遠鏡をつくったのは一六〇八年だったから、このあたらしい光学機械はわずか五年の落差で日本にもたらされたことになる。 ■手袋の歴史■手袋は古くはエジプトやギリシャに存在していたが、羊だの鹿だのといった材料で防寒用。おしゃれ用の手袋が西洋で流行しはじめたのは一六世紀ごろから。  日本では農村での作業用に藁でつくった「手藁」などというものがあり、さらに手首と甲をおおう「手甲」があった。これも労働用だが、行商や旅行にも用いられていた。だが、南蛮文化時代に、西洋ふうの手袋が輸入され、これは「手覆《ておおい》」と呼ばれ、さらにメリヤス編みの技術が伝来すると国産手袋もできるようになった。とりわけ砲術がさかんになると、火薬や弾丸を扱う武士たちにとって必需品となった。この手袋づくりはもっぱら下級武士の手内職であり、それを商店が買いあげるというシステムであった。この手内職の伝統はその後もつづき、「軍手編み」はこんにちまで内職の典型になっている。  ところでおしゃれ用の手袋は、もはや労働とも防寒とも関係がなくなり、たとえば一九世紀の人気女優サラ・ベルナール(一八四四年一〇月二一日生)などは、絹のすかし編みの長手袋をはめて人気を博した。この種のおしゃれ手袋は日本では一九〇六(明治三九)年ごろに輸入され上流婦人のあいだで流行した。   10月22日 ■ゼロックスができるまで■文書のコピーをつくるためのくふうは、ビジネス社会が複雑化するにつれて切実な要求となってきた。そこで、まずかんがえられたのが、写真の原理の応用である。これは特殊な用紙に化学的変化をあたえてやるやりかたで、しばしば液体を使用しなければならず、そのため、コピーは湿気を帯びたりもしたし、また、いわゆる青焼きというやつで、コピーの色調もじゅうぶん満足のゆくものとはいえなかった。  それを解決するための画期的な発明はニュー・ヨークの特許事務所ではたらいていたC・F・カールソンの手によっておこなわれた。かれの方法は、静電気複写法(ゼログラフィ)と呼ばれるもので、原図の反射光を用紙にあて、そこに静電荷をあたえ、その部分にだけ帯電粉末が附着するようにする、というのがその原理だ。  カールソンは、ウォルドルフ・アストリアホテルの一室を借り切って研究をすすめた。さまざまな化学薬品を使うため、おなじホテルの住人からの苦情も殺到したけれども、一九三八年一〇月二二日、ついに実験は成功した。この第一号機を、かれはその日付を記念して "10-22-38 Astoria"と名づけ、特許を得た。この特許権をハロイド・カンパニーという会社が買いとって、「ゼロックス」と名づけ商品化したのが一九四八年一〇月二二日である。  この機械は五〇年代にはいっておどろくべき急成長をとげ、あっというまに世界市場を席捲した。日本でも、いたるところの官庁や会社にこの複写機は入りこんで、いまや「ゼロックス」が、複写機の代名詞のようになってしまっていることは周知の事実である。   10月23日 ■警官誕生■一八七一年(明治四)年一〇月二三日、東京府は邏卒《らそつ》三〇〇〇名を置くことにした。これが日本での警官のはじまりである。これよりさき大政奉還後のどさくさで、幕府の司法体系は崩れ、江戸に入ってきた官軍の藩兵たちが治安維持にあたったが、いっこうに統制がとれない。そこで誕生したのが「邏卒」である。耳なれないことばだが、要するに市中を「巡邏」するということ。その「巡邏査察」活動が略されて、のちに「巡査」ということばが登場した。ついでながら、「警察」というのは「警備査察」の略である。  さてこのようにしてあつめられた三〇〇〇人の内訳をみると、まず西郷隆盛と川路利良がそれぞれ一〇〇〇人ずつを鹿児島で募集した。川路はのちにヨーロッパ警察制度を見聞して司法の専門家になったが、西郷としたしい薩摩人。したがって、のこり一〇〇〇名が他府県から採用されたとはいうものの、東京の治安はほとんど全面的に薩摩の手に委ねられたといってよい。だいたい、「オイコラ」と呼びとめることばも鹿児島弁。鹿児島では「これ、ちょっと」といったような響きなのだが、江戸文化のなかではえらく尊大にきこえた。  三〇〇〇人の邏卒は東京府下の六大区にわけられ、さらにその大区はそれぞれ一六小区に分割されて小区ごとに屯所を置いた。屯所に駐在するのは三〇人ていどで、ここを末端基地として「巡邏査察」にあたる、というわけ。その屯所がのちに「交番」に進化してゆく。  邏卒の勤務規律はきわめてきびしく、全員が屯所に合宿。家族があっても外泊禁止。そのうえ勤務外のばあいにも制服を着用しなければならなかった。酒を飲むことがゆるされるのは正月や節供など年に五回だけ。そのきびしさのゆえに、邏卒は市民からあつい信頼をうけることができた。そのうえ邏卒が携帯をゆるされた武器は木製の三尺棒一本だけ。江戸の与力同心の時代から、武士が刀を帯びて巡察するのが日本の司法の伝統だったから、警棒一本というのは大革命であった。  さきにもみたように邏卒の名はやがて消えて、警視、警部、巡査、といった組織が明治七年にできあがる。また江戸の町では各町内が自警機関として「自身番」を持っていたから、これを司法行政に組みこんで「番人」制度をも置いた。「番人」は各町の費用によってまかなわれ、それを巡査が監督する、というわけ。  ただ、その責務の重いわりに警官の生活はけっして楽ではなかった。当時の官吏の月給をみると、大臣の五〇〇円はともかく、最低の一七等判任官でも一二円。それにたいして一等巡査が七円、四等巡査になるとわずか四円であった。警察官が判任官待遇となって身分が安定したのは明治二四年だが、それでもその収入は日雇人足のそれとほぼおなじだった。   10月24日 ■「モノポリー」の精神分析■一九二九年一〇月二四日、ニュー・ヨークの株式市場は大暴落した。世界大恐慌のはじまりである。失業者が街にあふれた。そういう失業者のひとりに、チャールス・バロウなるセールスマンがいた。かれが売っていたのは家庭用の石炭ストーブ。ところが、不景気のうえに、新型の灯油ストーブがあらわれたので、商売は完全にお手上げである。することもなく、頭をかかえているうち、白昼夢をたのしむようになった。ニュージャージー州のアトランティック・シティ──そこには厖大な資金が投下され、不動産、銀行、鉄道株などが大きくうごいていた。もし俺が大金融資本家だったら、こうしたい、という夢を無一文のバロウはゲームに託した。金がなくても、ゲームの上では大資本家の気持にひたることができた。それがかれの考案になる「モノポリー」である。この幻想ゲームは大ヒット商品になり、こんにちまで、全世界で七〇〇〇万セットを売った。バロウは、そのパテント料でペンシルヴァニアに広大な農場を買って悠々自適。株式投資をしたり、世界旅行に出かけたり、「モノポリー」を地でゆく人生設計に成功したのである。 ■ミネルバ共和国の盛衰■きょうは「国連の日」だが、まったくの無人島でありながら独立の共和国を主張しているふしぎな国がひとつある。それは一般にトンガ群島と呼ばれている南太平洋の群島のはずれにある長さおよそ三〇キロの環礁だ。波のぐあいによってはその全部が水面下に没してしまうこともあるけれども、ちゃんと「領土」はあり、一九七二年に独立共和国宣言も発表されている。「国民」はM・デヴィス大統領を首長とする数十人のアメリカ人。かれらは、アメリカに住んでいる。大統領の住居もカリフォルニアにある。  そもそものいきさつからいうと、デヴィスはこの小さな島をコンクリートでかため、「海の都」なるリゾートを建設しようとしたのだが、着想が奇抜すぎることと資金難から行きづまった。そこで、この無人島を「国家」にしよう、と決心する。財政収人は船籍登録料だ。パナマやギリシャが安い登録料によって世界各国の船の船籍地になっているのはご存じのとおり。そこで「ミネルバ共和国」はそれらの国よりも安く船舶の本籍地として名義を貸そう、というわけ。デヴィスはヨットでこの環礁にゆき、小さな燈台をともすことで「国家」を宣言する。これを怒ったのはトンガ国王タウファハウ・トュポーである。トンガ防衛軍百名がいそいで「ミネルバ共和国」におもむき、燈台を破壊した。一九八〇年現在、いまだに、「ミネルバ共和国」とトンガ王国の主権をめぐる争いはおわっていない。  ミニ国家としては、他に、イングランドとウェールズの境にあるヘイ王国がある。この人ロ一五〇〇の「国家」は、一九七七年に王国として独立を宣言し、古本屋の主人R・ブースがこの王国のリチャード一世として即位した。財政収入は、共和国の紋章を染めたTシャツを売ること、ならびに爵位を売ることである。誰でも二五ポンドを払えば公爵に、五ポンド払えば男爵になれる。   10月25日 ■ゴンドワナ大陸の謎■R・バード少将(一八八八年一〇月二五日生)は一九二六年、飛行機で北極上空に達し、空路北極点をきわめ、その二年後、こんどは大がかりな探検隊を編成して南極探検にむかい、航空写真、地磁気測定、天象観測などさまざまな科学研究の分野でめざましい成果をあげた。  ところが、この南極大陸というのはしらべればしらべるほど複雑でおもしろい問題をふくんでいるということがわかってきた。南極研究の結果浮びあがってきた「ゴンドワナ大陸説」はそのひとつだ。この学説はひとことでいえば古生代以前の段階で南極大陸、オーストラリア、南アメリカ、アフリカ、インドがひとつのかたまった巨大大陸であったのではないか、という仮説である。その仮説を裏付けるのは、グロソプテリスというシダと種子植物との中間的な植物。この植物は化石として発見されているのだが、その発見された地域は右の五つの大陸、亜大陸、およびその一部にかぎられており、北半球にはいっこうに見あたらない。しかも、これらの地域には共通してティライトという氷河堆積物があり、その基盤にはかならず氷河の流れたあとが見つかっているのだ。ゴンドワナ大陸説は、ひとつの大陸移動説であり、この説によると、こんにちのインドは南極大陸から離れて北上した、ということになる。じっさい、インド半島が北にむかって移動する力はこんにちもはたらいており、ヒマラヤ山脈はその圧力によってできあがった地表上のシワである、ともいう。なお「ゴンドワナ大陸」という名称はインドのゴンドワナという寒村の付近で大量のグロソプテリス化石が見つかったことからきている。 ■ナイフの伝来■日本に鉄製の小刀が伝来したのは古墳時代後期であろうといわれるが、古代社会ではこういう小型のナイフのことを刀子《とうす》と呼んだ。正倉院の宝物のなかには合計六二個の刀子がある。だが文献にみえる刀子はずっと時代があとになってからのことで、その初出は『日本紀略』の八一五(弘仁六)年一〇月二五日の項に「蘇芳色象牙刀子」という記述があるのがはじめてだ。   10月26日 ■広告史をふりかえる■きょうは「新聞広告の日」だが、広告というのは人類文明史とともにふるい。古代ギリシャでは、奴隷や牛を売るときには、売手がその「品目」を大声で叫びながら町じゅうを走り廻った。テーベには失踪した奴隷をさがし求める広告文書ものこっている。いわく、「……この奴隷を発見し、つかまえた人は織物屋のハプの店まで連れてきてください。お礼に最上等の服をつくってさしあげます」。よほど腕のいい奴隷だったのであろう。ローマでは各種の競技の広告が街角に立てられていた。  中世には商店の呼びこみもさかんになったし、ビラも配られるようになった。ただし、識字率が低かったからビラは文字よりも絵を印刷したものが多かった。近代新聞広告のはじまりについては別項(一〇月二〇日)で紹介したが、特定の商品広告が新聞にあらわれた第一号は一六六一年、「ロバート・ターナー印歯磨」である。つづいて一六六五年、ペストが流行すると、その予防薬の広告がどっと出た。いわく、「ペスト対策絶妙剤」「真正対ペスト水」「絶対保証空気清浄剤」──化粧品と薬品はどうやらむかしから広告主のトップであったとみえる。  一七〇〇年代のロンドンは広告大氾濫の時代であった。街じゅういたるところにポスターが貼りつけられ、垂幕がたなびいた。チャールズ二世は勅令を発し、「空気を遮断し、天のめぐみたる日光をさえぎるような広告を出してはならぬ」といった。  アメリカの新聞広告の元祖はなんといってもB・フランクリンである。かれはみずから発行した新聞「ペンシルヴァニア・ガゼット」紙にさかんに広告をとった。石けん、書籍、文房具……そしてついにはフランクリンじしんの発明した新型ストーブの広告も出した。いわく、「古い型のストーブを使っていたら眼も歯も悪くなります。肌も荒れます。フランクリン型ストーブはその点ご安心ねがえます」。要する脅迫型広告文案の元祖である。この新聞はやがて当時のアメリカ最大の発行部数を誇るようになった。  アメリカ独立戦争の立役者P・リベアも一七六八年に「ボストン・ガゼット」紙にかれの考案になる義歯の広告を出している。アメリカ人は建国当時から広告が大好きだったのだ。   10月27日 ■松陰の健康法■座業が多いために知識人が運動不足になりがちだ、ということを最初に論じたのは吉田松陰(一八五九〈安政六〉年一〇月二七日没)であった。かれは、江戸への留学中にそのことに気づき、あちこちの学塾に通うことが「運動」になる、と、叔父でありかつ師である玉木文之進に手紙を出している。「運動」ということばはこの意味ではじめて日本で使ったのは、どうやら松陰であったらしい。かれが通った学塾は、いずれも一里(四キロ)ほどの道のりであったから、現在の基準をもってしても、たしかに、いい「運動」であったにちがいない。  また、松陰は同時に禁酒論者であり、かつ禁煙主義者であった。かれは「ワレ煙《えん》ヲモットモ憎ム」といい、禁煙論をとなえた。たしかに、それは健康法として模範的であったろうけれども、かれがあまりにも禁欲主義的であったことが、仲間の志士たちにはあまり好まれなかった。だいたい、英雄豪傑というのはあまりこまかいことに神経を使わないのがその理想とされていたわけだから、かれの仲間たちは、松陰のごときは、いくら出世しても三〇〇〇石というのがいいところで、けっして国持ち大名などになれるはずがない、と噂しあった、という。だが、いずれにせよ、松陰は近代日本における健康主義者の第一号であった。 ■優雅な移動図書館■一〇世紀のペルシャの首相アブール・カシム・イスマイルはたいへんな読書家であって、かたときも書物を手ばなさず、一二万冊の蔵書を持っていた。かれは旅行にさいしても本を忘れなかった。旅行ということになると四〇〇頭のラクダの背に書物がアルファベット順に積みこまれ、首相の命令のままにどんな書物でもすぐにラクダ図書館が調達した。ともかく、きょうから読書週間がはじまる。   10月28日 ■キケロの速記■ひとの話をそのまま文字になおすこと、つまり、速記の必要性は人類史が文明時代にはいるとともに痛感されるようになった。古くは、紀元前四世紀ごろ、アテネでその努力がおこなわれたようであって、速記のあととおぼしき大理石板がアクロポリスで発見されている。だが、速記の体系化に本気でとりくんだのは、ローマのマルクス・トゥリウス・ティロであって、かれは元老院でかれの友人であるキケロの演説などを速記にとった。この方法は、歴代のローマ皇帝によっても採用された。近代速記術の始祖は、なんといっても、アイザック・ピットマンであろう。これは使われることばの頻度を考慮にいれながら直線と曲線で速記をとる方法で、イギリスではこんにちでもピットマン式が主流である。アメリカでは、ジョン・グレッグの開発した方式が一般に用いられているが、西洋でのこれまでの速記のスピード最高記録は一分間に三〇〇語であった。日本で速記術をはじめたのは田鎖綱紀《たくさりこうき》であって、はじめは「疾書術」と呼ばれた。田鎖が日本式の速記符号を完成させ、速記教室を開講したのは一八八二(明治一五)年一〇月二八日である。田鎖はその功績によって一八九四(明治二七)年に藍綬褒章と終身年金三〇〇円をあたえられた。学術発明によって藍綬褒章をうけたのは、日本近代史上、田鎖がその第一号である。 ■チョコレートの歴史■きょうはメキシコの独立記念日。よく知られているように、メキシコは古くから高度の文明を形成してきた国だが、ここでは数千年まえのマヤ、アズテック、トルテックですでにカカオの栽培がこなわれていた。メキシコ神話によると、カカオという植物はケッツァルコトルという天空の神が地上にもたらしたもの、とされている。このカカオの実を加工して得られるココア・バターとカカオをまぜあわせ、これに砂糖その他の香味料を加えるとチョコレートができあがる。  メキシコを征服したF・コルテスは、アズテックの宮廷で「チョコアトル」という苦味のつよい飲料が用いられていることを知った。おそらくこの名称は前記の天空の神の名からきていたのであろう。コルテスは、この飲料がおどろくべき強精剤であることを知り、これをスペインに持ち帰った。そしてスペインの貴族たちはこれを一種の秘薬として独占し、ヨーロッパの他の国ぐにに伝わらぬよう、ひたすらに秘密を守りつづけた。だが、それにもかかわらず、この秘密はやがてイギリス人の知るところとなり、一六五〇年にはロンドンに最初のチョコレート・ハウスができた。バルザック、カサノヴァなどもチョコレートを愛用した。この当時のチョコレートは飲料用であり、高貴薬並みの値段であった。  こんにちのような固型チョコレートの工場生産がはじまったのは一八一九年、スイスにおいてであったが、これを高価な食品でなく大衆的な菓子に転換させたのは、アメリカのM・ハーシーであった。キャンデー製造を営んでいたハーシーは、ミルク・チョコレートを開発し、一九〇四年から大量生産にのり出した。ペンシルヴァニア州にあるハーシーのチョコレート工場は、九〇〇〇万ポンドという途方もない量のカカオの実を貯蔵するだけの倉庫設備をもっている。   10月29日 ■ハリー彗星物語■物理学者ニュートンの友人の天文学者、E・ハリー(一六五六年一〇月二九日生)は、ニュートンの万有引力の法則を宇宙的規模に拡大し、彗星もまた惑星とおなじように太陽の引力によって公転軌道を通過するのではないか、という仮説を立て、古い歴史文書をしらべるとともに、一六〇七年にケプラーの観測した彗星、そして一六八二年にハリーじしんの観測した彗星が同一のものであることをたしかめた。この彗星は、中国では紀元前五世紀、周時代の文献に出ているのがもっとも古く、それ以後、ほぼ七六年おきに出現している。一〇六六年にあらわれたときには、イギリス人は、これをノルマン人の攻撃の前兆として不吉なものに感じ、大恐慌をきたした。  ハリーは一七四二年に死んだが、みずからの計算にもとづき、つぎのこの彗星が地球に接近するのは一七五七年から五八年のあいだであろう、と予測していた。この予測値にしたがってドイツの天文学者パリッチはひたすら彗星の出現を待ちうけ、一七五八年のクリスマスの晩に、みごとにこれを観測してハリーの仮説の正しさを立証するとともに、この彗星を「ハリー彗星」と名づけた。一九一〇年の彗星接近のときには、なまじ中途半端な天文知識が普及していて、しかも新聞がそれを書きたてるものだから、地球が彗星にぶつかって破滅するにちがいない、といったうわさが世界じゅうにひろまった。ハリー彗星の正確な周期は七六・〇二年。 ■ゼノフォビア■ギリシャ語の「ゼノス」つまり「外国人」と「フォビア」すなわち「恐怖症」とをつなぎあわせた「ゼノフォビア」ということばがある。「外人恐怖症」である。恐怖はそのまま偏見につながるが、アングロ・サクソン民族にとって本格的に恐ろしかった民族のひとつはトルコ人であった。英語で "a regular Turk" "a young Turk" というのは、ともに「手のつけようもない乱暴者」を意味し、また "as hard as Turk" というときには「無情な、強い」ということだ。その強いトルコが伝統的サルタン制を廃し、ケマル・アタテュルクを大統領として共和制に大転換をとげたのは一九二三年一〇月二九日。   10月30日 ■宇宙戦争はじまる■一九三八年一〇月三〇日、H・G・ウェルズの原作『宇宙戦争』を、同名の俳優オーソン・ウェルズが主役となってアメリカのCBCラジオ放送が放送劇を開始した。  番組表では午後八時、『宇宙戦争』ということになっているが、八時になると天気予報やら音楽やらが流れ出す。そこに「臨時ニュース」がわりこんできて、火星の表面に異常爆発が起きた、といい、さらにつづいて、巨大な宇宙船がニュージャージー州に落ち、なかから火星人が出てきて宇宙銃を撃ちはじめた、と興奮したアナウンサーの声がつづく。そのあい間には音楽放送。そして事態はだんだんと緊迫してゆく。これは、新技法を導入した放送劇であり、CBCは放送中にいくたびもその旨を聴取者に訴えつづけていたのだが、それにもかかわらず、アメリカ全土は恐慌状態におちいった。火星人がやってくる、というのでニュー・ヨークでは避難者の列が郊外にむかい、カリフォルニアでは義勇軍が編成された。火星人に殺されるならいっそわが手で、と自殺する人まで出てしまった。  この事件は放送という新媒体のもつおどろくべき影響力をしめした古典的な実例であり、プリンストン大学の社会心理学者H・キャントリルは、その一部始終を『火星人の襲来』という本にまとめた。これは同時に、その後につづく一連の「宇宙戦争」を主題にした大衆娯楽のはじまりでもあった。 ■爆弾小包のはじまり■ジョナサン・スイフト(一六六七年一〇月三〇日生)は『ガリバー旅行記』その他の作品によってよく知られているが、かれは同時に、爆弾小包を発見し、未然に惨事を防いだ探偵でもあった。  一七〇〇年代のはじめ、ロンドンの暗黒街のならず者の一味は、偽名で豪華な小包をイギリスの大蔵大臣に送った。包をひらいてみると、なかにはバンドボックスが入っている。バンドボックスというのは当時の紳士たちが服やシャツ、さらに帽子まで入れるために用いた衣装箱のこと。この贈り物によろこんだ蔵相は、そのバンドボックスを開けようとしたが、たまたまそこに居合わせたスイフトが蔵相の手をおさえ、開けずに検査すべきだ、といった。そこで係官が慎重にこの箱をしらべてみると、箱のなかには三個のピストルが置かれており、箱のフタを開けるとひきがねが引かれる仕掛けになっていた。もしも蔵相が不注意にこの箱を開けていたら、当然三発の銃弾がとび出し、その犠牲になっていたにちがいない。スイフトは、その直観的推理によって蔵相暗殺計画をふせいだのである。  犯人は逮捕されなかったが、この計画はイギリス犯罪史上もっとも大胆不敵なものとして記録されている。そして、これは史上はじめての爆弾小包であった。   10月31日 ■「脱出芸術」はじまる■エーリッヒ・ヴェス、といっても、この本名で知っている人はすくないが、フーディニ(一九二六年一〇月三一日没)という名前は空前絶後の奇術師として歴史に名をとどめている。ハンガリー出身の貧しいユダヤ人牧師の家に生まれたフーディニは、家族とともにアメリカに移住したが、一〇歳のころから学校にもゆけず、カバン屋の店員としてはたらいていた。生来好奇心のつよい少年だったから、かれはまずカバンについている錠に興味をもち、その仕組みを研究してどんな錠でもあけることができるようになった。また、弟を相手に、からだじゅうに繩を巻きつけ、緊縛された状態から抜け出す方法も完全にマスターした。それが契機になってフーディニは奇術師としての生涯を送ることになる。  かれの名声を決定的にしたのはロンドンのスコットランド・ヤードヘの挑戦であった。一八九九年、フーディニは世界一のロンドン警察に出かけ、もっとも精巧な手錠をかけてくれ、と申し出る。主任のメルヴィル警部は笑い出し、スコットランド・ヤードの手錠はかけられたが最後、どんなことをしてもはずれないよ、というが、フーディニは必ずはずしてみせると断言する。メルヴィル警部は腹を立て、パチンと手錠をかけたが、数秒のうちにフーディニはその手錠を抜いてしまった。  これが評判になってフーディニは「手錠抜きの名人」として舞台に立つことになる。ロンドンの興行師がかれと契約し、イギリス国中を巡業して、行く先々で手錠はもちろんのこと、あらゆる錠をあけ、人びとをおどろかせた。金庫業者、錠前師などがつぎつぎにくふうを凝らして複雑なメカニズムをつくるのだが、フーディニはそれをひとつのこらずあけてしまう。かれの名はあっというまにヨーロッパ全土に知れわたった。  アメリカに帰ってくるとフーディニはまさしく「時の人」である。かれのまえにはたてつづけに難問が出された。アメリカでもっとも厳重な警備を誇るワシントン刑務所から、その独房から脱出できるか、という挑戦的な招待状がとどけられた。フーディニは数分のあいだに手錠を抜き、二重、三重の鉄扉のカギをあけて出てきた。  かれはみずからを「脱出芸術家」と名のり、最後には手錠をかけ、ズダ袋に入り、さらに大型トランクにそのまま入って錠をかけ、それをさらに繩でしばって水中にほうりこませるという、常人にはとうてい想像もできない状況のなかにわが身を置き、しかもそこからちゃんと脱出している。その「脱出芸術」のトリックをかれは誰にも教えずに世を去ったが、その後の二〇世紀の奇術はフーディニによってはじめられたといってよい。世界じゅうの警察は口をそろえて、フーディニが犯罪者でなかったことを幸福におもう、という声明を発した。 [#改ページ]   十 一 月   11月1日 ■燈台のはじまり■夜間に船に陸地の所在をあきらかにするため、小高い丘の上などで火を焚くことは古くからおこなわれていたが、燈台としてもっとも古いものは紀元前二八○年、アレキサンドリア港にちかいファルス島につくられたものだ。この燈台の高さは一八○メートル。石積みの巨大な建造物で、その頂点で薪と樹脂をまぜて灯をともしつづけた。東京タワーのエレ・ベーターの終点の展望台の高さが一二五メートルだから、ファルスの燈台の大きさは驚異的というべきであろう。  日本では天智天皇のころ壱岐、対馬、九州北海岸などで外敵侵入にそなえて、緊急信号としてのろしをあげることが定められたが、それはふつうにいう意味での燈台とはだいぶ性質や機能のことなったものであった。日本の近代的燈台の第一号は一六六九(明治二)年一一月一日に点灯された観音崎燈台である。 ■国宝第一号■ある国籍をもった人が他の文化のなかに移住同化し、国籍をかえることを「帰化」というが、このことばは「欽化内帰」の略である。日本でこのことばが使われるようになったのは大宝令以後、つまり国家形成の時期以後のことであって、『古事記』や『日本書紀』では「渡来」というような表現が用いられ、弥生時代からあとの日本では、こうした「渡来者」が数多く朝鮮半島や中国からやってきて新技術をもたらした。その当時の土着日本人は、これら「渡来者」を歓迎し、けっして「外国人」として差別したり、社会的障壁をつくったりすることはなかった。 「渡来者」グループのなかでもっとも有力だったもののひとつが秦《はた》氏である。秦というのはアテ字で、そのことばの語源は新羅語のハタ、つまり「海」ということだ。秦氏とは、「海を渡ってきた人」という意味になる。秦氏は、こんにちの京都西郊を開発し、すぐれた養蚕技術によって古代日本文化の形成に寄与した。こんにち、京都市右京区に太秦《うずまさ》、蚕《かいこ》の社《やしろ》などの地名がのこっているのはその事実を物語るが、律令国家時代になると秦氏の有力首長であった秦造河勝が聖徳太子の勧請にこたえて「峰岡寺」をつくった。六〇三(推古一一)年一一月一日のことである。この峰岡寺は、のちに全面改築されてこんにちの広隆寺になっている。国宝第一号に指定された有名な「弥勒菩薩半跏思惟像」はいうまでもなく広隆寺にあるが、その様式は新羅様式だ。   11月2日 ■投書の起源■社会の指導者から民衆への通達や命令はとどきやすいが、その逆のコミュニケーションはむずかしい。とりわけ身分秩序のきびしい封建社会では、そうしたルートはめったにひらかれることがなかった。しかし徳川吉宗は市井《しせい》の声をきくことにつとめ、請願、陳情はもとよりのこと提案までも自由にうけつけることにした。「目安箱」の設置がそれである。民衆はそれぞれに思うところを書状にしたため「目安箱」に投函する。吉宗は月に三回、みずからこの箱をあけてそれらの書状を読み、下情を知るというわけ。要するに、江戸の市民は「投書」という手段をあたえられたのである。  ところで、ここに山下幸内という浪人がいた。かれは吉宗の財政政策を正面から痛烈に批判した。吉宗はいうまでもなく紀州藩主から将軍職についた人物であって、将軍になっても、まだ藩主的発想から脱けきることができていなかった。幸内はその事実を鋭く指摘して、将軍たるものはよりひろい視野から天下をみるべきである、と論断した。まかりまちがえば呼び出されて処罰されることもありえたし、幸内もそれは覚悟のうえ。しかし吉宗は幸内の勇気と、その意見の正しさに感服し、一七二一(享保六)年一一月二日、幸内を呼んで賞めたたえた。とはいうものの、吉宗は幸内の建言を採用はしなかったらしい。 ■コッホヘの挑戦■R・コッホはゲッティンゲン大学で医学をおさめたのち、顕微鏡による病理学研究に専念し、さまざまな伝染病は細菌によって伝染することを力説し、一八八二年に結核菌を発見。のち、ツベルクリンを発明し、細菌学の権威として一九〇五年にはノーベル賞を受賞した。  結核菌につづいてコッホが分離に成功した細菌はコレラ菌である。かれは一八八三年にエジプトでコレラが流行したとき、その病源菌をつきとめたのだ。ところが、ここにぺッテンコーファーという医学者がいた。かれは、コッホの細菌学説をこころよく思わず、細菌による感染などありえない、と断言し、一八九三年一一月二日にコレラ菌を飲んだ。案の定、ペッテンコーファーはコレラにかかったが命はとりとめた。医学者として、まことに無謀かつ不名誉なことであった。かれはそうしたことも手つだって翌九四年にミュンヘン大学教授の職を辞し、さらに七年後の一九〇一年にピストル自殺をとげている。享年六三歳。  なお、細菌を飲んだ人物としては太宰治がいる。かれは結核療養所の下水道を飲んで結核に感染しようとしたが、すでに体内に抗体があったためか、ついに結核になれなかった。 ■瓦葺きのはじまり■一六〇一(慶長六)年一一月二日、江戸に大火が発生し、江戸の街並みはことごとく灰になってしまった。その延焼スピードがすさまじかったのは、ひとえに民家の屋根が草葺きだったからだ。この火事が契機になって、江戸では瓦を屋根材料として使うことが奨励されるようになった。瓦には水をかたどった巴の模様がつけられるのがふつうだが、これは火に対して水がつよいという象徴的な意味である。   11月3日 ■日本海軍の原像■山岳地帯をその活動の拠点としてきた武田信玄(一五二一年一一月三日生)は、やがて駿河国を手にいれてから水軍の充実に関心をむけはじめた。有名な騎馬軍団と水軍とがあれば全国制覇も夢ではあるまいおそらく──信玄の胸中にはそのような思いが去来したのであろう。かれは、造船家や航海家の養成につとめ、さまざまなくふうを凝らした軍船を設計した。  信玄の軍略は、しかしながら、実をむすぶことがなかった。というのは、周知のように、武田は結局のところ、織田信長との戦いで敗北したからである。そして、信長は、信玄の養成した水軍の技術的伝統をそのままうけついだ。しかも、それにくわえて、信長のばあいは、伊勢の水軍をもその勢力下にいれたから、その海軍力はきわめてつよいものとなった。だが信長の海軍は、毛利の村上水軍と戦ったときに火矢を撃ちこまれて大敗を喫した。その経験にこりて、一五七八(天正六)年信長は九鬼嘉隆に命じて新式の大型軍艦を設計させた。この軍艦の最大の特徴は、そとがわに鉄板を張ったことである。これによって、矢はもとよりのこと鉄砲の銃弾にたいしても完全な装甲ができたことになる。さらに、この九鬼水軍の軍艦は大砲三門を搭載していたから、攻撃力にもすぐれていた。このころ、ちょうどポルトガルの宣教師が堺にきていて、この軍艦を見てびっくりした記録がのこっている。なにしろ、鉄板装甲の軍艦などというものは、当時の西洋人にとっては想像を絶したものであったからだ。ちなみに、西洋で鉄板装甲の軍艦ができたのは、一八五五年、クリミア戦争のときであった。この点では、日本は西洋におよそ三世紀さきがけていたことになるわけだ。 ■支倉常長の冒険■伊達政宗がなぜキリスト教に興味をもったのか、その理由はきわめて簡単である。つまり江戸屋敷で伊達家の侍女のひとりが病気にかかり、それを宣教師L・ソテロが西洋医学によって全治させたからだ。だがそれだけではない。東北の雄藩の主として、独自に西洋との交易をおこなおう、という野心もあった。またソテロのがわも、これを機会に政宗という大実力者と親交をむすびたい、とかんがえた。そこで、支倉常長が政宗の使節としてソテロとともにローマに旅をすることになった。  使節団をのせるための船が建造される。もちろん日本国産で、長さ三〇メートル、乗員一八○人というから、二〇〇トンちかい船だった。支倉はみごとにこの船で太平洋を渡ってメキシコのアカプルコに到着。そしてそこから陸路大西洋がわに出て、こんどは大西洋を横断し、マドリッド経由でローマに入り、一六一五(元和元)年一一月三日に法王庁でパウロ五世に謁見した。支倉はそこで政宗からの親書を手わたし、法王もまた政宗に宛てての返書をわたす。かくして、法王庁のお墨つきによって仙台藩は通商条約をむすぶことになったのだが、それから五年の年月をかけて日本に戻ってみると、キリスト教は弾圧され、おまけに鎖国令がおこなわれている。せっかくの苦心も水の泡だったが、天正使節とならんで支倉常長は日本の大航海時代を象徴する人物というべきであろう。   11月4日 ■金融はベンチから■きょうはイタリア独立記念日。ローマ帝国の伝統をひくこの国は、ラテン諸国のみならず、世界文化ぜんたいに大きな影響をおよぼしてきたが、そのひとつに放射線状の都市計画がある。円型の広場(プラザ)がいたるところにあり、そこから同心円型の道路にむかって数本の放射線道路がつくられた。それぞれの広場には噴水などがしつらえられているのはご存じのとおり。「すべての道はローマに通じる」というのはこの都市計画からみてじゅうぶんに理解できる。  ところで、この広場のまわりはイタリア市民にとっての憩いの場であり、公園であった。そこにはベンチなどの施設も置かれ、そこで市民たちはおしゃべりをしたりゲームに興じたりしたのである。そのベンチの利用法のひとつに、金融があった。金貸しがベンチでひとに金を貸し、返済もその期日がくればおなじくベンチのうえでおこなわれる。いうなれば公共の場での簡易金融というわけだ。ベンチのことをイタリア語では「バンコ」という。のちに「銀行」のことを「バンク」というようになったのは、ここからはじまる。もちろん「バンク」は英語であって、イタリア語では現在も「バンコ」だ。 ■式包丁のはじめ■ものを食べるという行為にも一定の作法がなければならぬ、ということをかんがえはじめたのは清和天皇である。天皇は八五九(貞観元)年に藤原政朝に命じて「式包丁」という儀式を考案させ、かつそれを制度化した。宮中ではそれ以後、大礼儀式のときにはかならずこの式がおこなわれていたが、政朝の子孫はやがて公家社会から脱落していった。  それを復興したのはいわゆる清和源氏の祖、源経基(九六一〈応和元〉年一一月四日没)にはじまる源氏である。とりわけ鎌倉幕府政権が確立すると頼朝は式包丁を正式に復活させ、政朝の流れを汲む小野田某に生間《いかま》姓をあたえ生間五郎左衛門尉兼慶と名のらせた。その後、政権は交替しつづけたが生間家は式包丁の儀典係として別格に扱われ、秀吉の時代には聚楽第でしばしば晴の舞台をつとめ、従五位式部典膳出雲守という身分をあたえられている。関ヶ原の合戦のあと、生間家は徳川幕府に仕え、重要な宴会には生間流による料理をおこなった。維新にあたっては勤王方についたが、明治一四年、それまで生間流の名目上の庇護者かつ主君であった桂宮《かつらのみや》家が絶えたので、生間流は市井に入り、京都に万亀楼という料理屋を開業。しかしその式包丁の秘儀は絶えることなくこんにちもつづいている。   11月5日 ■神田明神縁起■九三七(承平七)年一一月五日、朝廷は平将門を追捕《ついぶ》せよ、という命令を下した。将門は東国に一大勢力を築きあげ、京都にとっての脅威になったのでこのような処置となったしだい。将門は、正使の追討使の到着以前に従兄弟にあたる平貞盛と藤原秀郷の手で殺され、その首は京都にはこばれた。いまも京都の東山にある「首塚」がその首を埋めたところだとされている。  ところが、東国の人間にとっては、これはあまりおもしろくないはなしだ。そこで、将門の首はいったん京都に埋められたが、帰心やみがたく、その首が飛翔して東国に戻ったという伝説ができあがった。そして江戸にも、もうひとつの「首塚」ができた。いまは大手町のビル街のまんなかだが、「首塚」のまわり二〇平方メートルほどはそのままのこされている。  将門の首が東国に帰ってくると、将門を神として祭ることもはじまった。江戸のもっとも有名な祭礼がおこなわれる神田明神がそれだ。つまり、将門は東国に戻って英雄となったのである。維新後その神田明神に明治天皇が参詣されることになると、神田ッ子たちはつよい抵抗をしめした。なにしろ将門を逆賊として首をはねたのはほかならぬ天皇家である。その天皇が神田明神にいらっしゃるのは怪しからぬ、というわけ。さりとてこれを拒否するわけにもゆかず、その年は名物のミコシも出さず、ひそかなレジスタンスをこころみた。翌年は祭礼の当日、はげしい雷雨となり、人びとはそれを将門の祟りだ、とうけとったのである。 ■まぼろしの自動車特許■一八九五年一一月五日、アメリカの特許庁は、特許番号五四九一六〇号で、ジョージ・セルデンに、以後一七年間にわたってガソリン・エンジンつきの自動車を製造販売する独占権をあたえた。セルデンは、ごく平均的な技術者にすぎなかったが、法律にあかるく、特許庁につぎつぎと特許申請をつづけたあげく、自動車というあたらしい乗物のすべての技術的側面を法的にかれの独占下に置くことに成功したのである。一九世紀のおわりから二〇世紀はじめにかけて、自動車の製造を手がけようとした企業家たちは、この業界のすべての特許がセルデンの手中にあり、じぶんたちは身うごきできなくなっていることを思い知らされた。かれらはやむをえず組合をつくり、その組合をつうじてセルデンに特許料を払った。セルデンは、当時の金ですくなくとも一五〇万ドルをこのふしぎな特許によって稼ぎ出した。その独占体制に正面からぶつかって法廷で争ったのがヘンリー・フォードである。かれはじぶんの発明がセルデンのそれと根本的に違うことを立証した。裁判所は、セルデンの特許が有効であることをみとめながらも、それは�近代的�自動車には適用されない、という判決を下した。ここにいう�近代的�自動車とは、フォードのT型モデルのことである。この判決は一九一一年一月に申しわたされた。   11月6日 ■リンカーンのカンちがい■一八六〇年一一月六日、リンカーンはアメリカ大統領に就任し、やがて南北戦争を北軍の勝利にみちびいてアメリカ合衆国を近代国家として統一したが、その南北戦争後、かれは戦没した兵士たちの遺族に宛てて手紙を書いた。そのなかのL・ビクスビイ夫人宛のものは、リンカーンのカンちがい書簡としてこんにちも有名である。  その書簡には「あなたの五人のご子息は、みな戦場で勇敢に戦い、栄光ある死をとげられました」と書かれている。たしかに五人兄弟のうちチャールズ軍曹はフレデリックスバーグで、またオリバー二等兵はピータースバーグでそれぞれ戦死しているが、ヘンリー一等兵はゲッティスバーグで南軍の捕虜となり、のちに捕虜交換で無事に故郷に帰っているし、ジョージ二等兵は戦闘中に南軍がわに逃亡している。またエドワード二等兵にいたっては、敵前逃亡してキューバに脱走してしまった。五人兄弟のうち三人までが、それぞれに生き残っているのに、それを全員戦死、と書いてしまったのはリンカーンの大失策。そのうえ、この五人の青年たちの母親たるビクスビイ夫人は有名な反戦主義者で、リンカーンの政策に徹底的に反対していたから、まことにバツのわるいことになってしまった。 ■コレラと作曲家■コッホの細菌説に反対したペッテンコーファーのことは一一月二日の項に書いたが、ロシアの作曲家チャイコフスキーもどうやら意図的にコレラ菌を飲んだらしい。チャイコフスキーは、「悲愴」の別名で呼ばれる交響曲第六番を作曲し、それをセント・ペテルスブルグで一八九三年一〇月末に初演したのだが、その反響はきわめて悪かった。ときにかれは五三歳。初老性ウツ病にかかっていたから、この交響曲の不成功にがっかりして、その三日後に、煮沸してない生水を飲んだ。コレラが大流行中だったから、水はかならず沸かしてから飲むように、という警告が出ていたにもかかわらず、である。チャイコフスキーは発病し、コレラにかかって、その数日後、つまり一一月六日に息をひきとった。みずから感染の危険の高い生水を飲んだのだから、これは自殺であったにちがいない。   11月7日 ■最後の仇討■封建時代の武士社会では仇討は義務のひとつ。古くは曾我兄弟の仇討などがあり、劇化されて有名なものには「忠臣蔵」がある。講談や映画でおなじみの荒木又右衛門の三六人斬りは一六三四(寛永一一)年一一月七日に伊賀上野、鍵屋の辻でおこなわれた。  維新後は、文明開化とあって、仇討は禁止されたが、本格的な士族の仇討の最後として記録されているのは一八八○(明治一三)年秋に臼井六郎なる青年による一瀬直久判事殺害事件である。六郎の父臼井亘理は福田藩士で、幕末の動乱期に藩政改革にのり出して活躍していたが、それをこころよく思わぬ反対派もすくなくなかった。そのひとりが一瀬である。一瀬とその一党は明治元年五月、亘理の私邸に夜襲をかけて亘理夫妻を惨殺した。息子の六郎は当時八歳だったが、そのありさまを見て親の仇を討つことを決心する。  しかし、悲しいことに、両親を殺害した下手人が誰であるか、六郎にはわからない。かれは講談もどきの苦心の末、一瀬の名をさぐりあて、もっぱら武術にはげんだ。一瀬のほうは、新政府で栄達の道を歩み、判事職である。かれは東京、名古屋、甲府と各裁判所を転々としたのち東京上等裁判所に舞いもどってくる。六郎はその一瀬の動静を刻々と追いながら待ち伏せをつづける。  とはいうものの、判事ともなればめったにひとりでいることはない。仕損じないためには一瀬が単独でいる場を見つけ出さなければいけないから、六郎は辛抱づよくチャンスを狙っている。やがて、一瀬がしばしば京橋の碁会所に行くのを知って、六郎もおなじ座敷に上りこむ。なにしろ、事件以来一三年がたち、当時八歳だった六郎の顔など、一瀬に識別できるはずはない。  こんなふうに相手に接近していると、ある日チャンス到来。一瀬はひとりで碁会所を出た。六郎は、「父の仇、覚悟せよ」と、ふところから短刀をひき抜いて一瀬の首を突き、さらに胸を突いて殺害し、みごとにその本懐を果たした。相手の一瀬も、もとをただせば武士だから、心得はあったが、なにしろ突然のことだし、六郎は十数年にわたって武術修業をしている。とうてい勝目のない果しあいであった。むかしなら、六郎は親の恨みを晴らしたというので、やんやの喝采をうけるところだが、すでに時代はかわっているし、相手が現職の判事なのだから状況はきわめてわるい。悪びれずに自首した六郎は裁判の結果、終身刑を言いわたされた。復讐を動機とした犯罪はその後も絶えることはなかったが、この臼井六郎対一瀬直久の仇討は、武士道最後の仇討であった。   11月8日 ■色と文化■七二四(神亀元)年のきょう、瓦ぶきで丹塗りの家屋建築が許可になり、また一六二九(寛永六)年のきょうはいわゆる紫衣事件の起きた日。紫衣事件というのは幕府が勅許によって紫色を用いることを許された僧侶たちを再吟味し、資格に欠けるとおもわれる八○人を流罪にしたのである。歴史上のこのふたつのできごと、ともに「色」とかかわっているわけだが、人類史的にみても「色」は多くの話題をのこしている。  たとえば、一一世紀のアラビアの医師アヴィセンナは、「赤いものを見つめると血が騒ぐ、鮮やかな赤色を見ると鼻血が出る」といったし、いっぽう中国では明代の学者汪昂は紅花だの蘇芳《すおう》によって得られる赤色は「血に似て血に入る」といい、これらを増血剤としてかんがえた。天然痘にかかった患者を赤ずくめの寝具や衣料でつつむと治る、という民間療法が、どういうわけか符節をあわせたようにイギリスと日本で一八世紀に同時発生しているのもおもしろい。  さて、紫という色は、中国の五行説では卑しまれた色であった。なぜなら、紫は正色でなく中間色であるからだ。だが、その品位のゆえに漢代になると高貴の色とされるようになり、帝王の色になった。帝王の正殿を紫宸殿と呼ぶのもそのあらわれである。もとより紫は禁色であり、奈良時代からきびしくとりしまられた。 ■ワグネルと京都■一八七五(明治八)年、京都|舎密《せいみ》局内に司薬場が設けられた。ここの主たるしごとは輸入された化学薬品の検査であって、その指導者としてオランダからヘールツなる人物がやってきた。しかし、薬品にかぎらず輸入品は京都にではなく、おおむね大阪に着く。そこで政府は京都の司薬場を閉鎖してしまった。  首都が東京に移転して地盤沈下のいちぢるしい京都では、どうにかして、いったん導入された西洋の科学を定着させたい、というので、府としてあらたに科学者を誘致することにした。あれこれ物色しているうちに、G・ワグネルというドイツ人を見つけることができた。ワグネルは数学・物理・化学などに通じ、東大の前身たる東校、南校で教鞭をとるかたわら、ウィーン、フィラデルフィア、とつづけて開催された万国博への日本からの出展を一手にひきうけ、日本政府の信頼も厚かった。そのワグネルを京都府が雇い入れたのであった。  かれは明治一一年から一四年まで、三年間にわたって京都に在住し、さまざまな技術指導にあたったが、とりわけ陶磁器、七宝、染色など京都の伝統工芸の技術改良に努力をかたむけたことが注目される。もちろん、石けん、写真術といったような近代技術を定着させることにおいても功績は大きかったけれども、こんなふうに、京都の伝統技術の近代化をはかったことは、地場産業の育成という重大な意味をもった。  ところで、ここに島津源蔵なる仏具師がいた。かれの作業場の向いがわがワグネルのいた舎密局である。ワグネルは、実験に使う機械・器具が故障したりすると、源蔵に修理を依頼した。元来が仏具というものは金属を素材とする。源蔵はやがて逆にワグネルのしごとに没入しはじめ、三五歳のとき、あらたな理化学専門工場をつくった。これが島津製作所のはじまりである。ワグネルは一八九二(明治二五)年一一月八日東京で没した。   11月9日 ■イギリス紳士風俗史■イギリスの政治家A・チェンバレン(一九四〇年一一月九日没)は山高帽にコウモリ傘という典型的なイギリス紳士。その風俗は好意的なマンガのイメージとしても定着したが、コウモリ傘がイギリス紳士のアクセサリーになるまでには苦難の道があった。  傘を常時携帯する風俗をつくったのはJ・ハンウェイという人物で、かれは一八世紀のなかばごろから、傘を持ってロンドン市内にあらわれた。ところが、かれは、まず辻馬車の馭者たちから敵意にみちた眼差しで見られるようになった。というのは、にわか雨が降り出したりすると、人びとは辻馬車に乗るかわりに傘をさすにちがいない、と馭者たちが警戒したからだ。だからハンウェイの姿をみると辻馬車はわざわざ水たまりに車輪をおとしてハンウェイに泥水のしぶきをかけたりして意地悪をくりかえした。  このハンウェイは若いころから東洋貿易に手を出し、三八歳のときにはすでに巨満の富を築いていたから、あとは若隠居。もっぱら慈善事業に力をいれることにした。ただ、コウモリ傘だけは片ときも手ばなさず、それはイギリス紳士たちの流行の源泉となったのである。一八四〇年になるとH・ホーランドなる人物がスチール製の骨を開発したので傘は開閉が自由になり、かつ細身のスマートなものになった。中世の騎士たちは剣を持った。近代イギリス紳士はそれとおなじような尊厳な態度でコウモリ傘を持つ。そして、雨が降っても、めったに傘は開かない。それも紳士のマナーなのである。 ■クーデターの意味■政治学者の定義によると「クーデター」(Coup d'Etat)とは、「支配階級の一部が、従来握っていた自己の権力をさらに強化するために、または同一階級内の他のいっさいが持っている権力を奪うために、同一階級内のものに対しておこなう非合法的・武力的手段による奇襲」とある。わかりやすくいえば、リーダー層の権力争いあるいは「お家騒動」の一形態。したがって、ことなった階級間での権力争奪、つまり革命や反革命は「クーデター」とは呼ばれない。  そのクーデターの古典的な例としては一七九九年一一月九日、ナポレオン・ボナパルトがシェーイスらの総裁政権を武力で急襲して執政政府をつくった事件がある。この日は共和暦では「ブリューメル(霧月)一八日」。その日付はそのままマルクスの論文の題名としても馴染み深い。   11月10日 ■アセチレン熔接のはじまり■アセチレンというとすぐおもい出すのは夜店の照明用に使われていたアセチレン・ガスだが、工業の世界ではアセチレンは熔接用の熱源として不可欠なものだ。これに最初に着目したのはドイツの科学者リンデ(一九三四年一一月一〇日没)である。かれは液体空気から酸素をとり出して燃焼させることに成功。のち酸素アセチレン炎の研究をすすめたピカールとフォークが一九〇三年にこんにちのアセチレン熔接技術を完成させた。  アセチレン熔接で得られる温度は摂氏三二五〇度という高熱であり、鋼鉄その他の金属に応用範囲がひろい。もっとも、はげしい炎で金属を熔かすわけだから、加熱、冷却に時間がかかり、その点では電気熔接のほうが性能の面ですぐれているが、合金鋼のような焼き入れ可能な材料ではアセチレンがより多く使用される。  熔接技術は第一次大戦以来いちじるしい進歩をとげ、冷間圧接だの、原子水素熔接だのといった新技術が続々と登場した。艦船の建造、鉄骨建築、巨大橋梁といった領域でのおどろくべき進歩はもっぱらこうした新溶接法によるところが大きい。とりわけ日本では、熔接でブロック化された船体をクレーンで吊り上げ、それをつなぎあわせるという造船技術が完成し、一時期、造船王国の名をほしいままにした。 ■占星術に凝った人びと■星占いはたいへんにさかんだが、歴史上、思いがけない人たちが占星術に熱中していた。たとえば、フランスの故ド・ゴール大統領は陸軍大尉のときに占星術によってじぶんがフランスの最高指導者になるという予言をうけ、大統領就任後もしばしば占星術師や手相見を呼んで運勢判断をおこなった。 「007」の作者であるイアン・フレミングは、タテマエ上は占星術など相手にしない、という立場をとっていたが、第二次大戦中に星占いをしてもらった。占星術師がフレミングの死期を知っているにちがいない、というので、かれはしつこく占星術師にその日付をきいた。  ガリレオ・ガリレイは天文学のみならず占星術をも研究し、みずからひとの運勢を占った。もっとも、かれの技術はマユツバものであった。というのは、一六〇九年トスカナの伯爵の運勢を見てあげましょう、といって星占いをしたところ、伯爵は長寿、と出た。ところが、その大よろこびの伯爵はその三週後に死んでしまったのである。  かわったところでは宗教改革の旗手マルチン・ルッター(一四八三年一一月一〇日生)。ルッターは星の神秘についてしばしば神学者と議論をくりかえし、占星術師リヒテンバーガーの書物には序文を寄せて、占星術こそは信仰なき人びとにたいする警告の学問だ、と書きのこしている。   11月11日 ■空中に人を運送する機械■一八九〇(明治二三)年一一月一一日、浅草の凌雲閣、つまり通称「一二階」が開場したが、この高層建築の呼びものは、そこに設置されたエレベーターであった。それを予告する新聞記事には、適切な訳語がないままに、これを「空中に人を運送する機械」と説明している。  エレベーターの着想は古く、すでに紀元前一世紀のころヴィトルヴィユースが考案したともいわれるが、いまわれわれが知っているような本格的エレベーターが誕生したのは一八五三年のことだ。この年、E・オーティスはエレベーターの索条が切れたばあいの安全装置を発明した。この年、ニュー・ヨークでひらかれた博覧会にオーティスはこの新発明品を出品して、みずからそれに乗って高いところまで上昇し、索条を切るように命じた。  見守る群衆は、てっきり、かれがこの鉄箱に乗ったまま墜落するだろう、と目をつぶった。しかし安全装置はみごとに作動し、ぴたりと停止したのである。オーティスは、ひとびとを上から見おろし、胸を張って「さあ、みなさん、完全に安全です」と自信をもって呼びかけたのであった。  このときから、世界の建築がかわった。高層ビルをつくる技術はあったが、階段で昇降するかぎり、人間の体力には限界がある。しかし、エレベーターがあれば、いくらでも建築の高層化が可能だ。ニュー・ヨークで高層、さらに超高層の建築物が続々と誕生したのはひとえにオーティスの発明によるものといってさしつかえない。このエレベーターを最初に設置したのは、ニュー・ヨークのハウノート百貨店。一八五七年のことである。  安全装置のおかげでエレベーターの大人身事故というのは起きたことがないが、故障で宙づり、という事故は年間一〇〇〇件をこえる。いちばんひどかったのは、シカゴのある富豪の未亡人が自宅のエレベーターにカンづめ状態になったまま五日間だれにも気づかれなかったという事件。この事故に対して、エレベーター会社はほぼ三億円の補償金を払った。 ■チフスのマリー■一九〇六年の夏、ニュー・ヨークのある家庭でパーティがひらかれた。その家の料理人として雇われたマリー・マローンは、つめたいキュウリのスープをつくった。そして、ボストンから来たカキ料理を出した。いずれもなかなかよい味で、招かれたお客たちは料理を賞味しながらぜんぶ平らげてしまった。ところが、そのパーティからあと一〇日ほどのあいだに、数人のお客がチフスにかかり、高熱を発した。ニュー・ヨーク保健局が調査したところ、どうやらこのチフスはマリーが保菌者であったために起きたらしいということがわかった。だが、マリーはそれが判明する以前にどこかに姿を消してしまっていたのである。  マリーは、その後、料理人としてあちこちを転々とした。そして、彼女のゆくところ、かならずチフス騒動が起きていることがわかった。保健局は必死の捜査の結果、マリーをさがし出し、病院で精密検査をうけるよう勧告した。だが捜査官がやってくるのを察知したマリーは、機先を制してかれを階段から突きおとし、逃走した。やっとのことでマリーは強制的に逮捕され、専門医が検査した。彼女は、慣性的なチフスの保菌者だったのである。しかし、彼女は弁護士を雇い、断乎としてそれを拒否した。  ニュー・ヨーク市当局は、この裁判沙汰にうんざりし、こんごいっさい料理人としてしごとをしないことを条件にマリーを釈放した。彼女は当局の監視下に数年間をすごしたが、一九一五年、ふたたび姿をくらました。まもなく、ある病院で看護婦や助手たち二五人がチフスでたおれるという事件が起きた。しらべてみると、案の定、マリーが従業員食堂で調理していた。それからも、保健局はマリーを追いつづけ、マリーは巧妙に逃げつづけた。新聞は彼女を「チフスのマリー」と呼んだ。彼女は一九三八年一一月一一日に死んだ。七〇歳であった。   11月12日 ■表札奇談■孫文(一八六六年一一月一二日生)は、まず医師になることを志したが、医学を学びつつも清朝の腐敗と無能に憤りを感じ、革命運動に接近してゆく。医学校を首席で卒業したから開業医としても成功した。しかし結局は中国の未来をつくるための社会変革運動こそがみずからの天職と感じるようになり、ハワイ、アメリカからヨーロッパをまわって中国革命の宣伝活動に専念し、のちカナダを経て一八九七年に日本を訪ねる。よく知られているように宮崎滔天、頭山満などが、したしく孫文を援助した。  その滞日中のある日、かれは日比谷のあたりを散歩中、中山侯爵の邸のまえを通りかかった。そして、宿に入り、宿帳に名前を書く段になって、ふと中山邸の表札を思い出し「中山樵」と署名した。かれがその後、孫中山と号するようになったのは、このときの経験が契機になっている。そればかりではない。孫文が中山と名のったがゆえに、かれの出身地である広東省香山県は「中山県」と名がかわったのである。一枚の表札が中国の地名までかえてしまったわけだ。  孫文は日本の歴史上の人物としては高野長英を尊敬し、のち東京で家を借りたときには「高野長雄」という表札をかかげた。 ■最初のスカート■中世まで西洋の婦人の服装はワンピースだったが、一六世紀のなかばごろからツーピースになってスカートが独立した。もっとも、スコットランドのキルトなどの例もあるから、頭からスカートを女性のものときめつけるわけにもいかない。  一九世紀には、針金やクジラの骨でふくらませた構造物をスカートの下にはくスタイルが流行する。それをはじめて見た万延元年遣米使節のひとりは「腰より下は鯨骨にて我が提灯の骨のごとくにいたせしポープスカレンヌと云ふものを付、大なるに至つては裾の処に差渡し三尺余に及、足の見えざる程に長し」と記録している。  日本女性ではじめてスカートをはいたのは山川捨松、津田梅子、上田貞子、永井繁子、吉益亮子の五人の少女たち。最年長の吉益、上田は一五歳、最年少の津田にいたってはわずか七歳。彼女たちは維新後最初の女子留学生である。この少女グループは一八七一(明治四)年一一月一二日に横浜を出発し、一路アメリカにむかった。幼い少女たちであるがゆえに心配する人もすくなくなかったが、彼女たちの順応力ははやく、アメリカ到着と同時に洋服に着替え、アメリカ的生活様式を身につけた。このなかで、津田が一一年間をアメリカですごし、のち、津田英学塾をひらいたのはご存じのとおり。   11月13日 ■ロッシーニとマカ口ニ■一九世紀のはじめ、作曲家のニコロはマカロニをどうしたらおいしく食べられるかについてくふうを凝らし、マカロニの中空の穴に特殊な注入器で牛の骨髄を注入する、という途方もないアイデアにとりつかれた。こうして準備されたマカロニをフォアグラ、野鳥のヒレ肉といっしょに煮る。そのおいしさは天下一品であった。  ニコロのこの料理法をじっと研究していたのがロッシーニ(一八六八年一一月一三日没)である。かれはスープからトマト、ピュレ、パルメザン、チーズなどひとつひとつの材料を吟味し、 まさしく「ロッシーニ風」としかいいようのないみごとなマカロニ料理を創作したのである。ロッシーニは、たいへんな食通でもあり、また料理人でもあったのだ。じっさい、かれは料理女を迎えて妻としている。  作曲家のなかではベートーヴェンも料理にいささか凝ったことがあるらしいが、こちらのほうはあんまりパッとしなかった。友人たちはベートーヴェンに忠告して、料理に凝るよりも作曲に専念したほうがよろしい、といっている。かれもどうやらその忠告にしたがったらしい。  シューベルトは貧乏だったが、金に余裕のあるときには、ハンガリー料理のグローシシュが得意で、みずから台所にこもって料理に専念したという。しかし、料理人と作曲活動のふたつの領域で名を残したのはロッシーニをもって白眉とすべきであろう。 ■動物愛護精神■綱吉の生類憐みの令がいよいよ本格化したのは一六九五(元禄八)年。この年の一一月一三日、かれは中野の一六万坪の土地に囲いを設け、そこに野良犬を収容した。なにしろ、ハトに石を投げただけで罰せられるのだから、野良犬を行きだおれにさせたりしたらたいへんだ。飢えた犬、病気の犬、それを江戸市中から腫物にさわるような細心の注意を払いながらこの収容所にはこんできた。かぞえてみると、なんと一〇万頭。これに一頭あたり二合五勺の米を給付する。だから一日に二五〇石。年になおすと八万石。これに一〇〇人にちかい保護係の人員を配置したのだから生類憐みの令はかなりすさまじい。  しかし、綱吉的精神はイギリスにもある。王立動物愛護協会というのがそれで、犬、猫はむろんのこと、動物たちにあたたかい援助の手をさしのべ、万一、動物を虐待したりするとこの協会からたいへんなお叱りがきて非難される。ロンドン近郊のある金魚屋さんはみずからもこの協会員だが、夜、自宅に帰るときに金魚たちを店にのこしてゆくのがかわいそう。そこで協会本部に毎日、車に金魚をいれた水槽を積んで通勤してよろしいか、と問いあわせを出したところ、答は「ノー」。その理由は、そんなに車にのせたら金魚が船酔いしてかわいそう、というのである。こちらのほうは一七世紀の話でなく、現代の話である。   11月14日 ■弁護士の勝利■日本の弁護士制度は一八七六(明治九)年にはじまっているが、本格的に弁護士が裁判所で活躍した最初の記録はこの年の一一月一四日に、神奈川県の平塚での農民暴動を弁護した塩谷俊雄であろう。不当な地主にたいして農民が蜂起したゆえんを塩谷は堂々と弁護し、ついに勝訴にもちこんだ。  とはいうものの、三百代言などといわれるように、なかには悪徳弁護士もいたし、屁理屈で世間をさわがせた人物もいた。そして弁護士があれこれと理屈をつけて裁判に勝った珍記録としてはフランスのM・ジルベール弁護士にまさるものはないだろう。このジルベール氏は一九〇七年、パリのリヨン駅の手荷物預り所にふらりと立ちより、ポケットから一本のツマ楊子を出して、これを預ってくれ、と申し出た。ひとをバカにするにもほどがあるというので、係員は憤然としてこれを拒否した。ジルベール氏は、この処置を不満としてフランス公共事業省を相手どって訴訟をおこしたのである。そこからツマ楊子一本をめぐっての珍妙な裁判がはじまった。はじめは簡易裁判所でどうにか始末がつくとおもわれたが、ジルベール弁護士は完全に非妥協的に争いつづけ、とうとう、この事件は最高裁にまで持ちこまれる。しかも、すったもんだしているうちに、二〇年の年月が流れ、最終的にジルベール氏は勝訴。フランス政府はかれに賠償金を払い、かつ裁判費用の全額を負担するということになった。その総額は当時の貨幣価値で二〇〇〇万円。おそらく世界でいちばん高価なツマ楊子であった。 ■SFから生まれた地名■一五〇〇年、スペインのオルドネス・デ・モンタルボなる人物が『空地の開拓』という空想小説を書いた。これは途方もない空想世界地図をえがいた作品なのだが、そのなかにこんな記述がある。 「インドの東にカリフォルニアという名の島がある。島民はアマゾンにおけるのとおなじように、体力のつよい、美しい女性だけであり、男はひとりもいない。彼女たちは黄金製の武器をもち、他国に遠征して男をとらえてはこれをなぶりものにし、あとは殺してしまう」  この本を読んで感奮興起したのがスペインはセビリアの裁判所書記、エルナン・コルテスである。ウソとも真実ともわからない『空地の開拓』を片手に、かれは大西洋を渡り、メキシコを征服した。コルテスがアステカ王国の首都テノチティトランに到着して国王をとらえ、事実上メキシコに支配権を確立したのは一五一九年一一月一四日。とはいうものの、メキシコだけでは物足らず、さらに北上して探検の旅をつづけ、やがて緑ゆたかな太平洋岸に達した。その風景は、けっしてモンタルボの小説どおりではなかったが、この小説にちなんでコルテスはこの地方を「カリフォルニア」と命名し、こんにちにいたっている。  いわずもがなのことをつけ加えておくと、アマゾンという地名も、中世以来のヨーロッパの俗信から生まれたものだ。この俗信によると、大西洋のかなたにアマゾンという国があり、この国には女だけが住んでいて、子どもがほしいときだけ男を掠奪してくる、とされていた。アマゾンもカリフォルニアも「女護ヶ島」伝説であり、その女護ヶ島をもとめて大航海時代がはじまったというわけ。   11月15日 ■幼児の儀礼■一一月一五日を「七五三」といって祝う風習はごくあたらしく、江戸中期以後のことだ。しかし、それ以前にも三歳、五歳、七歳のいずれかを人生における通過儀礼として祝うことはおこなわれていたようである。たとえば三歳で「ヒモオトシ」という儀式をする地方がある。それまで着物を紐でとめていたのを、三歳ではじめて帯をむすぶというわけ。兵庫や岡山では三歳児のときにはじめて祭礼に参加する。  五歳の男児に袴着《はかまぎ》とか髪そぎとかいうのも全国各地に散見するが、これもかならずしも男児にかぎられたものではない。七歳というのは男女共通、しかも全国的なひろがりをもった通過儀礼である。九州地方では、「七所祝《ななとこいわ》い」といって正月七日に七歳の子が近所の家を七軒まわってそれぞれに粥をごちそうになってくる。こうした各地の習俗をとりまとめたのが「七五三」ということになる。  ちなみに、日本の民俗信仰のなかでは、子どもは七歳まで神格をもったものとしてとりあつかわれ、七歳以下の子どもが死んだら本葬を出さず、子供墓に葬るのがふつうであった。七歳をすぎてはじめて子供は人間として安定する、ということになっていたのだ。 ■オールド・パーと土地ころがし■トーマス・パーがスコットランドの農家に生まれたのは一四八三年二月、その後、元気に生きつづけ、一六三五年一一月一五日に死去した。つまり、かれは一五二歳という長寿記録を立てたのだ。  かれは一五〇〇年、一七歳のとき生家を離れて町にはたらきに出たが、それから一八年後、父親が死んだので田舎に戻り、農場を相続した。ところが、そのころからイギリスでは土地価格がうなぎのぼりに上昇し、かれはその土地資産をじょうずに運用し、もっぱら金利や地代収入でのんびりと生活した。  一五六三年、かれは八○歳ではじめて結婚し、ふたりの子が生まれたが、ともに幼いころに死んでしまう。一六〇五年、かれは妻に先立たれた。すでに一二二歳だったが、パーはためらわず再婚。いやそれどころか、結婚中の一五八八年、一〇五歳のパーは村いちばんの美人キャサリンと恋愛事件をおこし、その結果、私生児をもつことになった。  まあ、そんなことはともかく、かれの長寿ぶりはイングランドにもつたわり、一六三五年の春、チャールズ一世はパーをロンドンに招いた。かれのためには特別の馬車が用意され、人びとは沿道にあつまって歓呼の声をあげた。宮廷では、とくに命じて、ルーベンスとヴァン・ダイクのふたりの画家に肖像画をえがかせた。こんにち、ウィスキーの「オールド・パー」の商標になっているのはルーベンスの手になるもの。  ところが、ロンドンで大歓待をうけ、フランス料理を食べ、ワインを飲んで、生活がぜいたくになったとたんに、パーは身体の不調を訴え、あっという間に死んでしまった。要するに、かれの長寿の秘訣は、田園生活のなかで土地ころがしで左うちわの自由な生活をすること、そして、かれの死因は、ぜいたくな食生活、ということになるのであろうか。   11月16日 ■ネコの好ききらい■動物の好ききらいは人によりけりだが、愛猫家のほうを列伝ふうにならべてみると、まず、W・チャーチル。晩年のチャーチルはジョックと名づけた子猫を飼い、ジョックとともに食事をした。ジョックがいないと食事がはじまらない、というので召使いたちが家のなかじゅう探しまわったこともある。もちろんジョックは、チャーチルのベッドの裾で寝た。  ハード・ボイルド作家のR・チャンドラーも猫好きで有名。かれの猫の名前はタキという。タキにむかってチャンドラーは語りかけ、また人には、タキはじぶんの秘書だとよく冗談をいった。なぜなら、タキは、なぜか訂正加筆を必要とする原稿のうえにすわることが多かったからである。  シュヴァイツアー博士もネコ好きだった。いや、かれの博愛精神はネコをふくめ動物界ぜんたいにゆきわたっていたのだが、とりわけネコが好きだった。アフリカでのシュヴァイツアーはアフリカ滞在中シジなるネコを飼ってかわいがっていた。かれは左利きだったので、ふつう、患者への処方箋は左手で書いたが、シジはかれの左手を枕にして寝るのが好きだったから、シュヴァイツアーはしばしばペンを右手に持ちかえ、馴れない手つきで診断書や処方箋を書いた。  いっぽう、ネコぎらいのほうからいうと、アイゼンハウアー。かれは自室のテレビのそばにつねに散弾銃を置き、カラスがくるとそれを射ったし、また庭をネコが横切ったりすると、そのネコも銃声で退散させた。これはかれの没後、孫息子のデヴィッド君があきらかにした秘話。このアイゼンハウアーと前記のチャーチルが力を合わせてノルマンディ上陸作戦を成功させたのだからふしぎな話だ。  似たような組みあわせは、辞典編集の有名人のあいだにもある。S・ジョンスン博士はネコ好きで、ネコに与えるための魚類はじぶんで買いに行った。ところが、ウェブスター辞典をつくったN・ウェブスターはネコぎらい。その辞典の初版本でウェブスターは「ネコというのは人をだます性質をもち、機嫌をそこねると兇暴になる動物」と定義している。  さて、ネコぎらい列伝にもどると、作曲家のブラームスはネコを見ただけでも気持がわるくなる。そこで、かれは自室に弓矢を用意し、隣家の庭であっても、ネコの姿を見つけると容赦なくこの武器でおどかした。イギリスの詩人シェリーは、フランクリンを模してタコをあげて雷の実験をしたが、そのときにはネコをタコにくくりつけて空中で雷に当てさせた。残念ながらそのネコの生死は記録にのこっていない。  ヘンリー三世(一二七二年一一月一六日没)はネコ恐怖症。かれはネコの姿を見ただけで失神した。   11月17日 ■リレー競走のはじまり■通信技術の発達していなかった時代には、書状などを一地点から他の地点にはこぶための手段は馬だの人だのにまかせなければならなかった。しかし長距離ということになると、馬にも人にも体力の限界がある。そこで、中間に中継地をいくつか設けてそこで交替するという方法がとられた。日本の継馬《つぎうま》や継飛脚《つぎびきやく》がそれである。その伝統が、こんにちにも「駅伝競走」という名でのこっているのはご存じのとおり。  しかし、円型ないし楕円型の競技場でのリレー競走というのがスポーツとして登場したのは比較的あたらしい。最初に「リレー競走」がおこなわれたのは一八八三年一一月一七日。場所はバークレーのカリフォルニア大学のスタジアムであった。そのときの記録は八○○メートル四周、つまり合計三二〇〇メートル。優勝チームはこの距離を九分五一秒で走った。 ■間にあわなかった名作■一八六九年一一月一七日はスエズ運河開通の日。フランスとエジプトの貴顕紳士淑女がこの開通式に参列し、さらに運河を記念してカイロに建設されたオペラ・ハウスもその三日後にコケラおとし。  そのオペラ・ハウスのために新作歌劇を依頼されていたのはヴェルディである。かれはエジプトを舞台に「アイーダ」を作曲した。エチオピアの国王の娘アイーダがエジプト軍にとらえられ、エジプトの将軍ラダメスと恋におち、ふたつの国の利害の板ばさみになりつつもその恋をつらぬきとおし、ラダメスとともに石牢のなかで死んでゆく、という物語。見せ場は第二幕で、そこでは壮大な舞台のうえでエジプト軍が凱旋する。その凱旋行進曲を高らかに演奏することでエジプトの偉大さを強調するとともに、周辺諸国との友好を訴える、というわけ。オペラのストーリーとしてはかなり政治的だが、まさしくスエズ運河開通記念にふさわしい作品であった。しかも、この新作歌劇はエジプト国王の直接の依頼によるものである。五八歳で脂ののりきったヴェルディが張り切ったのも無理はない。ところが、この晴れの上演用にパリに注文した装置や衣装が普仏戦争のおかげでなかなか届かない。カイロのオペラ・ハウスでの初演、という計画は、結局のところ頓挫してしまったのである。せっかくの名作は間にあわなかったのだ。  しかたがないから、コケラおとしは、「リゴレット」でお茶をにごした。「アイーダ」の初演は二年おくれて、一八七一年までのびてしまった。   11月18日 ■ヒポコンデリー列伝■ヒポコンデリー、すなわち沈鬱症にかかった有名人はかなり多い。たとえば、作家のT・ドライザーは、つねに万物の流転と生命のはかなさ、という観念にとらわれ、みずからの想像力によって、つねにじぶんは病気なのだと思いこみ、さまざまな医薬品を常用して暮らしていた。  ナイチンゲールは、五六歳のとき心臓病で入院したが、一刻一刻がおそろしくてたまらず、つぎの瞬間に死ぬのではないか、と近親の人たちに語りつづけていた。ところが、その「瞬間」はなかなかやってこなかった。彼女は一九一〇年に九〇歳で息をひきとったのだから、合計三四年間にわたって「瞬間」を気にしつづけていた勘定になる。 『失われた時を求めて』で有名なM・プルースト(一九二二年一一月一八日没)も病気恐怖症であった。かれはあまり外出もしなかったが、弟の結婚式に出かけたときには風邪にかかるのを恐れてオーバーを三枚かさね、数枚のスカーフを首に巻きつけ、すさまじい着ぶくれ姿で教会にあらわれた。かれは椅子に掛けることもできず、式のあいだじゅう、立ちつづけであった。かれは自室の壁を全部コルクで張った。たおれてもコルクがクッションになってくれるだろう、というわけ。そして、その晩年は、この部屋から一歩も外に出ずに暮らした。 ■土木工事と人身事故■きのうの話題はスエズ運河だったが、きょうはパナマ運河。といっても、これは完工記念日ではない。一九〇三年一一月一八日にアメリカがパナマ運河地帯を永久租借したのだ。太平洋と大西洋の二大洋をむすぶこの地帯を確保したのはなかなか目先がきいている。  ところが、このパナマ運河の建設工事は多くの犠牲者を出したことでも記録的であった。とにかく、暑熱のジャングルを切りひらくのだから、工事そのものの事故より、熱帯の伝染病で多くの労務者がたおれてしまった。黄熱病、マラリヤ、そしてコレラ。一九一四年にパナマ運河は開通したが、それまでの死者は合計二万五〇〇〇人以上。これだけの死者を出した土木工事は他に例をみない。  その二年まえ、ブラジル西部でマディラ・マモレ鉄道の建設が完了したが、このときの死者は六〇〇〇名。こちらのほうは一八七〇年着工だから四〇年にわたる大工事である。労務者の死因はパナマとおなじく伝染病がおもだが、インディアンの襲撃による死亡者、ガラガラ蛇による死亡者などもすくなくない。  それにくらべると、おなじく一九世紀末から二〇世紀はじめにかけての工事ではあったが、北半球での大工事の犠牲者はケタちがいにすくなかった。たとえばアルプスをぶち抜いたシンプロン・トンネル(一九〇六年完成)では死者三九名。ハドソン海底トンネル(一九〇六年完成)ではおなじく二〇名。ただ、いずれのばあいも怪我でうごけなくなった作業員は一〇〇名を越す。ちなみに日本の丹那トンネル(一九三四〈昭和九〉年完成)での犠牲者は六七名であった。   11月19日 ■鉄仮面の死■一七〇三年一一月一九日、「鉄仮面」として知られる奇怪な囚人がバスチーユ監獄で死んだ。かれは、一六六九年に、ルイ一四世の命によって投獄され、あちこちの監獄を転々とさせられたが、この人物についてはふしぎなことがいくつもあった。まず、かれは裁判もうけていなかったし、ましてや判決もうけていなかった。要するに、突然囚人として送りこまれてきたのである。第二に、かれは鉄製の仮面をかぶらされ、それを一生はずすことがなかった。周囲を鉄格子でかこまれ、かれは、ときに絃楽器を鳴らしたりしていたらしい。  カンヌの牢獄にいたとき、ある日、かれは食器としてあたえられていた銀製の皿にフォークでなにやら文字をしたため、それを窓のそとにほうり出した。ひとりの漁師が拾いあげたが、幸か不幸か、かれは文盲であった。あわててとんできた獄卒は、漁師に、何が書いてあったかわかるかと問うた。読めない、と答える漁師に、獄卒は、「それはよかった、もしおまえがこれを読んでいたら、この場でおまえを殺さなければならなかったのだよ」といった。  この鉄仮面が何者であったかは謎につつまれている。一説によると、かれはルイ一三世の王妃であったアンと、イギリスのバッキンガム公とのあいだにできた私生児だともいうし、また他の学者の推測によると、かれはイギリスの国王チャールズ二世の長男であったともいう。いずれにせよ、かれは獄中で三五年ちかくすごして死んだのである。のちにデュマが書いた小説『鉄仮面』のヒントがこの事件から得られたものであることはいうまでもない。 ■戦争と靴屋の広告■南北戦争のさなか、一八六三年の夏のことである。南軍の部隊をひきいるJ・ペティグリュー将軍は、部下の将兵をひきいてペンシルヴァニア州に戦線を展開しようとしていた。だが、この部隊の装備はあまりよろしくなかった。将兵の大部分は長期にわたる行軍のおかげで靴をはきつぶし、ハダシで歩いているものもすくなくなかった。ところが、たまたまペティグリュー将軍はゲッティスバーグの町の新聞「コンプライヤー」紙に靴屋の広告が出ているのを見つけた。この広告には、この町の靴屋が新型のブーツの特売をやっている、と書かれていた。部下に満足な靴をはかせよう、と将軍は決意し、部隊はその靴屋のあるゲッティスバーグにむけて進軍のコースをかえた。  その進撃の途中で南軍は強力な北軍と遭遇した。ここで南北戦争の戦局を大幅に変えた有名なゲッティスバーグの戦闘がはじまったのである。戦闘は、まる三日つづいた。北軍は死者三〇七〇名、負傷者一万四四九七名という犠牲者を出し、南軍もまた、死者二五九二名、負傷者一万二七〇六名という手痛い損害をうけた。この戦闘の勝利は北軍の頭上に輝いたけれども、その歴史的決戦のゆえに、「人民による、人民のための……」というリンカーンの演説はゲッティスバーグの地をえらんでおこなわれたのであった。もしも南軍の将軍が靴屋の広告を読んでいなかったら、ゲッティスバーグ演説(一八六三年一一月一九日)もおこなわれていなかったはずなのである。   11月20日 ■チェスとロシア人■チェスの起源はふるく古代インドのゲーム「チャトウランガ」または「シャトランジュ」にはじまるといわれる。このゲームは七世紀ごろからペルシャを経てトルコ、アラビア、そしてヨーロッパにつたわる。東にむけては中国から日本へ。そして日本ではそれが変形されて将棋になった。  ところで、チェス好きという点ではロシア人が世界随一だろう。これまでの国際チェス競技会でのチャンピオンの記録をみても、二〇世紀にはいってからは、M・チゴーリン、A・アレキーネ、B・スパスキー、M・タル、といったふうにロシア人の名前ばかりがならんでいる。S・タラッシュ、J・カパブランカ、という二人のチャンピオンが例外だが、前者はポーランド人、後者はキューバ人だから、いずれも、要するにソ連圏。アメリカは負けてはならじと一九七三年にB・フィッシャーを世界選手権試合に送り出し、フィッシャーはスパスキーを破ったが、それくらいのことではロシアの王座はゆるぎそうにない。  トルストイ(一九一〇年一一月二〇日没)もチェスとなると目がなかった。かれは五〇歳をすぎてから宗教的な煩悶に悩み、『わが宗教』、『幸福とは何か』といった一連の著作を書きつづけていたが、その間にもチェスの道楽だけはやめなかった。かれは学生のころにチェスの魅力にとりつかれ、ペテルスブルグではチェスのクラブに入りびたり。そしてその相手にはツルゲーネフがしばしば登場する。トルストイにとって、チェスは小説のプロットのイメージともむすびついていたらしい。『戦争と平和』を書いていたときもチェスに夢中だったというから、戦場の風景とチェスの盤面とはかれの頭の中で交錯していたはずなのである。  トルストイのチェスは晩年にいたっていよいよ本格的になり、もっぱらゴルデンベイゼルというピアニストを相手にチェスを指しつづけた。この人とは最後の一五年間、ほとんど間断なくチェスをつうじて親交があり、計六〇〇局の勝負がくりかえされた。その棋譜によると、トルストイの腕前はなかなかのものだったそうだ。 ■誰のためのミサ曲■一七九一年一一月二〇日、モーツァルトは病の床についた。かれは若くしてロ—マ法王から「黄金拍車勲章」をうけ、宮廷音楽家としては最高の地位をあたえられたが、貴族階級というパトロンの保護を脱してみずからの音楽活動に専心しようというモーツァルトの晩年──といってもまだ三五歳だったが──はけっして安楽なものではなかった。そして、こんなふうに病を得たモーツァルトのところに、ヴァルゼック伯爵の使いが訪れ、死んだ夫人のための鎮魂ミサ曲を作曲してくれと依頼した。  じぶんじしんの死期がせまってきているところへの作曲依頼である。誰のための「鎮魂」やらわかったものではない。しかし、かれは見舞いにきた歌手たちにそれぞれのパートを歌わせながらついにミサ曲を書き、二週間後の一二月五日に死んだ。このミサ曲のゆえにショパンの葬儀がおくれたことは、一〇月一七日の項でみたとおりである。   11月21日 ■高速印刷術とタイムズ■新聞は一六世紀のなかば以後、ヨーロッパ各地で発行されるようになったが、手刷りの平版印刷機では印刷のスピードに限度があり、増加する新聞の需要にこたえることはできなかった。そうした大量印刷のために、蒸気機関を使った高速印刷機を発明したのは、ドイツのケーニヒとバウアーというふたりの人物である。その新機械は一八一二年にロンドンで発表された。これにさっそく着目したのがタイムズのジョン・ウォルターで、即座に二台を注文した。この高速印刷機で印刷されたタイムズ紙がはじめて読者の手にわたったのは一八一四年一一月二一日であった。 ■一休の修行■一休さんという愛称でしたしまれている一休宗純(一四八一〈文明一三〉年一一月二一日没)は六歳のとき出家し、二二歳のとき終生の師ともいうべき華叟宗曇《かそうそうどん》の門に入った。華叟は大徳寺開山宗峰妙超の四代目にあたる法孫で、枯淡の禅僧。みすぼらしい庵のなかは無一物にちかく、毎日の食べものにさえこと欠くしまつ。そのなかで三年間、じっと華叟につかえ、学びつづけて、二五歳のときに「一休」の道号をあたえられた。  よく知られているように、一休は後小松天皇の側室を母として生まれた。つまり、天皇家の直系なのである。そうしたかくれた身分と、みずからの思索の激突のなかで一休は悩み、その悩みがさまざまな奇行を生んだのであろう。かれは大徳寺に住持として迎えられたが、じっさいに大徳寺に住むことはなく、放浪の人生を送った。かれはいっさいの権威、とりわけ権威をカサに着る人間を嫌い、師の華叟からあたえられた印可状を破り捨てる、といったようなこともあえてしたのである。   11月22日 ■J・F・ケネディの自動車■ケネディ大統領がテキサス州ダラスで暗殺されたのは一九六三年一一月二二日のことであった。その後、犯人と推定されるオズワルドがさらに殺されるといった事件が連鎖的に発生したため、完全なミステリーのなかに閉ざされてしまったが、あの事件の当日、大統領が乗っていた自動車についてひとこと。  あの自動車はリンカーン・コンチネンタルの特別仕様車であって、運転手のほか、ボディ・ガードが前席に二名、車体のうしろにとりつけられた踏み台に二名、そして、まんなかの座席に大統領夫妻、という七人のり。大統領が群衆にむかって手をふったりする必要があるときには、特別のボタンを押すだけで後部座席を約三五センチ上昇させることができた。大統領が立ち上ったばあいの握り棒は、運転手の背もたれ部分にとりつけられていたし、うしろの踏み台からは、乗馬のときのアブミのごとき特製の金具が必要に応じてとび出し、ボディ・ガードはこれをしっかり足でふみ、トランクのうえのレバーをにぎりしめて高速運転でもふり落されないようなくふうが凝らされていた。  事件の当時、大統領は幌をとりはらって走っていたが、この車には一九六一年に建造されて以来、完全防弾ガラスの屋根がとりつけられており、これもボタンひとつでボディから四つの部分にわかれて全シートを防護できるようになっていた。だから、もしもあのとき、あの車が屋根つきで走行していたら、惨事は起きなかったはずである。残念なことに、一一月とはいえテキサスという暑熱のなかでのできごとであった。せっかくの特製リンカーンも、いっこうにその威力を発揮できなかったのである。 ■パラ国の話■パラ国は南海の島国でラジャという君主をいただく立憲君主制であり、人口は約一〇〇万人。宗教は仏教で、その教義によれば人間はしぜんの欲求をみたしながらそのうるわしい自我を実現してゆく。科学は農業生産といった実践的活動に応用するためのもの、とされ、また、人びとの心をやわらげるために、モクシャという植物を使う。この植物を食べると一種の幻覚作用が生ずるが、その幻覚は冴えた自意識を強化するふしぎな作用をもっている。モクシャは学校教育のなかでも用いられる  島国だから、もっぱら生産活動は農業にかぎられるが、家具だの陶器だのをつくる小さな工場もある。家族制度は大家族、というよりも一種の協同組合的な色彩が濃厚であり、「核家族」といった観念はそこではまったくみられない。おもしろいことに、パラ国は産油国である。そして、まさしくそのゆえに、パラ国はのちに侵略をうけて滅びてしまった。  いうまでもないことだが、この「パラ国」はA・ハックスレー(一九六三年一一月二二日没)が生前に書いた最後のユートピア小説の舞台である。かれは、それに先行して『雄々しき新世界』を書いたが、こちらのほうは逆ユートピア、つまり悲惨なる未来小説であった。「パラ国」はそれにくらべると、はるかにロマンにみちている。このふたつのユートピアのどちらをとるかは、人の好みの問題だ。   11月23日 ■目覚し時計の発明■勤労感謝の日にちなんだ話をひとつ。一八世紀後半に、L・ハッチンスという二六歳になる時計職人がアメリカ・マサチューセッツ州のコンコードに住んでいた。コンコードというのは、独立戦争の戦蹟で、だいたいが清教徒的精神によって支配されているところである。ハッチンスもその例外でなく、毎日午前四時に起床して、しごとにとりかかるのを日課としていた。だが、いくら日課をつくってみても、人間だから寝すごすこともある。そして、そんなふうに朝寝坊をしてしまった日には、かれはたいへんに不愉快で、かつ、一種の罪悪感を抱かざるをえなかったのであった。  夏場であれば、午前四時というのは、しらしらと空がすこしあかるくなる時刻である。だから太陽をあてにしていてもよかった。だが秋から冬にかけてのマサチューセッツでは四時といえば暗闇である。持ちまえの時計技術を生かして、毎日おなじ時刻に目をさます方法はないものか──かれは、高さ一メートル、幅五〇センチほどの木箱をつくり、そのなかに、かれの手持ちの時計をひとつ格納した。木箱のなかには、ベルが仕掛けられており、そこからはピン状の金具が触手のようにのびて、文字盤にふれるようになっていた。その金具の調節がやや微妙であって、長針にふれることなく、短針にのみふれるように設計されていたのである。ピンは、文字盤のうえの四時のところにセットされている。針がまわって、ここでピンにふれると、それがスイッチになってベルが鳴るというわけ。  この発明はみごとに作動した。そして、これをつくってから、かれは寝すごすことがいちどもなく、九四歳まで生きた。だが、このすばらしい発明にもかかわらず、かれはこれを商業化したり、特許権を申請したりすることがなかった。ハッチンスは、ただみずからの規則正しい生活を維持するためにのみ、世界最初の目覚し時計をつくったのである。 ■コンニャクその他■きょうは神農さまのお祭り。神農さまとは薬の神さまであって、大阪の道修町のような近代科学薬品工業のメーカー、問屋街でもきょうはお休みである。  ところで近代医学と薬学のおかげで、多くの人びとは民間薬をすっかり忘れてしまっているが、神農さまのむかしから、生活の知恵はさまざまな薬を発見してきた。そしてそれらのなかには、近代医学からみて病理学的にぴたりというものもすくなくない。たとえば尿路結石症(むかしは石淋といった)にコンニャク。この病気を治すには大量の水分をとり、結石のすべりをよくするためグリセリンを投与したりするが、民間療法ではコンニャクが処方された。コンニャクは腸内で大量の水を放出するから、理想的なのである。またコンニャクは血糖値を正常に調整するがゆえに糖尿病にもよい、という。  コンブやヒジキのような海藻類は、鉄分、銅分のほか、ヨウ素、マンニット、アルギニン酸などが大量にふくまれている。それを民間薬としては、利尿剤、リンパ腺腫、さらに血圧降下剤として使っているが、これも医学的に正しい処方だという。いや、アルギニン酸には、カドミウムを体内から排出する作用がある、という学説もあるし、コンブは国際的生薬として再認識されつつある。こんなふうに、民間薬を頭から否定できないからこそ、神農さまはだいじなのだ。   11月24日 ■タスマニアの悲劇■一六四二年一一月二四日、オランダの探検家タスマンはオーストラリア南東に大きな島を見つけ、発見者たるじぶんの名前を冠して、これをタスマニアと名づけた。  タスマニアには、黒褐色の肌をした人びとが住んでいた。頭髪のちぢれぐあいなどをみると、この人びとはオーストラリア原住民よりもむしろメラネシア系ともみえたし、アンダマン島のピグミーのようにもみえた。経済生活は狩猟採集だが、木の槍と棒があるだけで弓矢はない。着衣はまったくなく、裸で暮らしている。寒いときにはカンガルーの皮を身にまとう、といったていど。  どうやら首長制のようなものが生まれかけているようだが、血縁を基軸にした氏族制度などは皆無である。家畜もいないし、カヌーもない。どこからみても、この島の人びとは世界でもっとも未開の段階にある、としかおもえなかった。いったい、かれらはどこからどんなふうにしてこの島にきたのかタスマニアの人びとは謎の民族であった。  しかし、いったんタスマンをはじめとする白人がこの島に入りはじめると、病気だの、文化ショックだのが原因になってタスマン民族はだんだんその人口が減り、最後にのこったたった一人も一八七六年に死んで、民族は絶滅してしまったのである。いわば無菌状態にあった人びとが、いきなりさまざまな菌で汚染されたようなものだ。タスマニアの悲劇は人類の悲劇でもあったのである。 ■科学と革命■酸素の発見者であり、近代化学の父といわれるアントワン・ラボアジェは、若くしてその科学者としての才能をみとめられ、学士院のメンバーにもえらばれていたが、研究のかたわら、徴税請負人のしごとをしていた。これは、国家が徴収する税金を国家に代行してとりたてる半公務員のようなしごと。ところが、フランス革命が起きると、徴税請負人というのは民衆の敵ということになり、ラボアジェは一七九三年二月二四日に逮捕され、死刑の判決をうけた。  ラボアジェじしんはもとよりのこと、アカデミー会員は当局にたいして助命を懇願したが、それはうけいれられなかったのみならず、共和国には科学など要らぬ、というラジカルな返答が戻ってきた。ラボアジェは、そのすばらしい才能をついに断頭台のうえで消されてしまったのである。   11月25日 ■わからない「羊飼い」■アメリカに移民した人口のかなりの部分がイギリス人であったことからアメリカ合衆国ではその標準語として英語が使われるようになったけれども、イギリスからもってきた英語の中には新大陸のアメリカ人にとっていっこうに実感的に理解しえないものがすくなくなかった。たとえば聖書のなかに出てくる「羊飼い」(Shepherd)などがそのひとつである。もともと、このことばは、キリスト降誕説話のなかなどでは、社会の最下層の人びとを指すことばとして、例の東方の三博士という最上層エリートと対比的な意味で使われていた。そして、そういう文学的かつ宗教的な意味は欽定聖書を読むイギリス人にはじゅうぶんによくわかっていたはずなのである。  ところが残念なことに、アメリカの風土は羊を飼うのに適していなかった。だから「羊飼い」は現実に存在もせず、また聖書のなかでのそのことばの意味も理解しかねたのだ。やがて、アメリカ西部が開拓され、羊放牧がはじまる。したがって「羊飼い」も誕生する。だが、西部の草原の「羊飼い」はあまりにも世俗的な荒くれ男たちだった。聖書に出てくる「羊飼い」の神聖そうなイメージとそれはあまりにもちがいすぎる。そこでアメリカ人は Shepherd のかわりに Shepherder ということばを造語してこのふたつを区別した。一七八三年のきょう、イギリス軍はニュー・ヨークから撤退。このへんから英語が米語にとってかわられる契機も生まれたのであった。 ■オリンピックの謎■一八九四年一一月二五日、クーベルタン男爵はオリンピック・ゲームの復活を提唱し、そこから近代オリンピックがはじまるのだが、そこで「復活」すべき古代オリンピックなるものがどのようなものであったのかは、じつのところよくわかっていない。  ギリシャ神話によると、むかしむかし、世界を誰が手中におさめるかについてゼウスはオリンパスの山でクロノスと戦い、その結果ゼウスが勝った。その戦勝を記念して、競技がオリンパスの谷でおこなわれたのがはじまりだという。また、のちにオエモナウスという王の娘にあたるヒポダミアに求婚する男たちに馬にひかせた軽戦車で競走させ、最後にペロプスという男がみごとに勝ってヒポダミアを手に入れた──これがはじまりだという説もある。  だが、古代オリンピック・ゲームの記録として最初にのこっているのは紀元前七七六年におこなわれた競技。その種目は競走だけだったが、のちに円盤投げ、レスリングなどが加わり、ギリシャじゅうから男たちがあつまってこれらの競技に参加した。開催が四年おき、というのもこの時代に定められていた。競技は神々をなぐさめるための聖なる行事であって、開会に先立って神官はブタをゼウスに、そして羊をペロプスのために犠牲として捧げた。しかし、三八八年、第二九一回のオリンピックを最後にこのゲームは途絶えてしまった。それというのも、ローマのテオドシウス一世がオリンピックを異教徒の行事と見なして廃止を命令したからである。   11月26日 ■ベンツのデザイン■乗用自動車のメーカーとしてK・ベンツ(一八四四年一一月二六日生)はフォードよりはやくその将来性を予見していた人物である。かれは一八八○年に効率のよい二行程エンジンを開発。これはオットーとランゲンのもっていた四行程特許にふれないための苦肉の発明だったが、このエンジンでベンツはみごとに成功し、一八八五年には二人乗りの三輪自動車を市場に送り出した。この第一号は馬力が弱く、いくつもの欠陥があったが、二年後にはあたらしい三輪車をつくり、これが決定版となった。ベンツはじぶんの故郷のマンハイムに本社を置き、パリに代理店を設けた。つまり、ベンツの車を買うための窓ロはふたつだけ、というわけ。この古典的三輪車はロンドン科学博物館にあり、一九五八年、これをうごかしてみたところ、みごとに時速一四キロで走った。  ベンツは一八九〇年に三輪を四輪にかえたが、そのデザインはその後二〇年にわたってすこしもかわることがなかった。ベンツはスピードよりも安全性に留意し、登坂用の低速ギアを一八九八年型からとりつけている。モデル・チェンジをしない、という哲学はこんにちもなお生きつづけているが、ほんらいベンツが目標としていた大衆車のイメージはいつのまにやら消えて、二〇世紀なかばには高級車になってしまった。 ■落第の価値■島崎藤村は、もともと作家志望だったわけではない。信州の名家に生まれた藤村は、維新で没落してゆく生家を復興すべく青雲の志を抱いて上京し、実業の世界を志した。少年期から青年期にかけてかれのめんどうを見た同郷の先輩吉村忠道も、藤村をじぶんの経営する針問屋の後継者として育てよう、とかんがえていたし、藤村もそのつもりでいた。  しかし、一七歳のとき、一高を受験した藤村はみごとに入学試験に落第してしまったのである。そのうえ、その前年には在学中の明治学院普通部でキリスト教の洗礼をうけていたから、浪人して再度受験、といったコースをたどらず、文学の世界に足をふみいれた。抒情詩にはじまり、『夜明け前』、そして未完の大作『東方の門』におわる藤村の文学的生涯はよく知られているが、もしも一高に合格していたら、かれは針問屋の経営者として生きたかもしれなかった。一九三五(昭和一〇)年一一月二六日、日本ペン・クラブが発足すると、藤村はその初代会長に就任している。   11月27日 ■S・アンダーソンの記憶喪失■アメリカの作家シャーウッド・アンダーソンの本業は、塗料製造会社の経営であった。ただ、昼間のしごとの単調さから逃れるために、しごとを終えると小説の創作に専念したのである。要するに、アメリカ版「二足のワラジ」作家だったのだ。  ところが、かれが三六歳になった一九一二年一一月二七日のこと、秘書にむかって口述中に、ある文章の途中で、突然、しゃべるのをやめて、いきなり事務室のドアをあけ、そとに出て行ったきり、消息不明になってしまった。  四日後に、アンダーソンは、クリーブランド市のドラッグ・ストアにしょんぼりとすわっているのが発見された。かれはさっそく病院に連れていかれたが、医師たちの所見によると、極度の過労とストレスが蓄積された結果、かれは完全な記憶喪失にかかってしまっていたのであった。  この四日間になにが起きたのか、かれは、その生涯にわたって、なんべんもひとに話をしたが、その話の内容は、そのたんびにかわっていた。つまり、かれにはこの四日間のできごとについての正確な記憶というものが、これっぱかしもなかったのである。だが、かれは、アメリカの現代の文学者として、やがて押しも押されもせぬ有名人となることができた。一九四一年、アンダーソンは急死した。その死因がかわっている。かれは、あるパーティで、オードブルに出たソーセージを食べ、そのソーセージにそえてあった爪楊子を過ってのみこんでしまい、それが気管に刺さって死んでしまったのである。 ■オニールと酒■作家の話をもうひとつ。劇作家のE・オニール(一九五三年一一月二七没)は一九三六年にノーベル文学賞を受賞するなど、多くの栄光に輝いているが、かれは無類の酒飲みでもあった。プリンストン大学の学生であったころから、オニールは酒が大好き。あげくの果てに、当大学の総長であったW・ウィルソンの邸の窓にビールのあきビンを投げたことによって停学処分をうけている。しかし、飲酒癖はなおらず、アルコール漬けになって死にかけたこともあった。  ニュー・ヨークでもマンハッタンの酒場に入りびたり。脚本を書きながらも酒を飲んだ。飲むと完全に前後不覚になり、友人たちにひきずられてやっと自宅にたどりつく、といったしだい。  ところが、三七歳のとき、精神分析医にかかったところ、医師はオニールがエディプス・コンプレックスから逃れるために酒を飲んでいるのだ、と診断した。その診断結果を知ったオニールは、突然悟るところあって完全に禁酒し、その後六五歳でその生涯を終えるまで一滴の酒も口にしなかった。   11月28日 ■肉食奇談■イエズス会の宣教師たちは日本にきて牛肉を食べはじめた。日本人にとってこの奇習はまことに不思議きわまるものであり、秀吉は、宣教師のコエリヨに対して「何故ニ耕作ニ必要ナル牛ヲ屠殺シ食用ニイタスヤ」と質問形式の抗議文を発している。このころ、牛肉のことをポルトガル語の Vaca をとって「ワカ」と呼んだ。しかし、いったん食べてみると、なかなか美味であり、キリシタン大名は堂々と「ワカ」を食べた。  牛肉を食べることは仏教の殺生戒にふれることでもあり、したがって、江戸時代をつうじて、たとえ西洋人であっても牛を食べることは禁止されている。バレンタインの『日本記事』によると、一六四〇(寛永一七)年一一月二八日に日本の将軍から牛の屠殺を禁じられたという記述があり、同様の記録は一六五八(万治元)年一二月二〇日にものこされている。  とはいうものの、一八世紀になると、当時の進歩的文化人たち、司馬江漢などは長崎を訪れて牛肉を試食し、その味がカモに似ている、と絶讃している。肉食厳禁はあくまでもタテマエ上の問題で、実質的にはかなり牛肉を食べることはおこなわれていたらしい。  豚は渡来動物である。出島屋敷の家畜小舎で飼育されていたが、のちには放し飼いになり、長崎の浜には豚だけでなく山羊などもうろついていた。必要に応じて紅毛人はこれらの家畜を屠殺して食べていたのだ。いや、そればかりではない、かれらが帰国するときには、牛や豚の肉を加工して長い航海の途中の食料ともしたのである。  こんなふうに、牛・豚・山羊などは長崎の西洋文化を象徴するものであったから、江戸のさる医家は、門前に山羊を一匹つないで宣伝材料にした。山羊は、この医師が長崎仕込みであるという噂を生み、それまでさびれていた医家が大繁昌したという。じつのところ、かれは蘭学など知らぬヤブ医者であった。 ■スカートのゴミ掃除■鹿鳴館が開館したのは一八八三(明治一六)年一一月二八日。にわかづくりの洋風紳士淑女がこの社交場に出入りしたが、当時のご婦人のスカートは床をひきずる超ロング・スカート。きれいに磨かれた床のうえならまだよろしかろうが、これで道路を歩いたらたいへんなことになる。  この種のスカートの全盛時代に、アメリカでスカートにどれだけのものがくっつくかを調査したデータがある。それによると街を歩いて帰ってきたある女性のスカートからは「二本の葉巻の切れっぱし、九本の巻タバコの吸いがら、一人前のブタ肉のパイ、四個の義歯、ヘアピン二本、陶製パイプの軸、オレンジの皮三切れ、猫の肉ひと切れ、ブーツの靴底が半分、わら、どろ、紙くず、その他さまざまの街頭のくず」が発見されたという。なんのことはない、スカートの裾で道路清掃をしていたわけだ。   11月29日 ■劣等生列伝■一一月二六日の項で藤村の一高受験の失敗を紹介したばかりだが、学業成績が劣悪で、しかも成功した人びとの数はやたらに多い。以下の列伝をごらんいただけば、どうやら悪いのは本人でなく、学校という制度であるらしいことがわかってくる。  まずC・ダーウィン。かれは幼いころ犬を追いかけたり、ネズミをつかまえたりすることに熱中し、学校の成績は最劣等。ダーウィンの父親は、家名を汚すもの、といってかれを叱りつけた。やっとの思いでエジンバラ大学の医学部に進学したが、ここでも落第ばかり。かれが博物学、そしてあの有名な進化論への糸口をつかんだのは「ビーグル号」で探検旅行に出たときである。  A・アインシュタインもひどかった。子どものころ、かれは満足にものをいうこともできず、ひとから質問をうけても、答えるまでながいあいだ時間がかかった。高校に進学しても数学以外の学科は落第点で、先生は「おまえはどっちみちロクな人間にはなれないよ」と断定した。かれはチューリッヒ工業大学への入学試験にも落ちて浪人。卒業はしたものの、かれを雇ってくれるところはどこにもなかった。  I・ニュートンの成績もまことによろしくなかった。かれは怠けもので、機械いじりだけが好き。生家の農場をどうにか切り盛りできたので、やっと学校に通うことを許された。クラスでは最低の成績だったが、ケンカに強いのだけが取柄であった。  芸術方面ではピカソ。かれは幼いときから絵をかくこと以外にはなんの興味もなかった。一〇歳で小学校を一時中退させられたが、そのときのピカソは読むことも書くこともできなかった。中学に進ませるについて、かれの父親が雇った家庭教師はピカソを「絶望的」と形容した。いくら勉強しろといってもピカソは断然拒否し、とりわけ、数学は見向きもしなかった。かれは美術学校に入学できたが、教授法が退屈なので退学し、あとは独力で画業に専念した。  詩人のハイネの成績も劣悪そのものであった。とりわけダメだったのが語学。フランス語、ラテン語などはもとよりのこと、母国語たるドイツ語文法もさっぱりわからなかった。ハイネの母親は、息子にむかって、せめてバカといわれないようにしておくれ、とたのんだ。 「トスカ」や「蝶々夫人」で有名なプッチーニ(一九二四年一一月二九日没)は教会音楽家の家に生まれ、音楽家になるべく運命づけられていたが、かれは音楽に興味がなかった。音楽の家庭教師をつけたが、いっこうに向上の兆しはなく、この子は能力がないのだ、ということにされてしまった。さいわいにして、二人めの家庭教師の人がらがプッチーニを目ざめさせ、そこからやっとかれのロマンチックな楽想が生まれてきた。  こんなふうにならべてくると、落第こそ成功のカギ、といいたくなる。浪人、劣等生諸君、万歳!   11月30日 ■葬儀の参列者数■きょうはW・チャーチルの誕生日(一八七四年)。かれは一九六五年に九一歳でその生涯を終えたが、かれの死後三日間にわたってウェストミンスター寺院に安置された遺体に別れを告げにきた人々の数は三二万人。また。かれの国葬の実況中継をテレビで見た人は、全世界で三億五〇〇〇万人にのぼる。  毛沢東の葬儀に記帳した人は三五万人。また天安門広場に参列した人は七五万人。葬儀の時刻にあわせて全中国人民はそれぞれの場所に起立して三分間の黙祷をささげた。人口を八億とみても、この人数はチャーチルの葬儀のテレビ視聴者の二倍をこえる。  J・F・ケネディの葬列の参加者は三〇万人。また議事堂内の棺を訪れた人は二五万人。さらにミサのおこなわれた聖マシウズ教会からアーリントンの墓地までの沿道にならんだ人の数は一○○万人であった。  だが、葬儀参列者の数はインドが最高である。ガンジーの葬儀には一〇〇万人。またかれの灰をガンジス河にまいたときには三〇〇万人。そして、およそ一億人がガンジスでその水に浸った。 ■イギリス発汗病■といってもたいていの人は知らない。というのは、この伝染性の病気は一五世紀から一六世紀にかけて何回か流行して、その後ぷっつりと消えてしまったからである。  この病気にかかった患者は、突然、悪寒とふるえからはじまり、発熱、嘔吐がそれにつづき、はげしい汗をかく。そして発病後数時間、ながくても二四時間で死んでしまう。死亡率はきわめて高く、一〇〇人中、助かるものはひとりあるかないか、というほど。その流行の第一回は一四八五年。ロンドンではあっというまに数千人が死んだ。第二回、第三回と、ほとんど一〇年おきぐらいにこの伝染病は流行したけれども、その発生地はつねにイギリス、それもロンドンである。そしてふしぎなことに、フランスやオランダなどに侵入しても、この病気に感染したのはことごとくイギリス人だった。イギリスでは地方によって、この病気で人口の半分が失われたこともある。オックスフォード大学は、この病気の流行期に六週間にわたって完全閉鎖した。  最後の流行は一五五一年。数日間で一〇〇〇名ちかくが死んだ。だがイギリス在住の外国人はひとりもこの病気にかかっていない。まさしく奇病である。したがって「イギリス発汗病」というわけ。ちなみに日本で伝染病研究所がつくられたのは一八九二(明治二五)年一一月三〇日。 [#改ページ]   十 二 月   12月1日 ■ハガキの起源■一八七三(明治六)年一二月一日、郵便ハガキが発売された。ハガキといってもこの発売当時のものは二つ折りの薄紙のもので、市内用は半銭、市外用は一銭、と二種類があった。 「郵便ハガキ」ということばを考案したのは、当時大蔵省紙幣局の職員であった青江秀という人物だったという。ただ、最初から「ハガキ」あるいは「はがき」と標記されていたために、それが「葉書」であるのか、それとも「端書」であるのかについて論議があった。こんなことはどうでもよろしい瑣末のことのようにきこえるが、公文書のなかでどのように書くかがしばしば問題になった。この論争に結着をつけたのは日本の郵便の生みの親ともいうべき前島|密《ひそか》である。かれはハガキは「葉書」であって、「端書」と書くのはまちがいだ、と断定し、その後、標記は「葉書」に統一された。  ところで、ハガキの一部に絵を描いた短信用の絵ハガキは、一八七二年にドイツのF・ロリッヒなる青年の着想によるものである。かれはスイスのチューリッヒの美しい風景六種をスケッチし、それを銅版画にして印刷し、チューリッヒのJ・ロシャーという人物が販売にあたった。しかし、このころの絵ハガキは、片面は宛名、片面の一部に絵をあしらい、その余白に文字を書く、という方式であって、こんにち使われているような、片面ぜんぶが絵あるいは写真という絵ハガキが登場したのはまず一九〇四年フランス、つづいて一九〇五年ドイツにおいてであった。こんなふうに絵ハガキは一九世紀のおわりから二〇世紀はじめにかけて急速に流行し、そのコレクターも一八九〇年ごろには登場している。   12月2日 ■「英雄」の「運命」■モーツァルトは後輩のベートーヴェンを若いときから評価していた。「かれはよくできる、いつの日か世界はベートーヴェンに注目するだろう」とモーツァルトは言ったのである。しかしそれにもかかわらず、ウィーンで音楽修業中のベートーヴェンの評価はあまりよろしくなかった。音楽教師の仲間うちでは、「あいつはだめだ、まともな音楽家にはなれない」というのがほとんど定評になっていたのである。  しかし、かれがダメだったのは、対位法を鉄則とする古典的作曲法にしばられていたからである。そうした伝統の枠を破って、ベートーヴェンがかれじしんの独創的な作曲技法を完成させたのは交響曲第三番である。この曲ができあがると、かれはみずからの崇拝するヨーロッパのあたらしい英雄、つまりナポレオンにそれを捧げようと決心する。かれはナポレオンに献辞を書き、このシンフォニーを「英雄」(エロイカ)と名づけた。ところが、あれほど尊敬していた市民主義者のナポレオンは、一八○四年一二月二日、おごそかに戴冠式をあげ、フランスの「皇帝」になってしまったのである。ベートーヴェンはそのニュースをきくと、裏切られた怒りから、ナポレオンヘの献辞をその場で破り捨てた。  かれの作曲活動はそれからいよいよ本格化するが、耳がだんだんきこえなくなってくる。「運命」すなわち第五交響曲はかれじしんの「運命」を予兆するものであったし、同時にかっての「英雄」の「運命」を告げるものでもあった。   12月3日 ■「アガサ」?■イギリスの女流ミステリー作家アガサ・クリスティの謎の失踪事件は「アガサ」という題で映画化されたが、一九二六年一二月三日、当時三六歳のクリスティは、彼女の夫が愛人をともなって週末旅行に出たことを知って、とたんに家を出た。翌日、彼女の運転していた自動車が道路上に乗り捨てられているのが発見され、警察は総動員体制でこの有名な女流作家の捜索にあたった。自殺説、誘拐説など入り乱れるなかで警察犬まで動員され、のべ一万五〇〇〇人の人びとが彼女を追ったが、行方は知れなかった。  失踪の一〇日後、しかしながら、クリスティは、ヨークシャー州の温泉の保養ホテルに宿泊していることがわかった。彼女は、失踪の当日から、このホテルに偽名で滞在していたのである。クリスティは、この期間中、まったくふだんの彼女とはちがう立居振舞いをしていたから誰にもわからなかった。おまけに彼女は、日々の新聞に報じられる彼女じしんについてのミステリーに、他の宿泊客といっしょになって興味深げに首を突っこんでいた、という。だが、この事件は、彼女が記憶喪失にかかっていたからではなく、きわめて意図的かつ意識的な行為であった。クリスティが、こんな突飛な行動に出たのにはふたつの理由がある。その第一は、この直前に彼女は母親を失い、すっかり気が滅入っていたからであり、第二は、夫の浮気へのつらあてをしたかったからであった。映画「アガサ」はその内容に関するかぎり、けっして真相を物語っているものではない。 ■切手のはじまり■ヨーロッパで最初に本格的な郵便制度がつくられたのはフランス。一四六四年のことだ。イギリスでは一六三五年に郵便が発足する。しかし、その料金を誰から、いつどんなふうに徴収するかというのは大問題であり、その手つづきはきわめて繁雑であった。それを一挙に解決したのがR・ヒル(一七九五年一二月三日生)である。かれは一八三六年、それまで距離と紙の枚数にもとづいていた料金計算法を廃止し、全国均一、そして書状の重さで料金をきめる、という方法を考案した。それに加えて、ヒルは料金支払いを前払い制にし、支払いの証拠として小さなラベルを貼りつけることを提案した。  この提案は一八四〇年にイギリス政府がうけいれ、その年から「ラベル」が発行された。これが「切手」のはじまりである。その合理性と簡便性は、さっそく世界各国の注目をひき、ブラジル、モーリシャス、アメリカなどがこれにならった。一八五四年になると、H・アーチャーが穴あけ機械を発明し、さらに、乾燥ゴム糊も登場してきたので、切手の使用はさらに便利になった。  日本では前島密がヒルの郵便制度にいたく感心し、一八七一年に新郵便制度を発足させた。最初の切手印刷を請負ったのは京都の松田玄々堂。四種、あわせて四三万枚の切手を玄々堂は三カ月で刷りあげている。   12月4日 ■郵便ポストとピストル■一八七〇(明治三)年一二月四日、太政官の通達で郵便制度が発足した。郵便物は馬車ではこばれ、東京から高崎のばあい、一日に二便が出て片道一〇時間を要した。しかし、夜行便には、馬車につんである為替金目当てに強盗が出没した。新島某という配達夫は、武州熊谷土堤で六人の強盗に槍で突かれたが、馬に鞭を当ててどうやら難をのがれた。この事件があって以来、配達夫には六連発のピストルが護身用に渡されることになったけれども、郵便強盗事件は続出し、配達夫が殺傷されることもしばしばであった。なお、ピストル取扱規則はきびしく、弾丸一発を紛失すると、三分の罰金が課せられたという。 ■マリー・セレステ号の謎■あまりにもよく知られた事件だが、一八七二年一二月四日、イギリスの商船デイ・グラシア号はニュー・ヨークからジブラルタルにむかう途中で一隻の漂流船を発見した。その船名はマリー・セレステ号という。デイ・グラシア号の船員たちがしらべてみると、この船にはひとりの人間ものっていない。完全に無人なのである。べつだん暴風雨その他の海難におそわれた痕跡もなく、船内のベッドや衣料品は乾燥していた。食糧もひと月ぶんくらいの量がのこっていたし、使いかけのカミソリには錆もなかった。つまり、ついさっきまでこの船には人がいたらしいのである。時計は水をかぶっていた。そして救命ボートはひとつものこっていない。どうやら、乗組員は、大あわてでこの船をはなれたもののようである。  デイ・グラシア号は、マリー・セレステ号を曳航してジブラルタルまで航海し、そこで精密な検査がおこなわれた。マリー・セレステ号の船長は、ニューイングランドのB・ブリッグスであり、かれは妻と幼児ひとりを同行し、七人の乗組員とともに航海していたことがわかった。だが、なぜ、突如としてこの船は無人になったのであろうか。諸説がいりみだれた。  まず第一に、発見者たるデイ・グラシア号の乗組員がマリー・セレステ号の乗員を殺害して、口裏をあわせたのだろう、という説。第二に、海賊におそわれたのではないか、という説。第三に、マリー・セレステ号の乗員ことごとくが伝染病で死んだのだろう、という説。第四に、巨大なイカにおそわれたのであろうという説……。  いずれにせよ、マリー・セレステ号は謎の船である。そして、この事件にかかわるすべての材料をあつめた「マリー・セレステ号」室は、ニュー・ヨークの大西洋保険会社によって維持されている小さな博物館として、依然として健在である。   12月5日 ■バーミューダ・トライアングル■といえばSFファンのみならず多くの人が知っている怪事件だが、最初の事件が起きたのは一九四五年一二月五日、第二次大戦がおわって、やっと世界がひと息ついたころであった。  この日、フロリダ州フォート・ローダーデール海軍基地を出発した五機の雷撃機は、通常の偵察飛行を開始した。コースはまず東に二五〇キロ、つづいて北に六〇キロ、そして基地に帰るという三角形である。時速三六〇キロで飛んでいたから、一時間あまりで帰れるはずの距離だったのだが、基地を出発して一時間半後に指揮官機から緊急無線が入った。「われわれの位置がわからなくなった。陸地が見えない」地上基地から西にコースをとるように連絡すると、こんどは、「どっちが西かわからない。なにもかも変だ。海面も異常だ」。そしてやがて編隊を組んでいたパイロットどうしの会話がきこえ、それっきり通信が途絶えた。  この異常事態を調査すべく、さっそく、マーチン型飛行艇が現場にむけて飛び立ったが、ふしぎなことに、この飛行機もその地点到着後五分で消滅した。翌朝から、沿岸警備隊の飛行機をはじめ、航空母艦までもが捜索を開始した。二一隻の艦船、三〇〇機の飛行機が動員されたが、行方不明になった飛行機の痕跡はなにも見つからなかった。もし墜落したのであれば、燃料の油が浮いていていいはずなのに、それさえも発見できなかったのである。  この事件からあと、この「魔の三角形」のなかで、たくさんの船や飛行機が「消滅」した。アメリカ海軍は一九六七年に五〇〇万ドルを投じてこの海域を徹底的に調査すべく、潜水艦隊までを動員したけれども、なにもあきらかにされていない。もちろん、事件の性質上、さまざまな科学者やアマチュアが、あれこれの理由を想定したが、真相はなお不明である。 ■ディズニー時計の値段■W・ディズニー(一九〇一年一二月五日生)はさまざまのアニメーション映画をつくると同時に、それらの映画の主人公をあしらったおもちゃだの雑貨だのをつぎつぎにつくっては発売した。そのひとつに、ディズニー時計がある。こんな世界にも蒐集家がいるもので、古いディズニー時計はたいへんな高値で取引きされている。一九七九年現在の相場を引用すると、一九三二年製のミッキー・マウスの描かれた時計は七五〇ドル、そして、三〇年代のディズニー雑貨はなんでも一〇〇ドルを下らない。初期のドナルド・ダック時計は三五〇ドル。念のためつけ加えておくと、これらの時計のもとの値段は三ドル五〇セントであった。   12月6日 ■コロンブスの誤解■一四九二年のきょう、コロンブスは西インド諸島のひとつ、ハイチに着いた。かれは、インド大陸を発見したと思いこんでいたから、タタール語の断片を語ってみたのだがさっぱり通じない。辛うじてコロンブスが知ったのは、ここの原住民がカニバレスということばを口にしていることだけだった。カニバレスとは、勇敢、敏速、といったようなこと。じぶんたちのことを言っているのか、あるいはコロンブスをほめているのか、それもわからない。  コロンブスは、ここの原住民が人喰い人種だ、という偏見をもっていた。かれは、このカニバレスということばから、人喰い人種を「カニバル」と呼ぶことにした。いまでも人肉食のことを「カニバリズム」といい、それは学問の世界での専門用語にもなっている。それも、もとをただせばコロンブスのかんちがいによるものだ。 ■電話と伝染病■和田倉門外・辰の口に電話交換局が設置されたのは一八九〇(明治二三)年一二月六日のことであるが、それから数日たって電話交換業務が開始されたとき、加入者はわずか一五五人だった。というのは、電話は通話とともに伝染病も伝わって危険だという評判が流布し、これを信じる者がいたからである。そこで実業家など八○○人ぐらいを招待し、電話の功労者である工学博士大井才太郎氏が自ら学理を説明したあと、係員がそのひとりひとりを訪問して勧誘してみても、「うちには小僧がいるから用があったらこれを走らせます。小僧は荷物まで運ぶが、電話ではそれができないから不便だ」と断わる人もいたという。結局、翌年になっても東京の電話加入者はそれほど増えず、わずか五〇〇人にすぎなかったのである。   12月7日 ■珍奇な海戦■ハワイ時間で一九四一(昭和一六)年一二月七日、日本帝国海軍は真珠湾のアメリカ海軍基地を奇襲攻撃。このへんのところはたくさんの書物や映画ですでにご存じのとおり。そこできょうは、あまり知られていないふしぎな海戦を二、三紹介しておこう。  まず、第一は騎兵の奇襲で敗北を喫した艦隊の話。一七九五年、オランダとフランスが戦っていたとき、オランダ海軍の艦隊は北洋で氷に閉ざされてしまった。砕氷船もなく、軍艦は身うごきできない。そこにラッパの音もいさましく、フランス竜騎兵が氷の上を突撃してきた。どちらが勝ったか。騎兵が軍艦ぜんぶを占領し、オランダはこれで完全に屈服してしまった。  第二は、ザンジバル島の海戦。一八九六年の八月、イギリス保護領のザンジバルのサルタンがイギリスに対して突如宣戦を布告した。折しもザンジバル港にはイギリス海軍の戦艦六隻が碇泊中。艦隊司令官H・ローソン提督は、宣戦布告の報をきくとすぐさま全艦隊に非常呼集をかけ、いっせいに砲門をひらいてザンジバルに艦砲射撃を浴びせた。この砲撃が三七分間つづいたところでザンジバルはイギリスに降服した。史上最短の戦争である。  第三話は間の抜けた海戦。これは一八四一年、アルゼンチンとウルグアイの艦隊が大西洋上で大海戦を展開したが、残念なことにウルグアイの海軍は砲弾がなくなってしまった。ウルグアイ海軍顧問のJ・コウなるアメリカ士官は、甲板にころがっている古いチーズのかたまりに気がつき、即妙の知恵でこのチーズを大砲につめ、砲弾がわりにアルゼンチン艦隊に至近距離から発射。突如として、粉と砕けたチーズが降りそそいだものだから、アルゼンチン海軍はなにがなにやらわからなくなって総退却。  海戦史にはおかしな戦訓があるものだ。   12月8日 ■必殺仕掛人■アメリカ独立戦争のスローガンは「撃たれたら撃ちかえせ」であった。つまり戦闘にあたって、みずからは攻撃しない、相手からの攻撃を待って、そこではじめて反撃をしよう、というわけ。戦争哲学ないし戦争道徳としてはなかなかみごとである。すくなくとも第三者からみると、大いに男らしくみえる。士気を高めるにもよろしい。  しかし、それ以来、アメリカはこの哲学を貫徹するため、相手を挑発して、先に手を出させるという方法を採用してきたようである。たとえば、南北戦争のときには、南カロライナ州にリンカーンが軍艦を派遣し、かねてから紛争のまとになっていたサムター要塞に物資を補給。それに怒った南部諸州がこの軍艦を砲撃したのがそもそもの発端だ。それに対して「撃ちかえす」というのがヤンキーがわの大義名分なのである。  米西戦争だって、手口はおなじである。スペインはキューバに自治権をあたえるべく一八九七年以来努力をかさねてきたが、アメリカは急進的グループを支援し、キューバ併合を目ざした。そしてキューバ在留アメリカ人を保護する、という名目のもとに軍艦メーン号を派遣。そしてメーン号が原因不明の爆沈をとげると、それをスペインがわの陰謀、ときめつけ、ここでも「撃ちかえし」哲学で戦争に突入した。つまり、アメリカは相手方を挑発して戦端をひらかせる仕掛人なのである。  一九四一(昭和一六)年一二月八日の真珠湾もそうだった。真珠湾攻撃は「奇襲」であったが、ルーズヴェルト大統領は、なにもかも見とおしていたらしい。かれは日本が一二月一日に攻撃をかけてくるだろう、と予想していたのである。じっさい、かれは「われわれが過大の損害を受けないで日本に第一発を撃たせるにはどうしたらよいか」と二月二五日に首脳部をあつめて相談していたのであった。そして、日本が攻撃をかけると、おどろいたような顔をよそおって「リメンバー・パール・ハーバー」というわけ。 ■浮世絵の衝撃■「浮世絵」ということばが文献のうえで最初にみえるのは一六八二年。その絵画的様式ないしジャンルからいうと、大和絵が世俗化して一種の文芸復興をとげたもの、とみることができる。浮世絵師としてまずその基礎をかためるのは菱川師宣、そしてそれにつづいて鳥居派の祖、鳥居清信らが登場してくるが、その全盛期たる十八世紀の浮世絵師のなかに勝川春章(一七九二〈寛政四〉年で一二月八日没)がいた。かれは、鳥居派の様式的画法に対抗して、きわめて写実的な手法で歌舞伎俳優の似顔絵を描いた。  この春章の前衛的実験に力づけられたのが写楽や豊国、そして、衰退期には画材こそことなるものの、北斎や広重のような大胆な構図が生まれてきた。これらの浮世絵師の作品は、海をわたってヨーロッパにいたり、フランスの画壇に大衝撃を与えた。たとえば、マネは、「ゾラの肖像」のなかに国貞の相撲絵を描きこんでいる。この作品をみると、ゾラがじぶんの書斎のなかに浮世絵をかけていたことがわかるし、またその情景をマネが意識的にとりいれたこともわかる。ゴッホにいたっては、浮世絵をみて感奮興起し、みずから英泉の絵を摸写したり、また構図のなかに浮世絵技法をとり入れたりした。ドガやゴーギャンも浮世絵から決定的な影響をうけている。   12月9日 ■表札のはじまり■一八七六(明治九)年のきょう、各戸に表札を掲示すべし、という布達があった。その理由はいくつかあるが、雑然と発達した江戸の街区がそのまま東京にひきつがれ、しかも人口が急激にふえたものだから、どこに誰が住んでいるやら見当もつかず、治安上も、また日常生活上も多くの不便があったからだ。  ただし、初期の表札は、たんに住居表示のみならず、一種の身分証明書のような役割をもはたした。つまり、たんに何某、と居住者名を書くのでなく、たとえば「福岡県士族何某」とか「山口県平民何某」とか、その出身を示したり、「警視庁巡査何某」といったふうに職業を示したりする表札も多かったのである。日本、とりわけ東京は明治以来なんべんも地番改正をおこなったが、土地の登記台帳の番号と、それらの土地の排列の順序とはめったに一致することがなく、したがって、何丁目何番地といった住居表示は、ひとの家をさがしたりするときの手がかりとしてはおおむね実用的でない。いうまでもないことだが、西洋では何通り何番地というだけでその所在ははっきりわかる。だから表札というものは必要ではない。 ■鍵と錠の話■「脱出芸術」家フーディニのことは一〇月三一日の項でみたとおりだが、フーディニのような超人的天才でなくても、多少の知恵と技術のある人間なら、簡単な錠くらいこじあけてしまう。貴重品をもった金持と、泥棒とは、むかしから、錠と鍵をめぐって知恵くらべをつづけてきたというべきであろう。  錠を最初に発明したのは中国人であって、その歴史は紀元前二〇〇〇年までさかのぼることができるが、近代的な錠の発明者はJ・ブラマー(一八一四年一二月九日没)である。これは錠のなかにいくつもの突起と溝を設け、それらの形に正確にはまりこむ鍵でなければあかない、という仕掛けになっていた。刻み目が少しでもちがえば、この錠はあけることができないわけだから、かれの発明は画期的であった。この錠は発明者の名前をとって、一般にブラマー錠と呼ばれる。ブラマーは一八世紀から一九世紀初頭にかけてのイギリスの発明家であって、錠のほか、水力圧搾機械、製作機械、それに水洗便所まで発明している。  ブラマーにつづいてポーツマスの金物屋C・チャップがそれに改良を加えてチャップ錠をつくり、さらに一八六〇年代になると、アメリカ人のL・エールが有名なエール錠をつくった。しかし、それだけくふうしてみても、ふつうの錠はもとよりのこと、厳重な金庫の錠まで、あけてしまう犯罪者がいる。完全な錠は、じつのところ、まだできていない。   12月10日 ■自転車の歴史■二輪車を人力で動かそうとこころみた最初の人物はフランスのド・シヴラック。その試作品は、子どものオモチャの馬車のごとく、馬をかたどった木製の台に車輪をつけたもので、シヴラックは一六九〇年ごろこれに乗り、両足を地面で蹴りながら走った。かれはこの車を「セレリフェール号」と名づけて愛用したが、残念ながら方向転換用のハンドルがなく、その操作性において基本的な欠陥があった。  これにハンドルをつけたのはドイツのK・ドライス(一八五一年一二月一〇日没)である。かれのつくった「ドライジーネ号」はどうにか方向は転換できたが、うごかしかたはシヴラックのものとおなじ。しかしこれでどうやらこんにちの自転車の原型ができあがった。  ドライスの自転車ができたのは一八一七年。そして、それから二〇年ほどたった一八三九年に、イギリスのK・マクミランが動力源としてペダルを考案したが、あまり注目をひかず、「ドライジーネ号」は依然として健在だった。一八六一年、E・ミショーというフランスの青年が一台の「ドライジーネ号」の修理を依頼され、ふと前輪にクランクをつけたら、というアイデアにとりつかれた。マクミランの考案と似ていたが、とにかくそれを実行にうつしてみるとなかなかおもしろい。ミショーは、この新製品を「ヴェロシピード号」と名づけ、世界における最初の自転車製造業者になった。  ただ、この方式だと単純なクランクが車軸についているだけだから、ペダルの一回転はそのまま車輪の一回転であるにすぎず、そのスピードをあげるためには前輪の半径を大きくする必要があった。自転車に乗る人は、この不安定な前輪のおかげで、一日に数回ころんだというが、自転車に乗ることは実用をかねたあたらしいスポーツとしてヨーロッパで大流行。それはシャーロック・ホームズ探偵も「美しい自転車のり」の事件を解決していることからもわかる。  チェーンをつけて、ペダルと車輪の回転比を上げる、という画期的な発明をしたのはJ・スターリー。これは後輪がふたつついた三輪車で、その発明は一八八五年のことだ。  日本では一八七一(明治四)年ごろ、「ドライジーネ号」を西洋の本のさし絵で見てさっそく模造した人物がいたが、それから五年ほどたつと、数台の自転車をもってそれを時間貸しする商売が秋葉原のあたりに登場している。これらはことごとく、本のさし絵にヒントをえた純国産品だった。  西洋から自転車がはじめて輸入されたのは明治一五年。このころから日本は自転車ブームになり、宮武外骨は、一年間の学費として国許からもらった三〇〇円のうち、一七〇円を投じて舶来自転車を買い、それを乗りまわして青春時代をすごした。なお、当時、自転車は人力車とおなじ税率で課税されている。   12月11日 ■沢庵の起源■一六〇九(慶長一四)年、いわゆる「紫衣事件」がおこり、朝廷と幕府とのあいだの政治問題にまきこまれて沢庵和尚(一六四五〈正保二〉年一二月一一日没)は、出羽の国上の山に流された。こんにちの山形郊外、上ノ山温泉である。ここでは、日本の他の北国の農村におけるのとおなじように、雪深い冬にそなえて秋口から野菜の漬物がつくられていた。流刑中の沢庵は、農家の人びとといっしょに研究工夫をかさね、干し大根を糠と塩で漬ける「貯え漬け」を考案した。冬のあいだのビタミンC補給源として、これはみごとな保存食品であった。その後、罪をゆるされて、沢庵は江戸品川の東海寺の住職となったが、ある日、三代将軍家光がこの寺を訪ねた。急なこととて、接客の方法もなく、沢庵は「貯え漬け」で家光をもてなしたところ、家光は大いによろこび、これを「沢庵漬」と名づけたらよかろう、といった。これが沢庵漬のはじまりである。  なお、沢庵には「たいこうのものとは聞けど 糠みそに 打ちつけられて しほしほとなる」という歌がある。たいこうとは大香、つまり、大根のことであって、これを糠みそ漬けにすると、さっぱり漬けあがる、といったような意味である。沢庵がこの漬けものにどれだけの興味と自信をもっていたかが、この歌からもわかるだろう。だいたい、精白米は、このころの新製品であり、それまでは日本人は玄米を食べていた。精白によって得られた米糠を漬けものに利用した、というのが、いわば沢庵漬の技術革新のミソだったのである。  なお、沢庵漬には各地方によってさまざまな変種があり、こんにちでは、渥美半島の農家が大量生産にのり出し、年間に一億数千万本の沢庵漬をつくっている。他の地方でも、もちろん沢庵漬を生産しているわけだから、日本人は平均して、すくなくとも年間に二本か三本の沢庵を食べている、ということになる。 ■最初の自動車ショー■昨日の項でみたように、一九世紀後半は自転車が完成し、かつ同時に自動車もそろそろ産業化への道を歩みはじめていた時代であった。そこでこの二つのあたらしい乗物を展示するため、一八九四年一二月一一日、パリのシャンゼリゼ通りで「国際自動車、自転車展示会」がひらかれた。これが「自動車ショー」のはじまりである。もっともこの時代にはメーカーといってもベンツ、ダイムラーなど数社しかないうえ、会社といっても町工場にすぎず、また、自動車を買う人などもそう多かったわけではない。一般市民にとっては、これは啓蒙的な工業博覧会のようなものとしてうけとられたにすぎぬ。新車発表会や、自動車ショーがお祭りさわぎになったのは一九三〇年以降、デトロイト資本が急成長をとげたときからであった。   12月12日 ■観音さま縁起■一二月一二日は東京浅草観音さまのスス払い。といっても、ここに祀られている観音像は高さ二〇センチほどの小さなもの。むかし漁師が、今日の東京湾内で網を打ったところこの観音様がひっかかった、という伝説がある。スス払いはその観音さまを安置した本堂の建物の掃除ということだ。  観音さまというのはお地蔵さまとならんで民間にしたしまれている菩薩のひとつで、いわゆる観音経にその縁起がくわしくのべられている。観音さまは三三種に変身なさり、観世音菩薩、とロで唱えるだけで人は苦難から救われるといわれる。日本への渡来は古く、飛鳥時代の仏像には観音像がいちばん多い。観音さまが三三の変身をとげられる、というところから西国三三カ所めぐりという巡礼の習慣がはじまり、類似の巡礼が坂東、秩父などにも成立し、観音信仰は深く民衆生活の中に浸透した。  なお、一二月一五日からは観音さまの境内でシメ繩その他お正月の縁起ものを売る「ガサ市」という露店営業がはじまる。また、門前市としての仲見世は、一八八五(明治一八)年一二月二七日、東がわ八二軒、西がわ五七軒、合計一三九軒の店舗を常設して開業した。 ■涙のマリア■さて東洋の観音に対して西洋のほうではマリアさまがいらっしゃる。いずれも慈母イメージという点で共通するのみならず、歴史家のなかには観音とマリアのあいだに文化交流の痕跡をみとめる人もいるし、弾圧時代のキリシタンは、しばしば観音像にマリアを仮託し、いわゆるマリア観音をつくった。  新教徒、とりわけカルヴィン派はマリア信仰を偶像崇拝として排斥したが、カトリック教国では聖母マリアはキリストと共に礼拝の対象となっており、カトリック教会にはかならずといっていいほどマリア像がある。ところでメキシコ・シティーからほど遠からぬところにあるガタルーペの教会にあるマリアさまは、ときどき、血の色の涙を流されるので有名だ。からだのぐあいの悪い人、身体障害の人をなおしてくださる、というのでガタルーペのマリアさまを拝みにゆく人は絶えない。なかには、何千キロにもわたって不自由な足をひきずり、教会の石だたみを血で染めながら礼拝にゆく人もいる。   12月13日 ■鉛筆の起源■スイスの学者K・ゲスナー(一五六六年一二月一三日没)は植物学、動物学、言語学、考古学と多岐にわたる研究をのこした博物学者だが、かれは一五六五年『ドレルム・フォシリウム・フィグリス』という書物を書き、そのなかでイギリスのカンバーランドのボローデルという谷で黒鉛を発見し、それを木にはさんで筆記用具とした、と記述している。これが鉛筆についての最初の文献的記録だ。  その後二世紀ほど、鉛筆の歴史には空白時代がつづくが、一七六〇年、ドイツのカスパー・ファイバーがシュタインではじめて鉛筆製造を開始した。この地方はその後もいわゆるババリア鉛筆の産地となり、こんにちも高品質の鉛筆を生産しつづけている。  つづいて一七九五年、フランスのコンテが黒鉛をいったん粉にしてから粘土とまぜて窯で焼く方法を開発した。現在の鉛筆はこのコンテ法の延長線上にあり、また、コンテという名前は、画家たちのあいだではデッサン用の鉛筆といった意味でほとんど普通名詞化している。  日本では明治六年、オーストリアの博覧会に出張した藤山種広、井口直樹のふたりが鉛筆製造を研究し、同一〇年、内国博覧会に出品するとともに、その製法を小池卯八郎という人物に伝えた。ここから国産鉛筆がはじまるのだが、小池は鉛筆製造の事業化に失敗した。本格的にこの業界を軌道にのせたのは河原徳右衛門という人。河原は独力で鉛筆の製法を開発し、明治一四年ごろには一〇〇人ちかくの工員を使うほどまで成功した。  蛇足ながら、鉛筆用の材料としてもっともすぐれているとされるのは「エンピツビャクシン」という常緑高木で、北アメリカに野生する。   12月14日 ■江戸のクイック・フード■きょうは義士祭。赤穂四十七士は吉良邸討入りのまえに目立たぬように蕎麦屋の二階にあつまり、そこで身仕度をととのえて勢揃いした、ということになっているけれども、こういう店構えの蕎麦屋のほかに、「けんどん」という飲食の形態があった。「けんどん」とは「慳貪」と書く。いまでも、「突慳貪」ということばで残っているように、要するに無愛想で、ときには意地悪、といったような意味。  この種の小飲食店は、蕎麦、うどん、飯、酒など、ことごとく一杯盛り切りにして、客に出すが、いっさい愛想も言わず、お代りをすすめもしない。この方式をはじめたのは江戸瀬戸物町の信濃屋という店だが、『本朝世事綺談』によると、この方法だと、お客のほうも気をつかわずにすむし、店の経営上も、給仕人を雇ったりすることができる。お互い、あいさつさえもせず、食事は事務的にさっさとおわる。「そのさま慳食なる心、また無造作にして倹約にかなひたりとて倹飩と書くと云ふ」とある。  この「けんどん」は一六六二(寛文二)年ごろからはじまり、庶民の食生活文化のなかで流行した。こんにちのハンバーガーその他クイック・フードの先駆というべきであろう。おもしろいことに、こういうものが巷間流行しはじめると、武士だの貴人だのも興味をもつようになる。そこで、当初の精神がだんだんと歪んで、ついには「大名けんどん」などというふしぎなものも出現することになった。大名をふくむ上流人士が利用した、というような意味であろう。  ちなみに、「けんどん」におけるもっとも人気のあった食物は蕎麦であった。その結果、数年のうちに、「けんどん」とはすなわち蕎麦を意味するようになり、浅草などでは、右を向いても左を向いても「けんどん蕎麦」の店、といった過当競争さえ生まれた。ここから江戸の蕎麦ブームがはじまるのである。 ■大統領の歯科医■歯科医に行くとかならず使われるのが小型ドリルである。歯を削ったり、穴をあけたり、けっして愉快な機械ではないけれども、あのドリルがなかったら、歯の治療はさらに苦痛にみちた経験になるにちがいない。  このドリルを発明したのはボストン生まれのJ・グリーンウッドなる人物。かれは船乗りとしてその人生を歩みはじめ、やがて船長となったが、手先が器用でいささかの医学知識があったおかげで、いつのまにか歯医者になってしまった。その技術を買われて、グリーンウッドはG・ワシントン大統領(一七九九年一二月一四日没)に招かれ、大統領の歯科主治医となった。かれはカバの歯や象牙をこまかく細工してワシントンの入歯をつくったが、一七九〇年、母親が使っていた糸車にヒントを得て回転ドリルを作った。  それまでも、宝石職人の使うようなドリルを歯科医が応用したことはあったが、主体を固定させた回転ドリルは、歯科の技術史の大革命であった。グリーンウッドの発明をさらに展開させたのはC・メリーで、かれは一八八五年にケーブルつきドリルで特許をとっている。  ちなみに宝石の細工と歯科の技術とのあいだには、類縁性があるらしい。日本のサンゴ細工を洗練させたのは、ある職人が歯科で治療を受けながらその機械に着目し、さっそく歯科用ドリルを買ってサンゴの細工を実験してみたことがその契機になっている。   12月15日 ■螢光灯の誕生■キューリー夫人の先生にあたるH・ベクレル(一八五二年一二月一五日生)は放射能の発見者であったが、この方面の実験研究はもっぱらキューリー夫人にゆずり、じぶんは希薄ガスをつめたガラス管のなかで放電させる、というあらたな電灯の開発に専念しはじめた。ガラス管のなかにさまざまな螢光物質、つまり放電によって光を発する物質を塗ると、白熱電球とはちがった光線が得られるのである。かれが最初にこの実験に成功したのは一八五九年のことであった。  いったんこの原理が発見されると、世界じゅうの科学者がさまざまな物質の研究をはじめた。別項(上巻・一月五日)でのべたネオン管もそのひとつである。  これを日常生活のなかで実用的に使用できるようなものに近づけたのはアメリカのA・コンプトンである。ゼネラル・エレクトリック社に籍を置くコンプトンは一九三四年、あわい青味を帯びた螢光ランプの製作に成功。これは在来の白熱電球にくらべると電力消費もはるかにすくない。螢光灯のばあいは、熱エネルギーとなって発散される電力が皆無にちかいのである。コンプトンの発明は一九三九年のニュー・ヨーク世界博で紹介され、いよいよ大衆マーケットヘ、と意気ごんだところへ第二次世界大戦が勃発した。そのため一〇年ほどの空白が生まれたが、一九五〇年代からは、世界の照明の主流は圧倒的に螢光灯に移行したのであった。ベクレルの実験からおよそ一世紀後に、この照明技術は開花したのである。 ■年賀状の起源■きょうから年賀状の特別取扱い開始。いったい、年賀状交換というのはどんなふうにしてはじまったのであろうか。  日本ではむかしから新年の回礼という風習があり、となり近所から村落共同体、さらに本家分家などのあいさつまわりがおこなわれた。それぞれの家では蓬莱飾りを三方の上にのせ、回礼者はその三方に手をふれて帰ってくる。これは、新年の共同飲食を象徴化・儀式化したものといわれる。鎌倉・室町の時代には宿将や老臣たちが将軍を招いて椀飯《おおばん》振舞いした。こういう共同飲食が新年行事には欠かせなかった。  ところが明治時代になると、回礼は簡略化され、家を訪ねて名刺を置いてくるだけ、といったようなことになり、さらに郵便制度が発達してくると、名刺を封筒にいれて送る、ということになった。それがさらに簡略化されたのがハガキによる年賀状というわけ。  いっぽう西洋ではクリスマス・カードというものがはじまった。このカードを発送した最初の人物はイギリスのH・コール。かれはクリスマスを祝う手紙を出すのにあまりに忙しく、一八四三年にJ・ホースレイという画家に依頼して石版画で一〇〇〇枚を印刷した。クリスマス・カードが商業的に発売されたのは一八六二年。そしてそれから一〇年ほどでカード交換は爆発的なブームとなり、一八八○年になると、郵便局は「クリスマス・カードは早目に出しましょう」という標語をかかげるようになった。日本で年賀状をきょうから取扱うのも同じ理由による。   12月16日 ■幽霊の宴会■一九世紀のはじめ、インドのボンベイ州プーナの統治者であったバジラブ二世は毎夜悪夢にうなされた。かれの見る夢のなかには、ナラヤンラブなる人物があらわれ、バジラブ二世の父にあたるバジラブ一世にたいする恨みつらみを叫びつづけるのである。夢枕に立つナンヤンラブによると、バジラブ一世はたいへんな暴君で、何人もの人間を殺した。ナンヤンラブもそのひとり。親の罪を子がひっかぶるいわれもないが、こんな亡霊に悩まされるのはたまらない。バジラブ二世は夢のなかで亡霊にむかって、それではどうしたらよろしいのですか、と問うた。  亡霊は答えていわく、もしもわれらの霊魂をしずめようとするなら、これまでに死んだブラーマン(高級の僧侶)一〇万人の魂を呼びもどし、酒食をもってもてなせ。たいへんな鎮魂式の注文である。亡霊のための宴会などというのは前代未聞だし、ましてや招くべき客が一〇万人というのもめちゃくちゃだけれども、悪夢から解放されるためならこれもしかたがない。そこでバジラブ二世は、鎮魂の大宴会をもよおすことにした。一〇万人を収容する宴会場などあるはずもないから、場所はプーナの大草原ということになった。山海の珍味をあつめ、一〇万人ぶんの宴席がしつらえられ、一万人の給仕人があたかも生ある人をもてなすのとおなじようなしかたで、一○万の亡霊がすわっているとおもわれる無人の席に食物を配った。バジラブ二世は正面にひとりすわって亡霊たちにあいさつし、親の罪を謝した。  領地内のあちこちの谷からあつまった亡霊たちは、どうやらこれで満足したらしく、この大宴会のあと、バジラブ二世は安眠することができた。この歴史的大宴会が催されたのは一八一六年一二月一六日のことである。 ■山手線開通■東京の旧市内を環状に走る山手線の開通は明治四二年一二月一六日であった。といっても、このときに開通したのは、烏森駅、すなわち現在の新橋駅から品川、渋谷、新宿を経て上野まで、という馬蹄型の路線であって、完全に環状線になったのはだいぶあとのことだ。上野・新橋間は、こんにちほどのことはないにしても商店や官庁が立ちならんでおり、工事に手間がかかったのであろう。  その当時の山手線の沿線風景は翌日の新聞記事にくわしいが、目黒から池袋あたりまではおおむね雑木林であったり、牧草地であったり、という田園風景の連続であった、とされている。この新設の鉄道は、一五分おきに発車し、単車運転、つまり、連結車なしで走り、一輛の定員は九〇人であった。ちなみに、現在、その一部をのこしている新橋駅はこの時代に全面的に改築されたものであって、日本最初の新橋・横浜間をむすんだ鉄道の新橋駅は、完全にその姿を歴史のなかに埋めてしまった。わずか数枚のこっている写真や錦絵から、この最古の新橋駅をうかがうほかないが、最近、建築史家や技術者がコンピューターの力をかりて、ほぼ正確とおもわれる復元図をえがくことに成功した。 ■酔っぱらいの歴史■一七七三年一二月一六日の夕方、ボストンの印刷工B・イーデスの家におよそ五〇人の人びとがあつまった。かれらはイギリスの植民地支配に不満をもつ独立主義者たち。そして、その日、ちょうどボストン港に碇泊中のイギリスの商船三隻を襲撃しようという計画を立てた。意気をあげるため、イーデスは大量のラム酒をはこび出し、全員ことごとく酔っぱらった。その酔いの勢いにのって、かれらは大さわぎをしながら港にむかい、船荷の茶を海にほうりこんだのである。これが有名なボストン・ティ・パーティで、ここから独立戦争がはじまるわけだが、この五〇人の独立の闘士たちは、泥酔状態で茶箱をはこんだものだから、二日酔いになったり、本格的な病気になったりしてしまった。  酔いにまかせての歴史的大事件はほかにもいくつかある。たとえば、リンカーン大統領を暗殺したJ・ブースは、予定の計画とはいえ、その決行の当日、ハシゴ酒をし、すくなくとも一本のブランデーと、かなりの量のウイスキーを飲んだ。二軒目の酒場には、リンカーン大統領のボディガード、J・パーカーが居合わせたが、かれも泥酔状態で、したがって大統領の身辺警護は完全に空白だったのである。  西部劇でおなじみのカスター将軍のひきいる第七騎兵隊の全滅も酔っぱらいと関係している。すなわち、この騎兵隊の副官M・レノ大佐はアル中で、つねに半ガロン入りのウイスキーのびんを携行していた。勇将のもとに弱卒なし、のたとえのとおり、この部隊の兵士たちも酒好き。戦闘のおこなわれる四日まえに、折から付近の河でウイスキーを満載した船を見つけ、したたかに飲みつづけた。そのあげくの戦闘であったから、戦場にはアルコールのにおいが立ちこめ、兵士たちの死体のかたわらには、ウイスキーの入った水筒が散乱していた。   12月17日 ■ゲームあれこれ■きょうから羽子板市。羽根つきあそびというのは室町時代にはじまったものらしく、敗けたほうは酒を飲まなければならない、という罰則をともなった。この罰則は子どもの羽根つきでは顔に墨を塗る、というふうに変形し、江戸時代には庶民のゲームとして大流行した。  ところで、羽根つきとならんで、正月のゲームに「双六」があるが、こちらのほうはその歴史がきわめてふるい。すなわち、このゲームはチェスとおなじくまずインドにはじまり、六世紀ごろには中国大陸を経て日本に渡来している。その当時の双六は、一般に「本双六」と呼ばれるもので、競技者はおたがいに一五の駒を持ち、竹筒のなかに二つずつサイコロを入れて振り出し、その出た数にあわせて盤上をひとまわりさせ、相手の陣にぜんぶあげてしまった方が勝、というわけだ。これを「双六」というのはサイコロの目がふたつとも六が出ると勝つ確率が高いからである。このゲームがいったん渡来するとこれに熱中する者が多く、すでに『日本書紀』の持統天皇元年一二月の項に「雙六を禁断す」という記事がみえるほどにブームとなっていたらしいし、その後も双六はくりかえし禁制となっている。たんにゲームをたのしむだけでなく、それに金銭を賭けるバクチがここから展開するようになったからだ。そして、その後、双六は絵双六に進化したけれども、サイコロだけはさまざまに転用されるようになった。したがって、日本賭博史の研究によると、日本のバクチの根源は双六にある、とされている。  この双六は、しかしながら、東洋だけのものではなく、インドから西方にもひろがった。その点で双六はチェス(一一月二〇日の項参照)とならんで、世界的ひろがりをもった数すくないゲームというべきであろう。こんにち「バックギャモン」なる名前で呼ばれているのは、じつのところ、日本でいう「本双六」にほかならず、要するに西洋経由のあらたな名前で本双六が復活したということになる。  ゲームの伝播でおもしろいのは麻雀。これはもともと、中国で紙製のトランプが長江の船旅で風に飛んでしまう、というのでつくられたものともいい、また、清朝のころ、後宮の女官たちがつれづれなるままにくふうしたゲームともいうが、日本に入ってきたルートはアメリカ経由である。つまり、中国人の移民が麻雀をアメリカに持ちこみ、それがアメリカ人のあいだで流行しているのを渡米中の日本人が持ち帰った、というわけ。これがさかんになったのは大正時代以後のことである。   12月18日 ■電気医療のこころみ■平賀源内(一七七九年一二月一八日没)は一七七〇(明和七)年、長崎におもむいた。これはかれにとって、二度目の長崎遊学だが、このときひとつのふしぎな機械を見つけて買い求めた。これは破損した発電機だったのだが、誰にきいても、それが何であるかさっぱり見当がつかない。通訳にもわからないし、オランダ人にもわからない。いったいどういうものなのか、源内は七年の年月をついやして研究をかさね、やっと修理を完成させた。  この発明のヒントになったのは、後藤梨春著『紅毛談』であって、この本によると、なんでも、エレキテルなるものを機械からとり出し、それを使えば病人が痛みを感じている部分から熱を奪うことができる、という。つまり、エレキテルは、まず一義的には電気医療機器なのであった。源内はこの「病を治する器」は「オランダ人といへども知る者は至て少なく、もとより朝鮮唐|天竺《てんじく》の人は知らず、いはんや日本|開闢《かいびやく》以来はじめて」のこと、としるし、服薬療法とちがって人体に害がないことを強調して、その電気療法を医師千賀道有にすすめたりしている。  源内のエレキテルの話はあまりにも有名だが、かれが電気というものに物理学的な観点から興味をもったのでなく、むしろ治療医学の立場から接近したという事実はきわめて重要である。源内は、西洋科学をつぎつぎに消化した人物であったけれども、その基本になっているのは本草学であり、エレキテルは、かれにとっては、新種の本草学の一部ということだったらしい。また、かれはエレキテルの発見に先立って一七六五年、はじめてオランダ人に温度計を見せてもらい、二年後にはみずからおなじものを製作している。源内は江戸時代が生んだ傑出した科学者であり、さまざまなことに手を出したが、そのもっとも中心的な関心は医学と医療にあったようなのである。 ■ヴァイオリンのはじまり■絃楽器のなかでいちばん古いのはハープであって、ウルの遺跡でも発見されている。いまから五〇〇〇年ほどむかしのことだ。  しかし、さまざまな絃楽器が開発されたのはルネッサンスの時代であって、まずペルシャでつくられたリュートが「シターン」「ギターン」などと呼ばれるものに発展し、そこからギターが生まれた。こんにちみられるような形式のギターの決定版をつくったのはA・トレース。一八五四年のことである。  以上の絃楽器は爪あるいは指で奏でるものだが、いっぽう、絃の張りぐあいを調節しながら弓でひく楽器は古代インドの「ジャバ」という楽器をその起源とし、それは中央アジアから中国にむけては「胡弓」という名で知られるものとなった。いっぽう、西洋では一五世紀ごろから「レベック」とか「ヴィオーレ」と呼ばれる楽器が出現し、A・アマティの一家が楽器としてより洗練されたものをつくりはじめ、アマティの二代目、ニコラの弟子であったストラディヴァリウス(一七三七年一二月一八日没)がヴァイオリンを完成させた。かれはギターをも製作し、そのうち二本はこんにちものこっている。   12月19日 ■ベーリング海峡横断■ベーリング海峡はその幅およそ一〇〇キロ、水深約五〇メートル。太平洋の北端のベーリング海から北極海につながる。海流の速さは時速約一キロといわれている。冬季の結氷中はこの海峡は氷にとざされるし、地球物理的にシベリアとアラスカとはきわめて近いから、かつてシベリアを経由して蒙古族がベーリング海峡をこえてアメリカ大陸にいたり、それがいわゆるアメリカ・インディアン、あるいはインディオと呼ばれる民族になったのはご存じのとおり。要するにかれらは、われわれと体質人類学的に共通した同一の人種なのである。  だが、一九世紀のはじめにも、ベーリング海峡を歩いて渡った人物がいた。その人はラッセル・ファナムなるアメリカの陸軍大佐で、かれは一八一二年ミズーリ州のセント・ルイスからロシアのレニングラードまで単身徒歩旅行をこころみて成功した。全行程一万キロ。もちろん、凍りついたベーリング海峡を渡ったのである。  さて、ベーリング海峡の発見者は誰だったか。V・ベーリング(一七四一年一二月一九日没)という答はまちがい。ここは一六四八年にS・デジネフが発見した。ベーリングは一七二八年にこの海峡をはじめて船で通過しただけなのであった。 ■なにゆえの「未完成」か■シューベルト(一八二八年一二月一九日没)の「未完成交響曲」については、あれこれとロマンチックな物語がつきまとっているが、それらの物語はおおむね後世の人びとの創作であって、その真実はあまりにも世俗的だ。すなわち、かれは一八二三年に、ウィーン音楽家協会の会員になれないものか、という思惑からこのシンフォニーの二つの楽章をとりあえず友人のA・ヒュッテンブレンナーに提出した。作品はいちおう審査の対象になったが、シューベルトは会員になることができず、またヒュッテンブレンナーは楽譜をシューベルトに返却するのを忘れてしまった。どっちみち、資格審査のために書いたシンフォニーなのだから、シューベルトも返却をさいそくしなかったらしい。  その楽譜はシューベルトの死後四〇年ちかくも放置され、一八六五年にJ・ヘルベックがふとした偶然から発見し、やがて上演されて好評を博することになった。ほんらい四楽章から成るべき交響曲が、こんなふうに「未完成」におわったのは右のような事情による。  蛇足ながら、シューベルトはその生存中作曲家としてほとんど認められなかった。楽譜の出版社は、小曲などをときどき買ってくれたが、あとは原稿のまま死蔵されていた。シューベルトの弟は、のこされた楽譜を売り歩いたがいっこうに売れない。ヘルベックによる「未完成」の発見が契機になって、やっとシューベルトの楽譜は有名になり、のこりの原稿もそれから売れはじめたのである。   12月20日 ■ふしぎな読書家■一六三二(寛永九)年一二月二〇日、幕府は書物奉行という職を設けた。いわば日本における最初の司書というべきであろう。  さて、読書家はさまざまだが、読書史上にはずいぶんおもしろい人物がいた。ジェームス六世のころA・アームストロングなる男はヒツジを盗んだというので死刑を申しわたされた。一六世紀といえばまだ文盲率の高い時代だったが、さいわいなことにアームストロングは文字を読むことができた。どうにか生命ながらえる方法はないか、とかんがえたあげく、出来たての「欽定聖書」を読みおわるまで処刑を延期してください、と請願したところ、ジェームス六世は感心してその願いをききいれた。  アームストロングは、あたらしい聖書を一冊あたえられ、それを一日一行、というゆっくりしたスピードで読む、と宣言。そのユーモアのセンスが王様の耳に入ると、アームストロングは死刑囚から一躍、宮廷員の身分にとり立てられた。  いっぽう、パリの公立図書館には二〇世紀のはじめまでG・レバイアなる男が六〇年間毎日通いつめ、『ティアヌのアポロニウス』という本のおなじページを、飽きることなく、くりかえし読みつづけた。本の読みかたにはいろいろある。 ■岸田劉生と目薬■岸田劉生(一九二九〈昭和四〉年一二月二〇日没)の父は、明治の新聞人として有名な岸田吟香である。吟香は岡山の出身。一七歳のとき江戸に出て林図書頭の塾で勉強したのち、日本最初の新聞「横浜新報」に記者として就職し、明治六年「東京日日新聞」に招かれてそこのスター記者となり、のち、主筆になったが、そのかたわら、銀座に「楽善堂」という薬局をひらき、商売にも熱をいれた。さて、この「楽善堂」の花形商品は「|精※[#「金+奇」]水《せいきすい》」という目薬である。この処方は、吟香がヘボン先生から伝授されたもので、かれはその宣伝に精力をかたむけた。たとえば火事があると、大量の「精※[#「金+奇」]水」のびんをかかえて現場におもむき、灰や煙で眼を痛めた人びとにこの目薬を売りつけたりもした。その甲斐あって、「精※[#「金+奇」]水」の売行きはめざましく、のちには中国大陸にまで販路をひろげた。  吟香は、この目薬の製造販売業を長男にゆずった。絵画を志した劉生は四男である。   12月21日 ■クロスワード・パズルの起源■クロスワード・パズルが最初にあらわれたのは一九一三年一二月二一日の「ニュー・ヨーク・ワールド」紙の日曜版であった。これを考案したのは、同紙の編集者で、リバプール生まれのイギリス人、A・ウェインである。だが正確にいうと、これはかれの発明ではない。というのは、これに似たことば遊びがかつてイギリスにあったからである。ウェインは、イギリスですごした少年期のぼんやりした記憶から、このゲームを思いつき、日曜の娯楽ページに掲載してみたのである。  このパズルは、数年のうちにアメリカおよびイギリスのほとんどすべての新聞の紙面をにぎわすようになり、一九二四年には、パズルを集大成した書物が出版されて、一躍、大ベストセラーになった。クロスワード・パズルのファンには二種類ある。第一は、あらゆる辞書や事典を手もとに置いて挑戦する学究型、第二は、いっさい参考書を用いず、もっぱら直観にたよるタイプ。そして、このゲームのファンたちは、当然のことながらスピードを競う。いまのところ、ロンドンの「タイムズ」紙のパズルがその競争の基準になっており、それをいちばんはやく解いたのはR・ディーンなる人物。所要時間は三分四五秒。それと逆に、おそいほうの記録としてのこっているのは、南太平洋のフィジーに住む婦人で、彼女は一九三二年四月の「タイムズ」のパズルを一九六六年五月に解いてそれを「タイムズ」紙に送ってきた。つまり彼女は三四年間を費してやっとひとつのパズルを解いたのである。 ■掃除機のはじまり■掃除を機械化しようというアイデアに最初にとりつかれたのはイギリスのJ・ヒューム。だが、これはゴミを吸いとるより、むしろゴミをまきちらすことのほうが多かった。しかし一八四二年になると、J・ホイットワース(一八○三年一二月二一日生)が回転ブラシつきの道路掃除機をつくり、五年後には室内用掃除機の製作に成功している。  一八七六年には、M・ビッセルという陶器商がさらにそれを改良してこまかいゴミを吸いとる機械を開発。陶器商と掃除機というのは珍奇な組み合わせだが、ビッセルは陶器の梱包材料のワラにアレルギーがあり、どうしても店内のゴミを掃除する必要にせまられていたのである。ホイットワース式もビッセル式もともに手動式だったが、折しもパスツールの細菌論が発表され、またナイチンゲールも衛生思想の普及につとめていたから、人びとの関心はこの掃除機という新機械に向けられてきた。  この掃除機に電気モーターを利用することをかんがえついたのはH・ブースである。かれはモーターの力でゴミを吹きとばすべきかそれとも吸入すべきかという問題にぶつかったが、ある日自宅の床に寝そべり、口にハンカチをあてがってじゅうたんの表面から空気を吸いとってみた。ハンカチにはゴミが吸着した。それがヒントになって電気掃除機ができあがったのである。一九〇一年のことだ。   12月22日 ■ドストエフスキーの�復活�■二八歳の若きドストエフスキーは叛逆罪に問われ、セント・ペテルスブルグで銃殺されることになった。ともにとらわれた同志六人はセミノフスキー広場に連れてゆかれ、三人ずつ、目かくしをされて柱にくくりつけられた。兵士たちは隊伍をととのえ、六人の若ものたちに狙いをつけた。一八四九年一二月二二日のことである。ところが、指揮官が「撃て!」と号令をかけようとした瞬間に、ツアー、すなわちニコライ一世からの急使が到着、罪一等を減じてシベリアでの重労働四年、ということになった。文字どおり、一瞬の差で、ドストエフスキーは�復活�したのである。もはやこれまで、という最後の瞬間に、かれは兄のミカイルに手紙を書き、思うのは兄だけ、という有名な遺書をのこした。  だが文学者の�復活�のなかで、もっとも奇蹟的だったのは、ペトラルカであろう。一四世紀のこの有名なイタリアの詩人は、四〇歳のときに「死亡」した。当時かれの住んでいた町には条例があり、死者は埋葬に先立って二四時間のあいだ室内に横たえておかなければならなかった。その死体にむかって人びとが弔問する、というわけである。弔問客はつぎつぎにペトラルカの遺体にひざまずき、花をささげた。ところが、死後二〇時間を経過したころ、気温の変化によって、突如、ペトラルカは息を吹きかえした。かれは壇から起きあがり、じぶんの原稿の出来栄えが思わしくない、とつぶやき、世話のしかたがなっておらん、と召使いを叱りとばした。四時間後の埋葬をひかえて、いったん死んだはずのペトラルカは�復活�し、その後三〇年を生きつづけ、一三七四年に、七〇歳で、こんどはほんとうに「死亡」したのであった。   12月23日 ■アウストラロピテクスの発見■アウストラロピテクスといっても多くの人には馴染みがないかもしれないが、これはサルと人間とのあいだをむすぶ「猿人」のこと。ダーウィンの進化論で霊長類の進化の経路はおよそ見当がついたが、サルと人間とのあいだにはあまりにも多くのちがいがありすぎる。このふたつの動物のあいだには、中間項となるべき動物がいたはずだ。しかし、その動物はいっこうに見つからなかった。生物学者たちは、あるべくして発見されていないこの中間的動物を進化における「失われた輪」と名づけ、ながいあいだ疑問符をつけていたのである。  ところが一九四二年一二月二三日、南アフリカの解剖学教授R・ダートは、石灰石の石切場で偶然にもひとつの化石を見つけた。その化石にはありありと動物の頭蓋骨が刻みつけられている。しかもそれは人間のものでもなく、また類人猿のものでもない。ダートは賛否両論渦巻くなかでこの化石を「猿人」のものと断定、これをアウストラロピテクスと名づけた。その後にあつめられた化石から復元して推測すると、アウストラロピテクスはなかば直立歩行をしており、また、簡単な道具を使用していたらしいことがわかった。この「猿人」が地球上で生活していたのはいまから二〇〇万年ほどむかしのこと。これで人類進化の道すじの謎の部分がすこし解けてきた。 ■紡績機の発明■近代産業革命の基幹になったのはいうまでもなく紡績だが、これに先立ってイギリス技術院は「ひとりの人間がいちどに六本の糸をつむぐことのできる」機械を発明した者に賞をあたえる、という広告を出した。  これに応募して受賞したのはJ・ハーグリーヴス。一七六四年に「スピニング・ジェニー」という機械をつくり、その六年後に特許をとっている。この機械は手つむぎの工程を機械化したものだが、これを原型にして、つぎつぎに新型の紡績機械がつくられた。そして、より強力な動力源として水力を応用することに着目したのがR・アークライト(一七三二年一二月二三日生)で、あった。近代紡績業はアークライトにはじまるといっても過言ではないのである。   12月24日 ■サンタ・クロースの正体■クリスマスの主役はサンタ・クロース。略して日本ではサンタなどともいうが、そもそもの起源をたずねれば、この人物は四世紀のころ、小アジアのリシアにいたミラ大僧正セント・ニコラウスのことである。このセント・ニコラウスというのは、盗賊、強盗の守護神であった。こんにちでも、南欧、東欧などでは、スリのことを「セント・ニコラウスの騎士」と呼ぶ。また、中世以来、地中海や大西洋であばれまわった海賊たちも、海賊旗のしるしにセント・ニコラウスの肖像をあしらった。  これが西欧、北欧では、どういうわけか子どもを守る神様、というふうに変形する。これらの地方では、一二月六日が聖ニコラウスの日であり、この日にはサンタさんがふだん善行の多い子どもには贈物を、そして行いのよくない子には木の枝を持って訪れる、ということになっていた。その聖ニコラウスの日がクリスマスと融合して、一二月二四日にいつのまにやら移動したのである。  だいたい、クリスマス行事というのは融合・妥協の産物であって、この日がキリスト生誕の日である、という証拠はどこにもない。じっさい、キリスト生誕の日は聖書にも記載がなく、二世紀ごろまでは五月一〇日に聖誕祭がおこなわれていた。一二月二五日がクリスマスになったのは、キリスト教がゲルマン社会に入って、冬至祭と結合してからのちのことである。ほんらい砂漠地帯で生まれたはずのキリストが、雪のちらつくところを舞台に、しかも、モミの木だのトナカイだのといった北極圏の動植物とともにその生誕を祝われる、というのはふしぎな風景ではないか。  なお、クリスマス・プレゼントなるものがひろくおこなわれるようになったのは一九二〇年代以降、アメリカの百貨店資本がすさまじい宣伝活動をはじめてから以降のことである。 ■マーク・トウェインのタイプライター■一八七四年のクリスマスイヴに、マーク・トウェインは、ある店のショー・ウィンドウのなかでひとりの女性が「タイプライター」という機械を操作しているのに気がついた。じっと見ていると、なんと彼女は一分間に五〇語もの文字をその機械から打ち出しているではないか。そのスピードに感心して、かれはさっそく一台を買い求めた。代価は一二五ドル、レミントンI型というモデルである。しかし、それを持ち帰ってじぶんでキーをたたいてみると一分間に一六語しか打てない。かれはそこでやっと、機械をあやつるには「技術」というものが必要だ、ということに気がつくのである。  しかし、それにもかかわらず、トウェインは持ちまえの好奇心からこのタイプライターを使って、『ミシシッピーの生活』の原稿を打ちあげた。これが、かれの最初のタイプライターによる作品である。  もとより、タイプライターの発明はこれより古い。第一号は、イギリス人ヘンリー・ミルズによるもので、一七一四年に完成した。アン女王はこれに特許をあたえているけれども、それがどんなものであったかについては、なにも記録がのこされていない。一八二九年には、こんどはアメリカのW・バートが「タイポグラファー」という名称で印字機をつくったが、この発明は財政上の理由からゆきづまり、製品化には成功しなかった。それにつづいてつくられたのが、L・ショールズとS・ソウルの共同開発によるもので、これが完成したのが一八六七年。トウェインがクリスマスイヴに衝動買いしたのはこの製品であった。 ■ゴッホの耳■ヒュー・トロイなる人物はその一生をプラクティカル・ジョークに賭けたといってもさしつかえない奇人だが、一九三五年、ニュー・ヨークの近代美術館でヴァン・ゴッホの展覧会がひらかれたとき、霊感がかれの頭を横切った。ゴッホは、その生涯を極度の神経衰弱で終えた画家だが、よく知られているように、発狂してじぶんの耳を切りおとす、という悲惨な事件をおこしている。いったい、その耳はどこへ行ってしまったのか。  トロイは一計を案じ、牛肉の一片を買ってきて、それを人間の耳のかたちに切って乾燥させたのち、うやうやしくビロード張りの小箱にいれて展覧会場のテーブルのうえにそっと置き、「ヴァン・ゴッホがみずから切りおとして愛人に贈った耳 一八八四年一二月二四日」と解説をつけた。観衆はゴッホの絵などそっちのけで、この偽作の耳を見るため長蛇の列をつくった。 ■お地蔵さまの話■六世紀のグプタ王朝のころ、北西インドはエフタル族の侵入をうけ、仏教は完全に抑圧されてしまった。仏教徒たちはその現実のなかで地蔵菩薩というイメージをつくりあげた。つまり、釈迦が入寂して、未来に弥勒《みろく》の仏が出現するまでの暗黒の期間に人びとを教化し救済してくれるのがお地蔵さまだ、というわけ。このお地蔵さまは中国につたわると、地獄の閻魔《えんま》さまにたいして対抗関係をもつものとして解釈され、お地蔵さまを信仰しておくと、死後の世界で閻魔大王にいじめられないですむ、という因果関係が想定されることになった。日本でも、平安中期から末法思想がひろまり、それにつれて地蔵信仰がさかんになる。  さらに、日本のばあいには、土地の守護神たる道祖神と地蔵信仰とがむすびついて、お地蔵さまは街道筋や村の境界に石像として置かれることになった。道祖神というのは村に厄病や災悪が入るのをふせいでくれるサイの神のこと。したがって、お地蔵さまを祀っておけば無病息災でしかも極楽往生ができる、ということになる。日本全国にお地蔵さまが林立するようになったのはこのような事情が背景になっているからだ。  お地蔵さまは他のさまざまな民間信仰とも結合した。まず第一に、子どもの守護神、ということになって関西では夏の子どものお祭りとしての地蔵盆がこんにちなおさかんである。第二に、世俗的な現世利益とむすびついて、たとえば「延命地蔵」「とげ抜き地蔵」といった特定のご利益をもたらしてくれるお地蔵さまが生まれた。第三に、二十三夜の月待講とむすびついた「地蔵講」が催されるようになった。地蔵講は毎月二四日。きょうは「納めの地蔵」の日である。   12月25日 ■ロボットの歴史■ロボットということばはチェコ語の「ロビット」(Robit)から出ている。このことばは動詞で「はたらく」ということを意味するが、一九二三年にチェコの作家K・チャペック(一九三八年一二月二五日没)がその戯曲のなかで、これを普通名詞化して人造人間「ロボット」を登場させたのがはじまりである。  この「ロボット」は人間の肉体労働のみならず精神労働まで代行する機械である。そのはたらきがうまくゆかなければ、消耗した部品をとりかえればよろしい。そして、そんなふうにしてつくられた「人造人間」は、やがて、人間に反抗しはじめる。人間がつくったロボットは人間に叛逆するのだ。チャペックは、この戯曲をつうじて近代機械文明と人間とのかかわりの逆説をえがこうとしたのである。  それ以来、「ロボット」は、機械人間として造型化され、古典的なSFの主人公となった。一九二七年にはアメリカの電気技師ウェンズリーが鋼鉄製の人形をつくり、そのなかに電子機器をいれて、電話による指令でうごく仕掛けをつくり、評判になった。  しかし、ロボットということばはかならずしもそのような造型化された人形を指し示すものではなく、こんにちの、さまざまな自動制御装置ぜんたいを示すものといっていいだろう。チャペックの視覚的ロボットは、半世紀のうちに、コンピューターを中心とする観念的ロボットに変貌したのである。   12月26日 ■超音波の発見■一八九八年一二月二六日、放射能を研究していたキューリー夫妻はラジウムを発見した。ラジウムが、その後医療や発光塗料などに応用されたのはよく知られているが、ピエール・キューリーはそれに先立って超音波を発見している。かれは石英のような非対称結晶に圧力をあたえると、正と負の電気がその結晶の両面に生じる。このように適当な大きさに切った石英が固有振動数にひとしい周波数の電流をうけると、きわめて高い周波数の波、つまり超音波を発するのだ。  やや話はむずかしいが、人間の耳できこえる範囲の音の波長には上限と下限がある。その範囲をこえた超音波は、人間以外の動物、たとえばコウモリやイヌなどには感知される。これらは高周波音だが、超音波は、反射波を生じながら直進するので、たとえば鋼鉄の割れ目やひびを探知するのにも使用されるし、さらにバクテリアを殺す効果もあるから牛乳その他の殺菌にも使われる。また最近では超音波洗浄や、超音波の反響による画像処理といった、あらたな応用方法も開発されるようになった。 ■考古学のロマン■ドイツのメクレンブルグの貧しい牧師の家に生まれたH・シュリーマン(一八九〇年一二月二六日没)は、幼いときからギリシャ神話の世界に夢を馳せていた。そして、その神話を現実に復元させてみたい、という衝動をおさえることができなかった。しかし、そのためには資金が必要だ。かれは、商才にめぐまれていたので実業家としての道を歩み、ロシアで大成功をおさめて巨万の富を築いた。そして、その資金を投入して古典世界の考古学的調査・研究に挑むことにしたのである。  かれはとりわけホメロスの詩にうたわれたトロイに注目し、ホメロスがえがいたことがらは真実だ、という確信のもとに一八七〇年から発掘作業にとりかかった。かれは専門の歴史学者や考古学者のあいだにゆきわたっていた定説をくつがえし、ヒッサリックの丘でみごとにトロイの町を発掘し、その周辺に続々と住居のあとや城壁を発見することができた。その後、ミュケナイの発掘にも成功し、シュリーマンは、アマチュア考古学者から一躍、世界的名声を獲得したのであった。かれがこれら一連の考古学的調査研究にとりかかったのは五〇歳のときであって、それは長年にわたるロマンの開花であった、といってよい。シュリーマンは、これらギリシャ文明とオリエント文明の接点をもとめてクレタの発掘にも興味をもったが、それはついに果たせないままに死んだ。   12月27日 ■書の起源■日本の書家として知られる小野道風は九六六(康保三)年のきょう没しているが、文字を書くことを芸術の一ジャンルとしたのは、いうまでもなく中国である。西洋でも文字を鑑賞の対象とすることがあるが、中国をはじめ朝鮮半島、日本といった漢字使用国では、そもそも文字というものが発生したときから書は芸術であった。じっさい、紀元前一四世紀ごろの殷時代に、すでに数種類のことなったデザイン感覚による文字が出現しているといわれる。  しかし、書を美術として歴史上に登場させた人物はなんといっても王羲之だ。かれは、楷・行・草の三つの字体を完成させた。およそ四世紀なかばのことである。しかし、王羲之の時代は中国が南北朝に分裂していた時代であり、かれの書はもっぱら華南のものとされ、華北にはそんなに影響をおよぼすことがなかった。とはいうものの、唐の太宗がかれの書をあつく崇拝したことなども手つだって、王羲之の書は連綿と中国の美術史のうえにのこっている。  日本でも最澄などは王羲之の「一七帖」を持ち帰り、これがいわば古典的なお手本となったが、それを下敷きにしながら、よりやわらかい和様のスタイルをつくったのが小野道風なのである。それは、中国の書にみられるきびしい姿勢をうけとめながら、それに抵抗したスタイルだ、といってよいだろう。藤原行成などは中国の書法により忠実だったけれども、道風のような「和様」が日本ではその後も主流になった。 ■世界一の仏塔■仏教国にはパゴダその他一般にストゥーパと呼ばれる塔があることは別項(七月二二日)にみたとおりだが、最大のストゥーパはインドネシアのボロブドール遺跡である。ボロブドールはジャカルタの北西およそ三〇キロのところにあり、いまからおよそ一〇〇〇年まえ、サイレンドラ王朝のころに建設された。  巨大な方形の基礎のうえにまず方形で五層に台が置かれ、それに三層の円形の塔が築かれている。基礎の大きさは一辺が一二〇メートルほどで、高さは三一・五メートルある。各層とも丹念につくられた回廊でかこまれ、そこにはこまやかな彫刻がほどこされるとともに、おびただしい数の仏像が規則的に配置されている。また、このストゥーパは、みごとな教育的配慮によって設計されており、下層では仏教への入門的な知識をあたえ、上層にゆけばゆくほど深遠な教理が説かれて、その頂点で大乗の悟りへの開眼がおこなわれる、といった編成になっている。  仏像の様式は古典的なグプタ王朝のそれを模してつくられており、そのすべてが等身大。おそらくこの建設に従事したのはインドからきた工人であろう、と推定されている。いったいどうしてこんな建造物がつくられたのか、また、そもそもボロブドールという名称がなんであるのか、すべては謎につつまれている。インドネシアは、こんなふうに仏教の影響をうけ、さらにその上にイスラムがかさなり、オランダの植民地になり、さらに太平洋戦争中は日本軍に占領される、といった多重的な歴史をたどりながら、一九四八年一二月二七日に独立した。   12月28日 ■シネマトグラフ初公開■一八九五年一二月二八日、リュミエール兄弟の発明した「シネマトグラフ」、すなわち映画がパリで公開された。この新発明は、その年の二月に特許を得たばかり。会場の「サロン・アンディアン」には、大きなシーツが張られ、そこに世界ではじめて「うごく写真」がうつし出された。べつだん凝った劇映画が上映されたわけではなく、リュミエールの経営する工場の工員たちが一日のしごとを終えて退社するときの実写フィルム。内容からいうとなんの変哲もないけれども、観客はこのあたらしい発明にひたすら驚嘆した。ただし、この日の観客数はわずか三五名。世界で最初に映画を見たのはこの三五名ということになる。 ■女性大統領?■アメリカの政治史上、大統領が女性であったことはなかったが、それにちかいことが一九一九年から二〇年にかけてあった。というのは、一九一九年の九月にW・ウィルソン大統領(一八五六年一二月二八日生)が演説中にたおれ、そのままホワイト・ハウスにかつぎこまれて人事不省になっていたあいだ、大統領夫人のエディスがかわって執務したからである。一九二〇年になると、ウィルソンの病状はすこしずつよくなり、大統領の職務にふたたびもどることができたが、歴史家の研究によると、そのしごとの大部分はエディス夫人が代行していたらしい。  じっさい、ウィルソンの病は重く、主治医のF・ダーカム博士はエディス夫人に誰かが職務を代行しないかぎり大統領の生命は危い、という警告を発していたようなのである。ほんらい、こういうばあい国務長官が代行すべきであったが、当時のランシング長官はかならずしもウィルソン大統領の政策をじゅうぶんに理解しているとはおもえず、したがって実質的にはエディス夫人が「大統領代行」という重大な職務をはたしたのであった。彼女は大統領の任期がおわるまで一七カ月間、実質的にその任にあった。  エディス夫人はアメリカ・インディアンの血をひいており、ウィルソン大統領の二番目の妻であった。   12月29日 ■コーヒー禁止令■イギリスではじめてコーヒーが飲用されたのは一六三七年、オックスフォードにおいてであったといわれるが、それから二〇年ほどのあいだにコーヒーはひろく民衆生活のなかに浸透し、市内の商人や株式仲買人などは、毎日のようにコーヒー・ハウスに出入りするようになった。そればかりではない、やがては一日じゅうコーヒー・ハウスにすわりこみ、そこで商談をくりひろげる、という習慣まで生まれてしまった。  ところが、コーヒーの流行は、かならずしも好意的にはみられていなかったようである。なによりも、女性たちがコーヒーに敵意をもった。それというのも、亭主たちがコーヒー・ハウスに入りびたって帰宅しなかったり、夫婦喧嘩などが起きると、男はさっさとコーヒー・ハウスに逃げこんでしまったからである。それに加えて、コーヒーは男性に有害であり、それはイギリスにおける出生率の低下と関係している、という学説まで登場した。それが『コーヒーに対する女性の請願』というパンフレットになって発表されることにもなった。  いっぽう、この非難にたいして、コーヒー好きの男たちは『女性の請願に対する男性の回答』なるパンフレットを発行。いわばコーヒーをめぐる男女両性間の論戦が展開された。こんなことは、どうでもいいような話だけれども、どういうわけか王位にあったチャールズ二世がこの論争に介入し、一六七五年一二月二九日に、すべてのコーヒー・ハウスを閉鎖すべし、という禁令を出した。王がコーヒーを愛好していたかどうかは問題ではない。王は、コーヒー・ハウスにたむろしている男たちが国家の治安を乱すような共同謀議をはかるのではないか、という不安をもっていたのである。しかし、この禁令はいっこうに実効をともなわず、コーヒー・ハウスは繁昌しつづけた。 ■未完のオペラ■C・ドビュッシーの出世作「絃楽四重奏曲」がはじめて演奏されたのは一八九三年一二月二九日のことである。このときからドビュッシーは楽壇にみとめられるようになった。かれは勇気百倍、この年からオペラの作曲にとりかかり、一〇年の歳月を費して「ペレアスとメリザンド」を完成させた。さいわいにしてこのオペラも好評だったので、かれはポーの「アッシャー家の没落」を脚色したオペラを構想し、一九〇八年にメトロポリタン歌劇場と作曲契約をかわした。本格的な演出の計画が立てられ、この風変りな作品が舞台を飾るかとおもわれたのだが、突如としてドビュッシーはしごとを中断してしまった。そして、そのかわり、ワグナーに対抗してあらたに「トリスタン」を制作しようとしたが、これは上演権をめぐってついに陽の目を見ず、さらに、かれが子ども時代から尊敬してやまなかったシェクスピアの「お気に召すまま」のオペラ化を構想したが、こちらのほうはプロデューサーがアヘン中毒にかかってしまったので挫折せざるをえなかった。ドビュッシーは一九一八年、五六歳でその生涯を終えたが、そのさいごの一○年間は、こんなふうに、三つの大きな作曲活動を構想しつつ、そのうち、ひとつも完成することがなかったのである。   12月30日 ■東京地下鉄のはじまり■地下鉄道を最初にこころみたのはロンドンである。一八六三年のことだ。ただし当時の地下鉄の動力は蒸気機関であったから、その煙を地上に排出するためにはたいへんな苦労がともなった。しかし、都市交通の手段として地下鉄の効率がいいことはロンドンの実験でじゅうぶんあきらかにされたので、その後、ブダペスト、グラスゴー、ボストン、パリ、ニュー・ヨークなどでつぎつぎに採用され、やがて動力も蒸気から電気に切りかえられ、快適な乗りものになった。ロンドンでも一九〇五年には電車になっている。  それを見てきた早川徳二は東京にも地下鉄をつくることをかんがえ、工事にとりかかって、一九二七(昭和二)年一二月三〇日、とりあえず上野・浅草間の二・二キロの路線を走らせた。ちょうど歳末から新年をひかえていたので、浅草の観音さまへの参詣客をもふくめ利用者は多く、とにかくこれに乗ってみようというので開業当日にはおよそ一〇万人の人びとがこの両駅に押しかけた。これはいうまでもなく、こんにちの「銀座線」の一部である。 ■マッチ沿革■一六八〇年イギリスのR・ボイル(一六九一年一二月三〇日没)が燐を発見すると、やがてこれを材料にして発火剤をつくってみようという人びとがあらわれた。まず、ボイルの助手であったG・ホークウィッツが硫黄をつけた木片と燐を摩擦の力で発火させてみたが、これはきわめて危険で有害ガスを発生させるものだった。  それから一五〇年ほど経った一八二六年、J・ウォーカーなる人物が「ルシファー」という名の発火剤を発明。これはアンチモン硫火物とカリ塩化物をゴムと水で溶いて軸の頭につけ、それを紙ヤスリでこする、という仕掛け。これを見たファラデーは特許を申請するようすすめたが、ウォーカーは無欲で、べつだん特許にこだわらなかった。このウォーカーの発明にヒントを得た人物がアンチモンのかわりに燐を使い、そこからこんにちのマッチが誕生することになる。これら一連の発明はイギリスがその舞台だったが、一八五二年になるとスウェーデンで非結晶燐を使った「安全マッチ」ができあがる。スウェーデンがこの製法を企業秘密とし、それを日本の清水誠がみごとに盗んできた産業スパイ物語は二月六日の項でみたとおり。   12月31日 ■エジソンと電気椅子■ニュー・ヨーク州では一八八九年一二月三一日から、死刑執行を電気椅子によっておこなうことが決定された。当時、アメリカの電力業界はまだその準備段階にあり、いっぽうではトマス・エジソンが直流を、他方ではジョージ・ウェスチングハウスが交流を、それぞれ電力供給の標準にすべきだと主張してゆずらなかった。ところが、電気椅子についての州の立法には、使用されるべき電流は交流と明記してある。ただでさえ電気は危険、という思いこみが民衆を支配していたから、この条文のおかげでウェスチングハウスは窮地に立たされた。エジソンがわは、ここぞとばかり、直流の利点を宣伝した。しかし、翌年八月、電気椅子による死刑囚第一号、ウイリー・ケムラーなる殺人犯の処刑がおこなわれるにおよんで、事態はあらぬかたに展開することになった。要するに、処刑は予定どおりにゆかず、ケムラーは八分間も電流を流され、苦悶のうちに死んだのである。思ったほどあっさりと人は電気で死なないものだ──交流反対論は、死刑の失敗のおかげでいつのまにか消えた。そしてアメリカの電力は、結局のところ、交流におちついた。 ■源氏と平家■紅白というふたつの色は、もともと源氏の白旗、平家の赤旗という源平合戦にその起源をもっている。もともと日本の戦陣では、錦、綾などに文様を刺繍し、それを軍旗としていたが、武士が勃興してくるとおおむね麻布などを白地のままでかかげるのが作法であった。源氏はその古式にのっとって白旗を守りつづけたのである。  それにたいして平家のほうは、赤一色とした。相手方の白に対する強烈な反対色、という意味で赤をえらんだのである。さらに、赤には敵を圧倒する示威的な効果もあるし、また味方の士気を鼓舞する効果もあった。ただ、日本の色彩哲学からいうと、赤も白も、清き心と誠実さをしめす色、という点では共通のものをわかちあっていたし、日の丸もこのふたつの色の組みあわせでできあがっている。この源平の紅白は、こんにちにいたるまで、力量の似通ったふたつのグループを対比するときに対照的に使用される。運動会の赤組、白組などもそうだ。NHKの「紅白歌合戦」がはじまったのは一九五一(昭和二六)年で、この年には一月三日におこなわれている。もちろん、当時、テレビはまだなかった。これが大晦日の公開放送になったのはそれから二年後のことである。 [#地付き]〈一年諸事雑記帳 了〉 [#改ページ]   あ と が き  わたしは、もともと「読書家」と呼ばれるような人間ではない。しかし、職業がら、いろんな本に目をとおす。ひとことでいうと、雑本乱読、というやつ。だから雑知識はいささか持ちあわせている自信がある。そこを見込んで、というか、そこに目をつけて、文春文庫の編集部が一九七七年の某月某日、そうした雑知識を一年三六六日に割りふって書きおろしをしないか、という話をもってこられた。  とにかくふだんからあれこれの本のなかに面白い話がいっぱいちりばめられていることをわたしは知っている。気がついたときにそれらをメモにして積んでおけば、この企画はたいした苦労なしにできるだろう──わたしは二つ返事でこの話にのってしまった。のったばかりでなく、この本は、まあ一年もあればできるだろう、と楽観主義をきめこんでしまった。  ところが、じっさいにやってみると、これはたいへんなことだ、ということが判明した。おもしろい話ならいくらもあるが、それを日付をたしかめながらきっちりと整理する、などというのは気の遠くなるような作業なのである。しかも原稿枚数にしておよそ一〇〇〇枚。それがことごとく二枚ほどの短文なのだから、文章生活をはじめて以来最大の難作業になった。だが、ものはかんがえようである。いやしくも文章をもってその生業となす者が、一日に五枚や一〇枚、書けなくてどうする──わたしは西鶴の「独吟一日千句」などをふと思い出し、書きに書いた。  さいごの追いこみの段階では『史話三六六日』(ブリタニカ)、『三六五日事典』(社会思想社)などを手許において、ヒントを得たり、ときにはそこに記載されている記事の一部を拝借したりした。その内容は歴史的事実にかかわるものだから、著作権法にはふれないはずだが、明記して謝意を表する。ひとつひとつの話の出典は、はっきりいって、わからない。わからない、というのも無責任だが、なにしろはじめに書いたように、これは雑本乱読の結果物。そのうえ、こういう話のなかには諸説入りみだれたものも多い。著者として、たいへん心細いおねがいだが、異説、新説など、読者からご叱正をたまわればさいわいである。  足かけ四年にわたるこの作業は、文春文庫編集部、とりわけ堀江礼一氏に鞭打たれることによってはじめて可能であった。また原稿の整理、清書、索引づくり、とめんどうな作業を黙々と手つだってくれた研究室スタッフ、そして学生諸君にもここであつくお礼申しあげる。  一九八〇年一〇月二五日 [#地付き]加 藤 秀 俊  この本は新たに書き下ろしたものである。 〈底 本〉文春文庫 昭和五十六年一月二十五日刊